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1.華陽院殿とその周辺
 

 華陽院殿は徳川家康公の外祖母にあたり、また家康公の祖父松平清康の妻でもあった人物である。
家康公の生母『於大の方(伝通院殿)』の母親である事は歴史に多少とも興味のある人ならば聞いたことはあるかも知れませんが、その実どんな人物であったか、どのような事跡を残したかはあまり分かっていないのが現実である。また、出生並びに婚姻についても、年齢においても正確な資料が残されていないため江戸時代初期より色々と説がある。
 
 まず出生について書き並べてみると、江州佐々木氏流の尾張・青木加賀守弐宗の娘であり、あるいは尾張・宮の善七の娘であり(尾張志では宮野善七郎とあり)、三河寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女、または実の娘であり、また川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘とある。
 
 名前についても「於富の方」あるいは「於満の方」などと言われている。
 成長の後、三河の大河内左衛門佐元綱の養女になったということは諸説とも一致している。
 また婚姻についても様々なことが言われている。まず『玉輿記』によれば、はじめに尾張刈谷の城主水野右衛門大夫忠政に嫁ぎ、家康公の 生母『於大の方(伝通院殿)』および水野織部正忠守、同備後守忠分、同和泉守忠重等を生んだ。
 
 その後、水野忠政が病没したので養家の大河内左衛門佐元綱の所に帰居していたところ華陽院殿が三河で稀れに見る美女であったため世良田(松平)次郎三郎清康がみそめて妻にと所望したが養家では華陽院殿が松平清康より年長であったため不承知であった。それを宮の善七のとりなしで、また一説によれば奪取して松平清康と婚姻させたと言われている。
この宮の善七とは尾張の熱田庄、宮の城主だとも言われ、本名を岡本善七秀成と言い、後に関係してくる尾張津島の大橋家の一族だともいわれている。このことが事実ならば華陽院殿の身近にいたことになり十分に可能性がある。
 
 華陽院殿は松平清康と婚姻し二人の間には松平広忠の御舎弟源次郎信康と女子一人が生まれており、信康は天文九年六月六日安城の戦いで討死し、女子一人は初め長沢の松平上野介康高(忠)に嫁ぎ、康高が没した後、酒井左衛門尉忠次の室となり、名前を「碓水殿」と言った。
 天文四年松平清康が病没したので華陽院殿は離別し、星野備中守秋国に嫁いだがまもなく秋国が没したので離別し、菅沼藤十郎興望に嫁いだ。(水野忠政病没とあるが忠政は天文十二年五十五歳で没したと伝えられており、松平清康は天文四年に尾張清洲の織田信秀を攻めようと西上の途中、守山において家来に討たれ不慮の死を遂げたのは周知の事実であり、水野忠政没後では華陽院殿が清康と婚姻することは不可能である)。以上のように記載されており、また『柳営婦女伝系』にも大同小異であるがこれらの事が書かれており、菅沼藤十郎興望(定広が正しい)没後さらに川口帯刀先生盛祐に嫁いだとある。
 この頃においては何度結婚していてもなんら不思議はないが何れの夫に死別してから次の夫に結ばれているので「於富の方不幸の事に逢う給ふと申すも都合四五度御重嫁、乱世の時節はかかるためしも有る事なれど後世是を不審せり」と書かれている。
 また明治時代に出版された村岡素一郎著「史疑徳川家康事跡」にもこれらの事柄が書き並べてあり、この様に多端蕪雑にわたるものは到底信用することは出来ない。華陽院殿と甥の大河内源三郎政局が三河出身である事はこじつけもはなはだしい、沼津近辺の貧しい家の者であると極めつけている。同書により家康公替え玉説や四人説が発生している。

 晩年の華陽院殿は尾張より甥の大河内源三郎政局(政房ともあり)を伴い駿府に行き、知源院のそばに住み、今川家の人質として囚われていた幼少の家康公を母親の伝通院殿に代わって育て、教育したといわれている。これは伝通院殿の兄水野信元が織田の与党となったため、松平広忠に離別され、水野家に帰り、その後、知多郡阿古居城主久松佐渡守俊勝(後:久松松平家)に再縁していたためである。華陽院殿は家康公の人格形成に最も強い影響を与えたと云われ、戦国時代を強く生き抜いた美貌と慈愛と教養を兼ね備えた女性であった。

 @ 水野右衛門大夫忠政、A松平清康、B星野秋国、C菅沼興望、D川口盛祐(徳川家康公の研究で第一人者として有名な)中村孝也氏著『徳川家康の族葉』より。数字は華陽院殿が嫁いだ順番です。
 これを検証するには「寛政重修諸家譜」に夫々の登場人物の没年及び享年が記載されている。此れが正しいものとして逆算すると生誕日が判明するが、二三、不明な人物がおるので正確な事は解明出来ないが、下記『家康の母』に書かれているような順番にもなる。

 小説『家康の母』安西篤子著:読売新聞社刊があります。
 
 初め星野備中守秋国に嫁ぎ、すぐ離別し、川口文助盛祐に嫁ぎ、川口宗吉を産み、直ぐ別れ、その後菅沼藤十郎定廣に嫁ぎ十郎兵衛定氏を産みその後水野忠政に嫁ぎ、伝通院殿を産んだのち松平清康のもとに侍り、源次郎信康と女子一人を産んだのち水野家に帰っていたとあります。華陽院殿が初めての子川口宗吉を思っている描写もあります。それは娘が徳川家康公の嫡男広忠との婚姻に際して、於富の方が自分の半生を楞厳寺で語り聞かせる時で、「初めての子のいとしさ、また格別なのでしょうか。張った乳の痛さと赤児恋しさに毎夜、ひそかに枕を濡らしたものです」と、娘のお大も自分と同じ運命を辿らなければ良いと思い、出家させようとするが、「お大の宿世に_まかせなさい」と。和尚様に諭されます。
 赤子の泣き声を思い出そうとするかのように、お富の方はしばし、耳を澄ましていたが、やがて夢からさめた態で、寂しげにほほ笑んだ。「もとより、その後、一度も逢っていません。もう二十(はたち)歳は越している筈。無事に育って、宗吉と名乗り、織田どのに仕えていると、風の便りに聞いていますが」とお富の方は語り続ける。ちょっとしんみりする描写です。小説ながら真実に迫った本格的なもので私の好きな本の一冊です。

 『家康の母』:安西篤子著
 帯封より:政略結婚の悲劇から、わが子とも引きさかれ、再婚、出家と、波乱に富んだ家康公の母「お大の方」。
 その謎の生涯を、激動する戦国時代を背景に描いた書下ろし長編歴史ロマン。

華陽院殿が最後に嫁いだのは川口文助盛祐と言われているが、盛祐は尾張・津島・大橋中務大輔定広の次男であり大橋和泉守定安の実弟に当る。これは盛祐が大橋家の一族である、桓武平氏、高棟王流平宗清の末裔である川口雅楽助宗持の養子となった為「川口」姓を名乗っている訳です。一族関係が何時頃から始まっていたのかは正確な資料が無い為はっきりしていないが正長元年(1428)北畠親房の養子顕能の孫で伊勢の国司北畠満雅が、南朝の後亀山天皇の孫に当る小倉宮泰仁王を奉じて挙兵した時、大橋家、川口家も共に味方し、土岐大膳興安を討ったとあり、それ以前にすでに同族となっていたものと推察される。

 
戦国時代においては婚姻、養子縁組などは政治の常套手段として数多く使われており、
互いに相手を疑い信用得なかった為、婚姻や養子などという形で同族となり、一族や家の安泰及び発展を図ったのである。
 このように華陽院殿一人を通しても数多くの家々、人々が結びついており、
その頃の三河、尾張の一部ですが織田、徳川両家の狭間にあった諸家の繋がりや結びつきがおわかりに
なられたら、幸いです。
華陽院本堂前 
本堂内陣:御本尊阿弥陀仏座像
華陽院殿御肖像
市姫様御肖像画  

 市姫様は家康公の第五女である。慶長十二年正月一日駿府で生まれた(江戸説もあり)。生母は大田氏於梶の方(英勝院)である。伊達家と婚約を結ばれたが、慶長十五年閏二月十二日、齢四歳のとき卒(にわか)に病んで没した。
法号は一照院殿芳功心大童女という(清涼寺過去帳)。駿府華陽院に葬った。
画像と牌とを京都嵯峨清涼寺に置いた(源流綜貫)とあります。
   『家康の族葉』:中村孝也著より引用
画家(絵師)を清涼寺に派遣し、模写されたものだそうです。
               
       (ご住職堀田卓璽様の談話)
市姫様御肖像 
ご住職堀田卓璽様のご好意により本堂内において撮影させて頂きました。
誠に有難う御座いました。(2003・8・25:撮影)

 あと寺宝として市姫の枕屏風(伝:狩野光信・作)があるそうですが、江戸開府四百年 記念として東京の方で目下展示中とのことで拝観することはかないませんでした

                     
(2003・8・25:撮影)
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2.諸家の家譜と記録
3.大河内家と大橋家の関係
4.川口家縁故の地その1