9.華陽院殿関係資料
◆玉輿記 (家康公の御祖父 清康卿の奥方華陽院殿の伝)
抑東照宮の御祖母華陽院殿と申奉るは、始の御名お富の御方と申、世に隠れなき美婦人也。
養父は大河内左衛門元綱、始の名但馬守清成、祖は源三位頼政後胤にして、
三州額田郡の住人なり。お富の方実父と申は、尾州の住士青木加賀守式宗と申、其祖は江州佐々木京極の種類也。お富の方、其始尾州小川の城主水野右衛門大夫忠政に嫁して、一女三男を産り、則女子と申は、源君の御母堂なりし伝通院殿是也、男子は水野織部忠守・同備前守忠分・同和泉守忠重等也。然るに天文年中に右衛門大夫忠政卒す、依て後室お富の方、養父大河内の方へ帰る、時に世良田(徳川)二郎三郎清康卿、兼てお富の方を思召有て御したひ有により、大河内氏方へ被・仰入、しきりに御望有といへども、此時清康卿は十八歳にて、お富の方は廿三歳なりければ、両親御年不相応なりと、合点あらざりしにより、猶尾州宮の住士宮善五郎平秀成(本名岡本也)に、清康卿より御頼有しは、善五郎お富の方には叔父たるによりて、善五郎其意を得て、お富の方をうばひ取て清康卿へ嫁し奉る。則御男子一方、御女子一方産し給ふ、是松平源次郎信康卿、御女子は其始に松平上野介康高に嫁し給ふ、然るに康高病死後、御家臣酒井左衛門忠次に再縁し給ふ、是碓冰殿と申せし御方也。
一、お富の方、其始水野家にて産し給ふ所の御女子(後伝通院殿)一方有、相具して清康卿へ御入有しを、清康卿御養女と成して、御前室(江州の士青木筑前守貞景の女也)の腹に儲けさせ給ふ御嫡子成る徳川次郎広忠卿に娶合せて、奥方となし給ふ、是行合兄弟の御夫婦也。此御腹に家康公を儲けさせ給ふ、是お大の方と申奉る、御長生にて後年伝通院殿と申御方也。
一、 天文四年乙未十二月五日、尾州森山陣中にて、清康卿不慮の儀に御横死有、お富の方再後室と成給ふを、星野備中守秋国内室として、無レ程星野死去後、猶又菅沼藤十郎興望が妻と成給ふ。お富の方不幸の事に逢ひ給ふと申も、都合四五度御重嫁、乱世の時節はかヽるためしも有事なれども、後世是を不審せり。永禄三年庚申五月六日、大河内源三郎政房宅にて、七十余歳にて御卒去有、駿州宮ヶ崎少将松智源院に葬る。其砌の住持職智短上人也、此上人は家康公御幼少の砌、御手跡の師也と云、其弟子文慶は御手習御朋友也。右智短遷化の後、此文慶和尚を被・召出・、駿州狐ヶ崎に於て一宇御建立ありて、華陽院と号し、智短の開基として文慶上人住持す。然るに今三州鳳来寺及び同国の山中法蔵寺に、源君御幼少の御手習道具ありて、乱世の時節少将松智源院滅卻の砌、此寺へ奪い取来りたるものか。
東照大神君の御外祖を華陽院比丘尼と称し奉り、始の名は於岩(富)の方と称し、世に隠れなき美色なり、養父大河内左衛門尉源之(元)綱(始の名但馬守清成)は、其先源三位頼政の後胤にして、参州額田郡の住人なり、又実父ハ尾州住士青木加賀守弌宗と号す、是ハ江州佐々木京極の種類なり、於富の方、其始尾州小川の城主水野右衛門大夫源忠政に嫁して、東照宮の御母堂(後伝通院殿と号し奉る)、及其外男子水野織部正忠守・同備後守忠分・同和泉守忠重を産めり、然るに天文□年□月□日右衛門大夫忠政病死、仍て後家と成て大河内の家に帰居す。
或云、忠政に嫁して女壱人と男弐人を産て、忠政と離別し給ふと云々。
時に世良田次郎三郎清康君は兼て此於富の方を恋ひ慕ひ給ふ故、幸に大河内左衛門尉元綱方へ仰遣され、頻りに望み乞ひ給へ共、御年齢不相応たり、清康君は十八歳、於富の方は廿三歳なれば、大河内夫婦の者も合点せざりし処に、於富の方の叔父に尾州宮の城主に宮善七郎平秀成(本名岡本)に、清康君此事を一向に御頼みありし故、善七郎は於富の方を奪取て、頓て清康君に嫁し奉り、男子一人・女子壱人を産し給ふ、男子は松平源次郎信康君、女子は始長沢の松平上野介康高に嫁し給ひ、康高死後に酒井左衛門尉忠次に再縁し給ふ、是を碓水殿と称せり。
於富の方、始水野右衛門大夫忠政に嫁し、産たまふ処の女子を相倶して、清康君の家に来り給ひしを、清康君御養女と為して、清康君前室(江州住士青木筑後守貞景が女なり)の腹に儲け給ふ御嫡子徳川次郎三郎広忠君に取合せて家室と成し給ふ、是行合兄弟夫婦と成給へり、此御腹に東照大神君を儲け給ふ、時に天文十一年壬寅十二月廿八日なり。
八歳より十五歳まで、八ヶ年の間、於富の方御養育なり、東照宮の御尊母、始は於大方殿と称し、後に伝通院殿と号し奉りて御長生なり。
然るに清康君、天文四年乙未十二月五日、尾州森山の御陣中にて不慮の御横死あり、是に依て於富の方、又後家と成給ふ、後に星野備中守秋国が室となり、星野死去の後、又菅沼藤十郎定望が妻女となり、菅沼死去の後、川口久助盛祐が妻女となり給ふ。
於富の方、不幸の事に逢ひ給ひしか共、美質の聞えありけるにや、都合五度縁付給へり、乱世の時節には係るためしもあるものなれと、後人是を不審せり、
後年於富の方、剃髪染衣の身と成て、永禄三年庚申五月六日、大河内源三郎政房宅にて、七十余歳にて死去あって、御法名華陽院殿玉桂慈仙大姉と号し奉れり、是れ則ち東照宮の御外祖母の御事なり、駿州宮ヶ崎少将松智源院に葬れり。
其時に住持智短上人導師と成れり、智短は東照宮御幼少の時、御手習の師範と云。
其弟子に小僧文慶は、東照宮御手習の御朋友なり、智短遷化の後、文慶芸州広島城下浄国寺に住持す、然るに後年東照宮召出され、駿州狐ヶ崎に於て一宇を建立し、華陽院と名づけ、智短の開基とし、文慶上人住持す、然るに今参州鳳来寺及同州山中法蔵寺に東照宮御幼少の時の御手習道具有レ之、乱世の時節、智源院滅却の時
此寺へ奪取来るもの欺。
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◆「8.川口家関係資料」の文章「予ねてから念願であった静岡市玉桂山府中寺・華陽院を訪れた
・・・・墓石の周辺が紫色に・・中略・・・ 華陽院様が私にもう一度撮り直しに
来て欲しいと思ったのでしょうか・・・・・・云々」
この文章をお読みになった方には失笑・噴飯物だったかなと思われますが、
私の知識の無さが如実に表されております。
何もHPの奇を狙った訳でなく、気を引く為でもありませんでした。
読者の方がメールをくださり、その様な画像はデジカメにはよく起きる現象で
何も不思議な事でもないとお叱り受けました。
それだけではなく、修正方法をまで丁寧に教えくださいました。本当に有難う御座いました。所持している画像処理ソフトでは、元画像を出して、
「フィルター」の項目を選び「色調補正」の中から「階調の反転」で左記のような画像になりました。
