牧師の日記  

      

No.12
「死後を考える仮説(4) 死後には老い、病気、障害が全くない」 
  
 聖書では人間の死後の霊界での姿はほとんど記されていませんが、幾つか記述されている箇所がありますので、見ていきたいと思います。
第1にパウロは死後に復活した体を「霊の体」(Tコリント15:44,46)と呼び、死後の人の霊体は「朽ちないもの」「輝かしいもの」「力強いもの」(同書15:42,43)になると述べます。もちろん、霊体と言っても、霊は「目で見ず、五感でつかめず、測ることのできない実存」(ウァルデマール・キッペス『スピリチュアルケア』で、所謂「非物質」ですから、パウロは誰もがわかる「霊の体」という言
葉を用いて、霊界での人間の姿を表現したに過ぎないと言えるでしょう。
第2にヨハネの黙示録21章4節の「『神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない』」というみ言葉と同書14章13節の「労苦を解かれて安らぎを得る」というみ言葉です。ここでは死後には「悲しみや嘆きや労苦もない」、また「労苦を解かれて」ということから推論して、生前のような老いや病気、身体の煩いや痛みや障害が死後には全くないことがわかります。
このことも臨死体験の事例と符合しているので、一つの臨死体験の事例を紹介したいと思います。
臨死体験研究の権威であるエリザベツ・キューブラーロス博士は過去十年以上も視力がなく、目の見えない患者達が、臨死体験中に自分を見舞いに来てくれた人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色までを確かに見て、正確に描写することを確認
しています(以上 飯田史彦『生きがいの創造』から)。
この臨死体験を例に取って考えてみても、障害やその他の病気というのはこの世、現世にだけあるもので、死後の霊界には存在しないということがわかります。
「霊そのものは病を患うことありません。(霊は)親の遺伝的体質や後天的性質は受け継ぎません」(『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』)と言われるとおりです。

 

 

No.11
「たった一つの不満のためにたくさんの恵みが見えなくなっていませんか」
                           (鈴木秀子)
 私達は毎日の生活をよく振り返ってみると神様から多くの無償の恵みを頂いていることに気づかされます。
「すばらしいものはみんなタダ。太陽、空気、水」(黒柳朝)という恵み、他には「目がある自分、家族がいる自分、身の周りにはたくさんの恵みがあふれています」(鈴木秀子『今日幸せになる171の言葉』)。
私達は生まれた時から神様によって「命と息と、その他すべてのものを与えて」(使17:25)頂き、さらに神様は「恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっている」(使14:17)のです。
アメリカのマティ・ステパネク君は生まれながらに筋ジストロフィーを発症したにもかかわらず、以下にある神様の恵みに感謝する詩を作りました。
「神さまへ 今晩は神さまに感謝します。きれいな朝やけをくれたこと丘のふもとのきりのむこうがピンク色だったこと すてきな虹をくれ たこと だいすきな色をひとつひとつ 指さしながら走れたこと水の上でオレンジ色にかがやく あんなすてきな夕やけをくれたこと。
今晩は神さまに感謝します。とくべつなプレゼントをくれたこと だけど、ほんとうは、なにもおこらなかった。でも、ぼくは神さまがすき。
 神さまに感謝することはほかにもいっぱいあるから。今日はとくべつなプレゼントがなくても大丈夫。神さま これからもたのしみに待っています。ぼくに明日があるかぎり」(『ハートソング』「神さまへ」)
私達は振り返って見るならば、たった一つの不幸、苦しみによって日々に神様から頂いている数々の恵みまでも打ち消してはいないでしょうか。また恵みが私達に一杯注がれているのに、たった一つの不満などによって多くの恵みに感謝することを忘れてしまっていることはないでしょうか。
確かに苦しみや不満があると神様に日々の恵みを感謝することは難しいと思います。
しかし、私達はまず神様から与えられている一つ一つの恵みに気づき、いつも神様に感謝する日々に変えられていきたいと思います。

 

 

No.10
「死後を考える仮説(3) 死後に親しい人達と再会できる」 
  
 聖書では死後に死者と再会するというそのことについては、直接的には言及していませんが、間接的にそのことを言っている箇所があります。
それはヨハネの黙示録21章3,4節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない』」というみ言葉です。
この箇所は死後の生活を描写しているのですが、そこでは「神が人と共に住み、人は神の民となる」と言われています。ここから死後に神様と人間の出会い、交わりがあると同時にすべての「民」と出会うことが前提にありますので、従って人々がそれぞれ死後に家族や知人などを含めた愛する人、懐かしい人に出会う、再会することになるということが導き出されます。
それ故に今は亡きキリスト教の神学者のカール・バルトは「私達が天国で私達の愛する人々にみな、再会するするというのは本当に確かでしょうか」と尋ねられた時に、彼は「確かです」と述べたのでした。
さらにこの根拠を強化することとして死生学の権威であるアルフォンス・デーケン氏が「死後に天国で復活して、先に亡くなった愛する人たちと再会」(『よく生き よく笑い よき死と出会う』)できると言っていることからわかります。
驚くべきことは最近の臨死体験(仮死状態から蘇生した人の死後体験)の事例が先述の聖書やキリスト教の学者の意見と符合していることです。つまり、臨死体験をした人が先立っていた近親者などと再会したという多くの事例が聖書の言うところと合致していることです。
臨死体験の立場から言えば、臨死体験の医学分野で世界の第1人者のE・キュブラ−・ロス博士は二万件にものぼる臨死体験の研究をもとに、死後には「かつて愛した人、愛された人たちと再会し」(『人生は廻る輪のように』)、また「親しい人達と再会し、自分より、先に先に死んでいた愛する人たちに出迎えられる」(『死後の真実』)と断言しています。 
そのようなことから死後には「最愛の人」と「また必ず会える」(飯田史彦『生きがいの本質』)ということは天国での既成の事実で、確かのようです。(続く)

 

 

             

No.9
 
「死後を考える仮説(2) 死後は生前の生き方に応じた霊界の階層に行く」
  
  
先月の月報で掲載した聖書(ルカ161926)を見てみますと、「ある金持ち」は死後「さいなまれながら」「炎の中でもだえ苦し」むという「陰府」、即ち 「地獄」という世界に送られたと記されています。その送られた理由として彼は第1に「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」ということ。第2は彼の「門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、(彼が)その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」にも関わらず、金持ちは無視し続け、憐れみをかけなかったこと。第3に金持ちは「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてくださ い」と言うように、彼には平気で人をあごで使うような傲慢さが見られることが挙げられます。
  
他方「ラザロというできものだらけの貧しい人」は生前「悪いものをもらっていた」 故に、「宴席」、即ち、「天国」で「慰められ」たと聖書で述べられています。
  ここから導き出されることは、第1に生前の生き方がそのまま死後に影響、反映し、生前の思いや考え方、生き方によってある人は天国に、ある人は陰府に自動的に送られると言うことがわかります。
  具体的には「地上において他人のために役立つことをしたその行為によって、死後に落ち着く家と環境が築かれ、自分のことしか考えない人生を送った人は自分一人の侘しい環境の中に自分を見いだすことになる」(CA.ウイックランド『迷える霊との対話』)ということなのでしょう。
  第2は死後の世界には天国や地獄との間に「大きな淵」(ルカ16:12)があると言われているとおり、死後の霊界に階層があることを伺い知ることができます。

更に天国を詳しく見てみるとUコリント12:2節で「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」と記述されていることか ら、天国の中においても更に第一の天から第三の天に分かれてあるような階層、段階があるということが推論されます。
  以上をまとめてみますと「霊的世界は無数の階層に分かれていて、あなたは死後、あなたのたましいの成長のレベルに応じた境地に行くことになる」(江原啓之『スピリチュアルな人生に目覚めるために』)。または「その者 のたましいのあり方により、(霊界での)住むべき世界が違う」(江原啓之『スピリチュアルメッセージU』)という結論に導かれるのではないでしょうか。

 

     

No.8
「死後を考える仮説(1) 性格は死後もそのまま」
 
 聖書においては詳しく、死後や死後の霊界での具体的な生活などは述べていません。

しかし、部分的に聖書では死後について述べられていますので、その聖書を基にして、また他の書物を参考にして、一つの仮説を立てていきたいと思います。

 
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。

金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。
『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。

わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
  
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」   (ルカ16:1925)

  
ここではラザロと金持ちの死後が描写されています。ここで注目してみたい所は、金持ちの性質であり、彼は生前も死後も

反省せず、全く性格が変わっていないという点です。ここから導かれることは生前の性質がそのまま死後に持ち越されると言
うことです。つまり、死んでも何も個性が変わらないと言うことがわかるのです。
  もちろん、この聖書の箇所はたとえですので、死後そのものを映し出そうとする意図はないので、この箇所を根拠として

述べることは誤りと言えるかもしれません。
 しかし、この箇所はたとえとしても充分に死後の真理を含んでいると思われます。
なぜなら、最近の臨死体験の研究(エリザベス・キューブラー=ロス博士、飯田史彦氏など)などはそのことを証明していますし、

また「死んだからといって、その性格は変わるはずもない。生きていようが、死していようが同じ性格(は)そのまま」
(江原啓之『スピリチュアルメッセージU』とか、「(死後の)アイデンティーは変わりません。個性も変わりません。

個的存在としては生前と全く同じです」(『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方QA』)という説があるからです。(続く)

 

      

No.7
「内面を磨く」
 この世に於いては人は大体において内面よりも外面や外見を磨くことを推奨する傾向が強いのではないかと思います。

例えば、女性が男性に求める「収入が高い」、「学歴が高い」、「背が高い」という三高はその典型的な例と言えるでしょう。
 しかし、聖書においては全くそのことと正反対のことを述べています。
 「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。

むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、

神の御前でまことに価値があるのです」(Tペテロ3:3,4)と記されているからです。
 この箇所は当時の女性に対して言われているものですが、しかし、見た目を重視す
る現代の男女にもこのことは当てはまるのではないでしょうか。
 以上から私達は外面より、内面(心、魂)の装いに心がけ、今後も内面をより重視して磨いて行きたいと思います。
  「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」 (箴言4:2
3)  「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」
                                      
(マタイ23:26)

 

      

No.6
「信仰の度合い」
 ある囲碁会の話です。「囲碁会では才能の開花は早くないとダメなように言われていますが、私は成長のペースは人それぞれだと常々に思っています。
 人生遠回りは悪くない」と囲碁会のある人は語っていました。同じようなことは信仰にも言えるのではないでしょうか。何故なら、私達も
信仰の「開花は早くないとダメ」とどこかで考えてしまいがちだからです。
 しかし、ローマ人への手紙12章3節によると、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」と記されています。ここから聖書では信仰というのは人それぞれ度合い、程度、段階、差があることを前提としていて、信仰の成熟さの早い、遅いは関係ないことを教えています。従って、「自分で信仰が遅れている」とか、「自分の信仰は浅い」とか思って他人と比較してあせる必要はなく、マイぺースで進めばいいのです。

   「人類は知性・道義心・霊性において、一人として同じレベルの者はいないと
    いうことです。」         (スピリチュアルな生き方Q&A)

   「止まりさえしなければどんなにゆっくりでも進めばよい」(孔子) 

 

 

No.5
「神様の指導」
 
 「ヒカルの碁」という有名な漫画があるのですが、その中で碁の対局という場面があります。その碁の対局で指導碁というのがあるそうなのですが、それは「相手を正しい筋へ導いてやるのが目的です。言葉はいりません。一手一手が語る」と書いてありました。
   このことを私は見た時に正に人間に対する神様はそうではないかと思いました。神様は私達一人一人に対して、言葉をかけずとも私達の誤りや間違いを正し、正しい道へと導き、一つ一つ指導してくださっておられるからです。

     「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。」
                          (詩編37:23)
  
  「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
                         (ヨハネ14:26)

  「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:6)

 このように神様は私達を常に背後からあたたかく見守り、私達の益となるように指導してくださっていますので、私達はこの指導される神様に生涯、忠実で従順でありたいと思います。
 

 

 

 No.4

 

 「自分を愛する」
 人は過去の自分の過ちや罪に対して良心の呵責を覚えて、自分を嫌悪し、非難・否定し、自分を責めて責めまくるということはよくあるものです。
しかし、そのような人に対して聖書は次のように言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と。
このみ言葉の意味は隣人を愛しなさいという命令ですが、ここではその隣人を愛する前に、まず「自分を愛する」ことを前提としています。

つまり、自分自身を否定せず、まず何よりも自分を愛しなさいと述べるのです。
具体的には「自分を愛する」というのは「自分を受け入れ」(鈴木秀子『愛と癒しの366日』)、「自分を大切にすること」(同著『今日幸せになる171の言葉』)と言えるでしょう。
 
昔、マラソンで活躍した有森裕子選手がマラソンでゴールした時のインタビューで「自分をほめてあげたい」と語り、また最近でも自分に対して「フレーフレー私」と自分にエールを送っているCMがありました。
そのように私達も自分を責めるのでなく、自分を受け入れ、赦し、もっと自分自身を誉めていたわり、自分自身を大切にしていきたいと思います。   

 

 

 

      

      

 No.3

「救い」
 ある歌詞に「本当は誰もみな、声にならぬ叫び抱えて、もがいてはあきらめて、今日という日をぬりつぶしている」(平井堅『リング』)とあります。
 そのように私達は仕事や人間関係や病気などによって声にならない悲しみや辛さや苦しみを抱えて、あきらめたり、もがきながら今日の日を生きているのではないかと思います。
 
その声にならないたましいの叫びを聞いて唯一救ってくださるのは私達を創造された神様です。
「それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを 嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました。」 (詩編31:23)

「哀れな人を守ってくださる主は弱り果てたわたしを救ってくださる。   (詩編116:6)

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。」       (Uコリント1:8−10)

 私達はもがき苦しんでいる時に、救いの神様が私達を救ってくださるのだということを信じて、私達は希望を持って生きて行きたいと思います。

 

               

No.2

「涙」


 私達は時として悲しみや辛さや苦しみのあまり、泣きたい時、また泣いて しまう時があります。ある詩を以下に紹介します。
 なぜ涙が出てくるのか、不思議に思いました。
 物事はあてにしていたような結果になりませんでした。
 しかし神はそばにお立ちくださり、落ちる涙をご覧になっています。
 涙は神がおわかりになる言葉です。
 神は打ちひしがれた魂の涙をご覧になっています。
 神はあなたの涙をご覧になり、その落ちる涙の声を聞いておられます。
 神は人と一緒に泣いてくださり、手を取ってくださいます。
 涙は神がおわかりになる言葉です。
 悲しみがあなたをみじめにするとき、涙を流させるのです。
 その重荷にとうてい耐えきれないように思うでしょう。
 しかし、神はあなたをお忘れではありません。神の約束は変わりません。涙は神がおわかりになる言葉です。」
    (ゴードン・ジェンソン『涙は神がおわかりになる言葉です』)

  「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」   
                               (エレミヤ31:16)

  「目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」
                        (ヨハネの黙示録7:17) 
 
  「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」
                         (ルカ6:21)

 イエス様は常に私達のそばにおられ、支えてくだっていますので、私達に「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)

と慰めて語られるのです。私達はこのことを覚えたいと思います。

 

 

 

 

No.1

                                         

今日から不定期で牧師が普段思っていること感じていることを書かせていただこうと思いました。

その日記が皆さんのたましいの糧となれば幸いです。
 さて、昔、ある信徒さんに教会の中で何が一番大切だろうかと聞かれ、私は「優しさ」と答え、その信徒さんが納得されていたことを思い出しました。
 最近、いじめにあって自殺した女の子の詩が歌になったというテレビが放映されていましたが、その女の子は自殺する前にお母さんに「優しい心が一番だよ。その心を持っていない、あのコたちの方がかわいそう」と言ったそうです。

もちろん、これは恨みの言葉ではなく優しさを持っていない子たちへの憐れみ、同情だったということは言うまでもありません。

 

「人にとって最も必要なのはやさしさです。
 空に満ち、地をおおうほどのやさしさです。
 やさしさがすべてです。」
             (鈴木秀子 『今日幸せになる171の言葉』)

「優しさは大きな力です。優しさよりも大きな力はありません。優しさを送 り続けていれば、いつか自分に戻ってきます。

いつも人の助けになるように心がけていると、あなたが本当に助けが必要なときに、必ず思わぬ助けに出会います。実行してみてください。」  

(バレンタイン・デ・スーザ『そよ風のように生きる』)


 トップへ戻る