明治になってまもなくの頃の東京。師匠の家に居候していた若い落語家が独り立ちしようと貸家を探し始めた。前座から少し毛の生えたくらいの身分であり、常に財布は軽い。当時は新聞広告などもなく、家を探すのは自分の足に頼るほかない時代だった。彼は賃料の安い貸家を見付けようと、毎日暇を見付けてはあちこちを歩き回った。 八月末の残暑の強い日、下谷御徒町の細い路地の奥で程良い貸家を見付けた。当時はこういった貸し物件の場合、お客が自由にその家を見ることが出来るように、窓や障子を開け放してあるのが普通であった。彼は誰もがするように格子の入った窓から中を覗きこんだ。小さな家だから間取りなどは一目で分かる。薄暗さで分かりにくいが、さほど住み荒らしてもなさそうで、これなら気に入ったと思いながら、ふと奥の三畳間に眼を遣った。そこに留守番らしい一人の婆さんが座っているのが見えた。彼は婆さんに声を掛けた。が、いくら呼んでも耳が遠いのか、婆さんは気付かないようだった。 彼は何度呼んでも振り向きもしない婆さんに根負けし、その家を離れ、路地から出た。貸家の家主などを訊こうと路地の入口の荒物屋に立ち寄った彼は、いくら呼んでも返事をしない留守番の婆さんが居たことを告げた。店のおかみさんは急に顔色を変え「あっ。あのお婆さんが。また出ましたか」と言った。八月の真っ昼間に幽霊でもあるまいが、なぜか彼はその一言に怯え、早々にその場を離れた。 その日の夜、師匠のおかみさんに勧められて二十六夜待に出かけた。まず立ち寄った湯島天神の境内では多くの男女に老人や子供も混じり、大勢の人で混み合っていた。彼もその中に混じってブラブラしていたが群衆の中に昼間の婆さんらしき人影が立っているのを見つけ再びぞっとした。その婆さんだと言い切ることは出来ないが、非常によく似ていた。彼は薄気味悪くなり、そそくさとその場を離れた。二十六夜待の月は遅い。彼は方角を変え神田から九段の方へ行ってみたが、そこでまたその婆さんを見た。 再びそこを逃げ出した彼は、今度は芝の愛宕山へ登った。そしてそこでも、また高輪の海岸でも行く先々で人ごみのなかにその婆さんを見た。婆さんは睨むわけでもなく、声を掛けるでもない。ただ人ごみに混じって立っているだけだったが、彼はこの婆さんに取り憑かれたのではないかと恐怖した。月の出まではまだ時間があったが、彼はもうそんなことはどうでも良いと思い、早く家に帰ろうとして高輪から人力車に乗った。人力車が金杉の通りへ来た時、車夫は提灯の蝋燭を買うため道端に車を停め、彼を一人車上に残して傍らの荒物屋へ入って行った。 彼が乗った人力車の数メートル先の薄暗い路地に婆さんが立っていた。 彼は車から飛び降り師匠をひいきにしている船宿に転げ込んだが、婆さんは後を追ってくる様子はなかった。その晩はその船宿に泊めてもらい、翌日もう一度下谷御徒町へ出直しあれこれ聞いて回ったところ、かの貸家には今まで変わったこともなく、葬式が出たこともない。それまで住んでいたのは質屋の番頭さんだったが今も無事に暮らしている。ただ、その番頭さんが引っ越したのが盂蘭盆前で、そのお盆の迎え火を焚いた折り、一人の婆さんがその空き家へ入るのを見た人がいた。彼はその婆さんの幽霊に取り憑かれたかと思い込み、数日を半病人の様に過ごした。が、婆さんは二度と彼の前に現れず、件の貸家も十一月に昼火事により燃えてしまった。 ※ 二十六夜待(廿六夜待−にじゅうろくやまち) ※ 二十六夜以外に十七夜、十八夜、十九夜、二十二夜などの月待があるとされているが、一般に月待といえば二十三夜待がよく知られている。海浜や岬、内陸部では丘陵や山などの高い場所から月の出を待つ信仰で、江戸時代には日本の各地で行われていたようである。二十三夜待については江戸時代、主として7月(旧暦)の二十三夜に湯島天神などの高台や川崎などの海岸あたりで隆盛をきわめたらしい。 月待信仰ではそれぞれのアタリ日によって本尊が決まっており、二十六夜待の本尊は愛染明王とされていたが、その実態は信仰に名を借りた遊興娯楽だったということである。 |