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怪しい話U−394

「江戸の給料」

 江戸時代の武士というのは、金本位制ならぬ米(コメ)本位制で給料体系が構築さていて、大名と呼ばれる場合は、最低でも1万石という事になっていました。

 時代劇でおなじみの八丁堀同心の給料としてしばしば”三十俵二人扶持”と言い方がされるのですが、もちろん、三十俵ものコメを現物で貰ってもどうしょうもなく、年に三回に分けて為替で貰う事が多かったようです。

 つまり、コメ問屋などに給料として与えられたコメを売ってもらってその売却代金を給料として受け取る(そのため為替が成立した)という構造なわけです。

 したがって、コメの相場によっては受け取る金額が変動し、コメ本位制といいながらも、株の先物取引で給料を捻出していたような気がしないでもありません。

 一応、為替と引き替えという話にはなるわけですが、貨幣経済が発達し、庶民の生活水準が向上してくると、諸物価は値上がりし、武家の多くは生活が次第に困窮したようで、前借りということで現金を都合してもらっていたようです。

 それこそ、何年か先までの米を抵当に入れての前借りなわけですが、現在の公務員と同じように、よほどのことがなければ取りはぐれる事がないので、それこそ”生かさぬように殺さぬように”やっていた節があります。

 何しろ上に立つ大名に何百両、何万両という単位で借金していたケースが珍しくないわけですから、下々の武家達の困窮ぶりは押して知るべしで、倹約生活と言うと聞こえが良いですが、まさに”腹が減ってもひもじゅうない”の世界がそこにはあります。

 時代劇で同心といえば、自分たちで捜査を行ったり捕り物を行ったりしていますが、冷静に考えれば分かるように、今よりは面積が狭かったと入っても八百八町と言われた江戸の治安と行政を、10人前後の同心で維持できるわけもなく、現在で言えば、各課の課長級くらいの役職が平の同心と理解しておけば大きくは違わないようです。

 それは、給料の三十俵二人扶持ということにも現れていて、二人扶持というのが、個人的に雇っている家来の食費相当分ということで、逆に言えば、二人分の扶持米を出しているのだから、二人の家来は確保しておけということになっています。

 現行の制度に例えれば、年間に現金300万円と公設秘書2人分の人件費は支給するというのが、三十俵二人扶持の意味ということになるのですが、役職によって石高や扶持米というのは決まっている事が多く、実際に必要な経費と貰う給料との間の差によって、おいしい役職とさっさと辞めたい役職というのがあるのも現在と似ているかなと(笑)。

 もっとも、そこはそれよくしたモノで、才覚のある連中はさっさと副業に手を出し、正規の米による給料よりもよほど多額の現金を手にしていた人達も存在します。

 武家で比較的穏当なアルバイトは刀の目利きなど武具に関する余技のようなことではないかと思うのですが、一応、旗本であった勝海舟の父親(勝小吉)などもそうしたアルバイトをやっていたようです。

 ただ、平和な時代が長く続くと、全体に武芸の腕は落ちていくようで、斬首の対象になるような罪人が出たとき、見事に首を切り落とすだけの腕(と度胸)がある人が案外といなかったようで、その代役をやるとちょっとした小遣いになったみたいです。

 藩によっては、藩の方針として武家の内職を奨励するという、割り切った方針を採用したところもあるのですが、時代劇に良く出てくる傘張りといった手工業の内職だけでなく、金魚や鯉の養殖などブリーダー系の内職もあったようです。

 一家の亭主が内職にいそしんでいるとさすがにまずいということで、隠居がやっているとか、内儀がやっているとかいった事になっているケースもありますが、まあ、一家総動員というのが偽らざる処かなと。

 文化系では、やはり茶道、華道、香道、和歌、楽曲の類を教えるケースもあったようなのですが、こちらは弟子の数が多くなると下手に武士をやっているより実入りが良かったようです。

 意外と、武家の定番である剣術などの武術で身を立てるというのは珍しいケースだったようで、一度浪人してしまうと潰しが利かない人も多く、江戸時代も末期となると先祖代々の浪人という人達も珍しく無くなっています。

 ところで、時代劇で岡っ引きや同心たちが、市中の見回りの途中で袖の下を大店の商人などに要求したりするシーンがあるのも、そうでもしなければ食べていけなかったというなかなか切実な背景があったようです。

 これは、岡っ引きが実際に活動する現場の警官に相当するわけですが、実はかなり不安定な身分で、業務ラインとしては同心の子飼いというか、公式な経費では雇っていないため、年末になると、直属の同心に”来年もひとつよろしく”と契約更新をお願いしていたようです。

 逆に言えば、奥さんが裁縫などの内職や髪結い、料理屋の経営でもやっていなければ、岡っ引きの生活はかなり苦しかったということですが、このあたりまで踏み込んだ時代劇というのは減少傾向にあります。

 意外と給料が良かったのが各種の職人なんですが、ご飯が食べられるくらいの腕前になって親方から独立しようと思えば”お礼奉公”で数年は安価に手伝うことが要求される職種があったりしたように、細かいしきたりがあった上に、天候や景気に左右されたようで、それこそ雨の三日も続くと死にかねないところはあります。

 じゃあ、大店の商人はどうだったのかといえば、住み込みで衣食住は確保できるものの、小遣い銭を偶に貰うくらいの小僧や丁稚あたりを振り出しに、手代や番頭あたりまで成り上がるのに10〜20年はざらで、番頭からさらに暖簾分けとなると30代後半という、当時の平均年齢を考えると隠居をぼちぼち考える年が迫っていたようです。

 また、商人や職人といった自営業の場合、江戸では特に顕著でしたが、大火事などで一切合切を十年くらいのサイクルで無くす事も珍しくなく、その意味で、成り上がって行くには才覚や努力よりも火事に遭わないとか長生きをするとかいった運の方が大切なような気がしてきます(笑)。

(2005/11/08)


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