セロニアス・モンク
1982年に没。
それ以後、聴き始める。
『せろにあす』という語句は『もんく』の枕言葉であり、句に『もんく』が付く場合、枕言葉として『せろにあす』は欠かせない。
『せろにあす もんくのいいぴん それ、ろんです ごっぱー』
ワケわからないな。しかも破調だし。
セロニアス・モンクのお噺で。
音楽をやっていて、それで喰えてしまっていた時代のスター・プレイヤーとしての名声があるのだが、実際、喰えていたのか。
死ぬまで生きていた、という事を考えると、実際、『喰えていた』のであろうな。
奇行ばかりが有名な音楽家、という見方もあるのだが、実際入ったのは音からであったので先入観は何も無く。
ビデオ観てぶったまげたね。
チャーリー・ラウズのソロのバックに音が聴こえなくなったナア、と思ったら立ち上がってステップ踏んでいやがる。今でこそ、そんな行為は当たり前になっているのでナニをやっていても驚かないのだが、その当時のジャズ熱に浮かれたワシにとって、それは驚愕、であった。あまつさえ、興が乗って来るとクルクル回りやがって。うひゃあ。イイノ?こんな事やって?ええーっ。思えば、その当時の、『自己の固くて狭い器量を発見した』、という所か。
ところがその後、フランス人のピアニストが書いたモンクの本を読んで、死にたくなった。あれあれあれ、誰かに貸したきりか。見当たらナイ。
ま、いいか。ロ−ラン・ド・ウィルドという人の書いた本であったか、確か。今、アマゾンでも売っている。読むと死にたくなる事請け合い。色川武大の比では無いが。
クルクル回るのは、あれ、ナチュラルで回っているのだ。気持ち良くなるとクルクル回ってしまうらしい。
作為的にクルクル回っているのではナイ、と。
たまに演奏以外で、サービスでクルクル回っているショットもあるのでおそらくそれは作為的であろうが。あーもう、ナンダカワカンナイ。
あー、谷岡ヤスジの『ビニールおじさん』がクルクル回っている絵が浮かんできてしまった。風に吹かれて。
『シュタッチ!』とか言って止まったりして。
あれもナチュラルにクルクル回っているんだろうな。
ウチにあるセロニアス・モンク関連のレコードは『コンプリート・リバーサイド・レコーディング』しか無いのであるがプレーヤーが壊れてもう十年になろうか、全く聴いてナイ。そこにある記録の数々を昼な夜なに聴いていた時期がある、というだけでいいのだろうか。
同じ時期にビル・エバンスのコンプリートも知り合いから買ったのだが、そちらは、つるん、と聴いて、オワリー。
エー、時期的に、キース・ジャレットの『スタンダーズ・トリオ』が出始めの頃かナア。『Still Live』とか。前後二〜三年。あー、そーいや、高校生の頃、そのトリオ観にいったからなあ。
いや、あの頃はまだ『キース・ジャレット・トリオ』であったか?『スタンダーズ』になる前に。メンバーは一緒なのだが、そんなレコードを出しているハズだ。持っているもの。
『ケルン・コンサート』なんざ大好きでね、もう。
荒くれ共が大量にいた時期だよなあ、今考えると。レコーディングして、世に出して、その反響で、世の中がハウリングを起こしていた時期か。ジャマラディーン・タクーマのソロアルバムやウィンダム・ヒル系列、ビル・ラズウェル系列、渡辺香津美の『MOBO』等々。チコ・フリーマンなどにも感動していた。そこいらでモンクは死んでいる。その前か?
今はどうなのかね?世の中にハウリングを起こすような音楽は出ているのか?
音楽業界自体がかつての日本映画界のように斜陽産業になって来ているのは間違い無いが。音楽業界全体の売り上げ、トーフ屋業界より、少ないっつーのはどうよ。
情報過多、で世の中が平たくなり、更に上、っつーのは、全体のレベルが上の状態に均一化される事により、ヒジョーに難しくなっているのかネ。
あー、それ、あるかもね。
以前テレビで大西順子がモンクのソロをコピーしてやっておったのを観たが(随分前だ)オッケー。その路線でやっておくれよ、とも思っていたのだが、あ、あいつ、止めやがって。エラソーに書くのは、学生時代のちょいとした後輩であっただけなのであるが、まあ耳が良い事この上無くピアノはナンでもスグ、コピーしてしまう。高瀬アキさんについていたのだが、レッスン当日、オスカー・ピーターソンのピアノを完コピしたのを弾いて『アナタは私にナニを習いたいの?』などと言わしめた逸材なのであるが、いや、勿体無い。耳が良いのも困りモノなのだろうか。
所詮コピーはコピーで、オリジナルを聴いていた方が、良いのかな、ヤハリ。
芸術は模倣から始まる、などと言われて久しいのだが、問題は、そこから先ナンだよなあ。
またもやエラソーに言っているのだが、『じゃあ、お前はナンなの?』と切り返されるとこちらが困ってしまう。
スパン、と止めた方が潔いじゃネエか。エエ?オイコラ。
モンクに心酔するという事はおそらく似たような精神状態なのであろうと思われる。最近、人嫌いが激しい。
躁鬱ナンですよ、ワシ。境界例ぐらいのボーダーラインもいいとこ。
年を取るにつれ、鬱の部分が無くなってきている、というマコトに『恥知らず』な状態が続いてます。常に、躁。
『今は、どちらナンですかあ?』『えー、そうですねえ』といったぐらい躁。
このツケを払うのが、怖い。
鬱がドカーンと来た日には、もう、ダメだろうね。フラフラ・ドーンで一巻の終わり。
アル・カイーダがワシの人生のピリオドを打ってくれる事を望みながらもそんな事はネエんだろうなあ。他人に頼ってはイケナイ。
地道に吉野屋に通ってBSEを体内に蓄積してしまおうか。ナンだか、早ければ、来月あたりには牛丼の販売、しなくなるらしいゾ。安い牛丼も喰えなくなってしまう。牛角は大丈夫なのか?行かないから別にイイけれど。
晩年のモンクのような隠遁生活を送りたいのであるが、まだまだ世間が許しはしない。隠遁する金もネエ。一月で死んじゃう。
猿が隠遁雲に乗って世界の果てまで飛んでいってしまう。
世界の果てにある五本の塔に自分の名前を書き込み得意気に帰ってくるのであるがはてさてそれはお釈迦サマの掌をズーッといい気になってとんでいただけであり罰として岩に閉じ込められてしまう。岩猿としてしばらく佇んでおったが、西の方へ有り難いお経を取りにいくお坊さん、麻雀の好きな三索法師、岩猿のイーピンをツモって目出度く外に出したは良いがマチャアキは聞き分けの無いヤンチャな猿なのでサブロウソウのスジ。以外と字牌待ちだったりするので来る途中で手に入れた『念仏を唱えるとギリギリ締まる輪っか』をリー棒の変わりに出すとこれが全て『通し、通し、通し』当たる牌も念仏を唱えると『ロン!』と発声出来ないので出来た負債が三億五千七百三十万とんで五十円。点五でこれだけヤラれてしまったのでは我が身の一生の恥。かくして三索法師の身を守るべく負債を抱えた猿は共に天竺へ向かうのですがこれはまたのお噺で。『麻雀放浪記・天』の巻、これにて終了でございます。
セロニアス・モンクか、麻雀か、といったぐらいに、あの頃はハマっていたのだが、逆に言うと、麻雀をやると、モンクを思い出す。
クリント・イースト・ウッドが制作・総指揮の『ストレート・ノー・チェイサー』というDVDも持っているのだが、これもまた、ブルーのパッケージのごとくブルーな内容でね。
演奏的には、アート・テイタムの流れを汲むビイ・バッパー、といったカテゴライズが適用されると思うのだが、それだけじゃナイんだ。モンク、で、ハハア、と分かってしまう。音、聴いたら、一発でワカってしまう。
カーネギー・ホールでやったビッグ・バンドの頃が、一番、好きだな。などと書きながら、『本当にそんな時期があったのか?』と不安になり、今、ディスコ・グラフィを参照したのだが、何処にも『カーネギー・ホール』とは書かれていない。あれあれあれ。ナニ情報だよ。これは。っかしいなあ。
しかしながら、今、手に持った、レコードの重みを懐かしく思っている所です。ボックスだから重たいことこの上ない。
今持っているレコードはやはり自分にとっての宝物なのかなあ。
この、不必要にスペースを取る様々なソフト類たちは。
中学生の時からエア・チェックしたようなテープまで取ってあるよ、オイ。死ぬまでに、聞き返す時間は、ハタシテ、あるのか?
しかしながらDVDプレーヤーを買ってしまうとレコード・プレーヤーを置くスペースが無くなってしまうのだな。
今のウチに買っておかないと、レコード自体聴けなくなってしまいそうだが。
大体がPCを買った動機が『レコードのCD化』なのだが全くもってやっていない。そしてヒマが無い。そしてLPをCDにした後MP3とかにしてしまうとますますもってファイルが小さくなってHDD一個で足りてしまうと思われるのだが、そうしても、多分、絶対、捨てないんだろうなあ、レコード。
ちょっと『自分の中での捨てられないモノ』についてモンクを語ってみました。せろにあす〜。
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