メディアとつきあうツール  更新:2008-02-07
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送の歴史「放送法制定までの経緯」1945〜50

〜すべての放送関係者・学生諸君必携〜

≪はじめに≫
「まもろう! 放送法──元政府高官の番組干渉はなぜダメか?」(「月刊民放」2005年4月号)を書いたとき作った年表で、随時加筆しています。この元政府高官は後に日本国総理大臣となり「戦後レジューム(戦後体制)からの脱却」を唱えたものの、政権を投げ出す醜態をさらしました。戦後レジュームからの脱却をいうならば、戦後スタートした制度それぞれについて戦前のそれと比較検討し、ダメなものは捨て、よいものは戦後60年をへてどんな問題が生じたかを検討し、修正する必要があります(自爆した首相からは、そんな問題意識が感じられず、抽象的なキャッチフレーズに終始)。私はアメリカがくれた多くの制度は、戦前のそれより断然よいと評価しますが、その典型が放送法でしょう。放送の歴史の一大転回点だった放送法制定までの経緯は、何からの、何のための「放送の自由」かを考えるよすがになるはずです。

≪このページの目次≫

1945(昭和20)年

8月30日
●連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが神奈川県・厚木に到着。
9月2日
●東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印。GHQ(General Headquarters=連合国軍総司令部)は、放送を含むすべての無線通信施設の現状のままの保全・運用を指令(GHQ指令第1号)。
9月10日
●GHQが「言論および新聞の自由に関する覚書」を発す。骨子は、平和国家として再出発する日本の将釆に関する建設的議論を助長、真実に符合せず公共の安寧を乱す番組の放送を禁止、当面ラジオ番組はニュース・娯楽・音楽を主体とし、ニュース・解説・情報番組の送出は東京放送局に限定、など。
●CCD(Civil Censorship Detachment=民間検閲支隊)がPPB(Pictorial Press Broadcast=映像・出版・放送検閲部)本部を東京に設置し、放送の事前検閲開始(PPBは9月26日に福岡、10月23日に大阪にも設置)。なお、電話・電報・手紙の検閲は通信検閲部が担当。
9月19日
●GHQが「日本ニ与フル新聞準則」(いわゆる「プレスコード」)を発す。
●逓信院が「民衆的放送機関設立ニ関スル件」を起案。25日に閣議了承。逓信院は、GHQによって日本放送協会の解体など日本の放送制度を根本から覆すような指令が発せられることを恐れ、新放送会社の構想を進めた。
【坂本ひとこと/逓信院のしたたかな作戦】
 逓信院は、放送協会を温存しながら、GHQが抜本的な放送制度政策を打ち出す前に、先手を取ってアメリカ型商業放送の設立構想を打ち上げた。これが潰されても、「それならばこちら」と官僚OBらを送り込んである日本放送協会を通じて放送に影響力を行使できる。日本放送協会が潰されても、「それならばこちら」と息のかかった民間放送をスタートさせ、これを通じて影響力を行使できる。どちらに転んでもよいように、二またをかけたわけだ。
 この作戦を指示したのは逓信院総裁・松前重義、立案に当たったのは電波局長・宮本吉夫、監理課長・荘宏、電波課長・網島毅とされている。
「民衆的放送機関設立ニ関スル件」
 逓信院は「溌剌タル民衆的放送ノ実現ヲ図ル為全波受信機ノ解禁ヲ機ニ」、放送協会のほかに新放送会社の設立を許可する方針を打ち出した。逓信院による新放送会社構想の骨子は、以下の通り。
9月22日
●GHQが「日本ニ与フル放送準則」(いわゆる「ラジオコード」)を発す。占領下の新聞・放送はこれらに基づいて検閲された。
「日本ニ与フル放送準則」(ラジオコード)
報道放送
A 報道放送ハ厳重真実ニ即応セザルベカラズ
B 直接又ハ間接ニ公共ノ安寧ヲ乱スガ如キ事項ハ放送スベカラズ
C 連合国ニ対シ虚偽若ハ破壊的ナル批判ヲナスベカラズ
D 進駐連合軍ニ対シ破壊的ナル批判ヲ加ヘ又ハ同軍ニ対シ不信若ハ怨恨ヲ招来スベキ事項ヲ放送スベカラズ
E 連合軍ノ動静ニ関シテハ公表セラレザル限リ発表スベカラズ
F 報道放送ハ事実ニ即シタルモノタルベク且完全ニ編集上ノ意見ヲ払拭セルモノタルベシ
G 如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ報道放送ヲ之ニ合致スル如ク着色スベカラズ
H 如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ軽微ナル細部ヲ過度ニ強調スベカラズ
I 如何ナル報道放送ヲモ剴切ナル事実若ハ細部ノ省略ニ因リ之ヲ歪曲スベカラズ
J 報道放送ニ於ケル報道事項ノ表現ハ如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ之ヲ実現シ又伸張スル目的ノタメニ特定事項ヲ不当ニ顕著ナラシムベカラズ
K 報道解説、報道ノ分析及解釈ハ以上ノ要求ニ厳密ニ合致セザルベカラズ」
(報道放送のほか、慰安番組、情報・教養番組、広告番組について規定があるが、省略)
9月25日
●GHQが日本人再教育を任務とするCIE(Civil Information and Education Section=民間情報教育局)を設置。中心となったのは米陸軍所属の心理戦争部。CIE設置に関するGHQ一般命令等4号によると、その使命は「マスメディアを総動員し、民主主義的理念・原理を伝播することにより、言論、出版、宗教、集会の自由を確立すること」で、CIE局長ダイク准将(Brig.Gen. K.R.Dyke)は「占領下のラジオ放送は、日本の放送施設を使い、CIEの管理下で運営する」と述べている。情報、教育、宗教・文化財、世論調査、社会学調査、総務の6部からなり、情報部企画・実施課とラジオ課が放送番組の制作や編成に関与した。
10月8日
●逓信院がGHQに「民衆的放送機関設立ニ関スル件」を説明。GHQは“Fine Plan”と受け取ったが、その後、まず必要なのはラジオの機能を回復することで、新放送会社の設立は時期尚早と退けた。(1)新放送会社の資本金では適切な放送サービスが期待できない、(2)新放送会社の放送が放送協会の放送に混信を与える恐れがある、(3)新放送会社は新聞社が株主になっているが、新聞が放送経営に参加することは疑問、(4)新放送会社の建設に必要な資材を現在の輸入枠で賄うことができない、などがGHQの掲げた理由。
10月16日
●日本放送協会の部課長が、従業員一同の代表として、
(1)逓信系官僚天下り理事の総退陣
(2)官庁との絶縁(協会を束縛する諸法則の撤廃)
(3)協会の機構、経営等を真に民衆の中に根を張ったものとすること
の3か条の改革案を決議し、大橋八郎会長に提出。
●10月25日には、協会全職員がこれに同意し職員大会を開催。放送事業運営の徹底的民主化、協会の自主性を阻害する逓信省出身者を中心とする首脳陣の退陣および官庁の干渉の排除、職員団体の結成を決議。
10月25日
●CIEラジオ課の放送主任官ロス大尉(Capt. W.V.Roth jr.)が、日本放送協会会長・大橋八郎、国内局長・矢部謙次郎ら幹部職員を集めて日本のラジオ放送への批判を語る。内容は、
など。こうした「示唆」「指導」「助言」は、ときに「指示」「命令」と受け取られることもあったが、新時代到来の熱気のなかでおおむね前向きに検討され、日本放送協会の改革に反映されていった。
10月30日
●日本放送協会会長・大橋八郎は臨時会員総会を招集し、会長、専務理事、常務理事、理事らの人事に関する主務大臣の認可権を削除するなど定款と細則改正を実施。逓信院に対し認可申請へ。逓信院・情報局は12月7日、聴取者の協力機構への参加・聴取者の地域別代表の事業運営への参画を条件に認可。
 同総会あいさつで大橋は、「……(連合軍)最高司令部から、政府からの新聞および放送の解放について一再ならず指令されるに至った。そこで、この指令の趣旨からいっても、放送事業は従来の方向を一転して、自主的運営に進まねばならないことはいよいよ当然と考えられるようになった。単に番組面だけでなく、経営面でも自主的ならびに民主的に行わなければ放送の自由は期待しえないので、これがため協会では、まず自由な放送事業運営を規制する政府の監督事項を可及的に削除してもらいたいと考えている」と発言。
11月1日
●CIEの指導により、日本放送協会が午前6時から午後10時10分まで連続する「全日放送」をスタート。当時の放送は間欠的に20分〜2時間ほどの休止時間があったが、これをなくした。ただし、当初は増えた放送時間の大部分をレコードで埋めた。
●元・日本放送協会工務部設計課長の伊藤豊らを中心とする民間放送開始準備会(後の国民放送協会)が放送事業設立申請書を逓信院に提出。17日には、関東の農村向け放送を計画する農民生活科学技術協会が免許を申請(いずれもラジオ)。
11月13日
●GHQが占領政策徹底のため、日本国内の全家庭の半数にラジオ受信機を行き渡らせる生産・配給計画の立案を日本政府に指令。商工省は46年1月14日、1946年中に受信機314万4670台、真空管2000万個を生産するなどとし、そのための諸対策を講じると発表。
12月1日
●日本放送協会が放送番組編成にクォーター(15分単位)制を採用。週間放送番組時刻の作成、毎正時の時報(第1放送で午前6:00〜午後10:00)もスタート。
●逓信院から新放送会社の設立の働きかけを受けた東京商工経済会(後の東京商工会議所)理事長の船田中らの民衆放送株式会社が免許申請。
【坂本ひとこと/アメリカが手取り足取り、すべてを教えた】
 いまでこそ15分刻みの番組編成に誰も違和感を感じないが、これを日本の放送にもたらしたのはアメリカだった。NHK「20世紀放送史」などによると、当時の放送は明確に決まった時間枠という概念が希薄で、ニュースなど定時番組を除けば、落語20分、浪曲40分、放送劇60分など、中身に合わせた切りのよい枠で放送していた。
 これに対し、米CIE側は「多様な番組を絶え間なく流し、聴取者を惹きつけるには、15分単位制が有効。アメリカのほか英仏も採用しており、日本がやれないはずはない。国際的な共通方式は将来の番組交換・交流にも役立つ」と、クォーターシステム導入を強くうながした。日本側からは「番組の編成と実施が窮屈になる」と強い反対意見も出たという。
 15分単位制の採用で、1か月単位だった番組編成が、1週間単位で放送時刻表が作られるようになった。「×曜日×時から×時×分まではこの番組」とハッキリわかるため、聴取者の「聴取習慣」が強く生じ(固定聴取者が増加し)、番組と聴取者の「時間の共有」が進んだ。
 放送(当時はラジオ)というメディアを人びとにより密着した存在にするために、占領軍が果たした役割が極めて大きかったことは、記憶されてよい。これも「戦後レジューム」の一つであり、脱却どころか、いっそう推進すべき戦後体制であることは、疑いを入れない。
 アメリカが教えてくれたのは、編成のやり方だけではなかった。政党放送・政見放送を日本にもたらしたのもCIEラジオ課で、「(1)全立候補者に10分以内で均等な放送時間を与える。(2)放送は登録順とする。(以下(8)まで略)」という「立候補者政見放送実施要領」は同課が作成した(1946年2月。これを元にNHKが実施規定を制定して発表)。1946年3月には、CIEラジオ課は、NHK番組プロデューサーのための番組制作・演出の実地研修(Radio Workshop)をスタート。同年5月にはNHK職員向けに「脚本作家の手引き」を作成した。同課はさまざまな番組の企画を立案し、NHKに実施させ、内容その他についてNHK側のプロデューサーと頻繁に打ち合わせている。
12月9日
●日本放送協会がラジオ第一で『真相はかうだ』の放送をスタート。CIEラジオ課の企画・脚本で戦時中の日本政府・軍の実態を暴露するもので、1946年2月10日まで続いた。以後、46年2月17日から『真相箱』、47年1月4日から『質問箱』と変遷。
【坂本ひとこと/GHQによる「やらせ!」番組】
 占領軍は、日本の放送に民主主義的な、戦前の日本のものよりはよいと思えるシステムをもたらす一方で、日本の放送に強権的に介入し、自分たちの都合のよいように統制していた。CIS(民間情報局)に設けられたCCD(民間検閲支隊)の検閲は比較的知られているが、民間情報教育局CIEでも露骨な介入が行われた。
 その典型例が『真相はかうだ』で、企画・脚本・演出のすべてをCIEラジオ課が担当し、しかもNHK制作と見せかけた「やらせ」キャンペーン番組。NHK「20世紀放送史」によると、効果音を駆使し速いテンポでたたみかけるように「南京大虐殺」や「バターン死の行進」などを再現して聞かせた(ドキュメンタリードラマの手本としては、得るところが大きかった)。聴取率アップのため日曜夜8時〜8時半のゴールデンタイムを選び、しかも前後を人気娯楽番組で固めてあったという。
 しかし、あまりに露骨に支配層や日本軍の残虐ぶりを描いたため、聴取者からの評判は極めて悪く、非難の投書が殺到。駐米大使の野村吉三郎が真珠湾攻撃を知りながら対米交渉を続けてアメリカを騙したと放送した回では、聴いていた野村本人が新聞に投書し反論。CIEは放送協会会長・大橋八郎に、野村への再反論を放送せよと指示したが、大橋は野村から直に話を聞き、野村のほうが正しいと認め、CIEの指示を無視した。
12月11日
●GHQで放送制度を所管していたCCS(Civil Communications Section=民間通信局)のハンナー大佐(Col. Paul F.Hannah)が、逓信院総裁・松前重義に対し「日本放送協会の再組織」と題する覚書(いわゆる「ハンナーメモ」)を発す。ハンナーによれば、このメモは「民間放送を考慮しないという意志表示と解すべき」(と口頭で説明)で、日本放送協会を、国民がその管理・運営に発言権を持つ公共機関(institution of public service)とするため、会長の助言機関として各界を代表する15〜20人の男女で構成される顧問委員会(人選はGHQの了承が必要)を設置するよう命じたもの。
 委員会の任務は、会長候補者3名の選出、会長・理事会に対する放送政策についての助言、放送倫理コードを作成してGHQに提出、放送協会の組織改正を実施し国民が放送協会の管理・運営に発言権を持てるようにすること(放送協会の経営方針は顧問委員会に諮問したうえで会長が決定)など。
【坂本ひとこと/NHK経営委員会の原点!】
 ハンナーメモの背景には「主トシテ政府当局ノ其ノ機能ニ対スル極度ノ統制ニ依リ日本放送協会ノ運営ハ弱化サレ、此ノ統制ノ結果輿論ヲ表現スル重要ナル機関ノ管理及運営ニ関シ日本国民ハ過去ノ或ル期間及今日ニ於テ発言権ヲ有シヲラズ」(ハンナーメモより)との認識があった。新放送会社の設立よりも日本放送協会の徹底的な民主化を優先させ、独占放送体制のもとで占領政策の円滑な実施を進める狙いである。
 現在(2007年〜2008年にかけて)、NHK経営委員会の問題(前首相の「お友だち」人事による経営委員長の就任、経営委員長の放送番組への介入発言、同じく「忙しくNHKの番組など見てない」発言、NHK執行部との対立、NHK前会長の事実上の更迭、政府与党筋と組んだ密室のNHK会長人事など)が騒がれている。
 「世論を表現する重要な機関の管理および運営に関し日本国民は過去のある期間および今日において発言権を有しておらず」という事情は、六十余年をへて、なお変わっていない
と嘆くべきである。
 ハンナーメモが示した日本放送協会の顧問委員会は、その後に作られた放送に関する二つの委員会の原点といえる。一つは、NHK経営委員会の原点である。NHK経営委員会の構成メンバーに多様性・業種や地域の代表性を求める放送法の現行規定は、ハンナーメモが象徴するアメリカの放送民主化の考え方に、明らかに沿っている。
 なぜ日本放送協会に顧問委員会が必要とされたのか、その役割は何だったかを検討することは、あるべきNHK経営委員会の姿を考えるうえで欠かせない作業だ。
 もう一つは、電波監理委員会(後に設置されたが短期間で消滅)の原点である。

1946年(昭和21年)

1月4日
●日本放送協会に顧問委員会が発足。委員は17人で、科学技術、農業、実業、芸術、学界、婦人、労働、新聞出版、青年の9分野から選ばれ、専門委員会として世論研究会、宗教研究会、音楽委員会も設置された。
放送委員会のメンバー
 GHQが設置を命じた放送委員会は、その目指す理想はともかく、実態はかなり荒っぽい手法で発足した。逓信院が推薦した候補者はほとんど外され、もっぱらCIEの意向によって選定された。左翼色が際立つほか、知らないうちに選ばれ、何をする組織かよくわからなかった人もいたらしい。
1月22日
●日本放送協会の顧問委員会が初会合。CIE、CCS幹部が出席するなか、松前重義・逓信院総裁(逓信省の技官出身で東海大学の創立者)は「本委員会はわが国における放送行政全般を管掌すべき重大なる使命を負うものである」と述べ、放送委員会と命名。放送協会会長候補3名の選出、放送協会の再組織案の作成、放送基本方針の作成がその任務。
3月1日
●CCS分析課アレイニコフ中尉(1stLt. E.N.Aleinikoff)がウィットモアCCS局次長宛の報告書「NHK役員の任命・解職に関する逓信院の監督権限」を作成。既存制度を改正し、政府のNHKに対する過度の介入を排除すべきと提言。
3月4日
●CIEの示唆により、日本放送協会が「協会サイン(NHK)」放送を開始。当初は、番組の区切りごとに「エヌ、エイチ、ケー、日本放送協会の番組であります」などとアナウンスした。GHQ関係書類などでは、日本放送協会の略称として「BCJ」(The Broadcasting Corporation of Japanの頭文字)が使われることが多かったが、放送では「NHK」(Nippon Hoso Kyokaiの頭文字)を採用。やがてこれが定着していき、日本放送協会は1959年4月22日の定款改正で略称を「NHK」に正式決定。
3月28日
●放送委員会が日本放送協会の会長候補として、高野岩三郎(大原社会問題研究所長)を指名(ただし委員のうち8名が欠席)。それまで(1月28日)に、高野、小倉金之助(元大阪帝国大学理学部教授)、田島道治(大日本育英会会長)の3人を選び、逓信院を通じてGHQに推薦していたが、GHQから1人に絞れと要請されたため。4月1日、逓信院電波局監理課長・荘宏がGHQを訪ね、高野指名を示す公式文書を提出。GHQはこの人事を承認し、高野は4月26日のNHK理事会で、NHK会長に就任(理事会が理事に選出後、互選により会長と決定)。高野は、学説として天皇制廃止を主張したが国民の多数が希望しているのであればそれに従う、社会党顧問は承諾なしに推挙されたものなので辞任する、民主人民戦線世話人は辞退するなどと述べた。
高野岩三郎
 1871年10月15日〜1949年4月5日。長崎県生まれ。旧制第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。ミュンヘン大学留学後、東京帝国大学助教授。1919年に辞職し、大原社会問題研究所の設立に参加、所長。日本初の労働者家計調査を実施した経済学者(専門は統計学)で、労働問題研究家。戦後、大統領制・土地国有化などを盛り込んだ「日本共和国憲法私案要綱」(1945年11月)を発表。天皇制存続を主張する者を「囚われたる大衆」と批判した共和制論者、天皇制廃止論者だった。そんな思想を持つ人物がNHK会長に就任することは、戦前はもちろん今日でも到底考えられない。なお、放送委員会は3人の候補者のうち小倉金之助を推薦する意向だった(3月12日にいったん小倉を指名)が、健康上の理由で固辞され、高野に決まったとされる。GHQは、田島道治は財閥との関係が深いと見ていた。
5月15日
●ミラーCSS放送課長が、ハーランCIEラジオ課長代理にNHK放送委員会について、必要以上の責任と義務を獲得しようとしており、諮問機能を超えて経営的権限を行使できるような規約を作成していると報告。両者は、(1)放送委員会はNHK経営を左右するような指示を与えるために設置されたものではない、(2)放送委員会の任務はNHK経営の要請によって助言または勧告することであり、その採否は経営が決定する、の二点で意見一致。
【坂本ひとこと/のちの放送法第3条2は、たとえばこのように示唆された】
1946年6月8日、CIEラジオ課・教育課がNHK有本教養部副部長らを招き、子どもニュースの原則について以下のように確認。現在の子どもニュースに対してもそのまま通用する、見事な内容といってよい。60年以上前に、中央放送が流す子どもニュースについて、このような原則を持っていた国が世界にいくつあったか、よく考えてほしい。
(1)対立する事柄については、すべての側面を伝える。
(2)対立する事柄は公平に扱う。
  a.それぞれの立場に等分の時間を与える。
  b.論説的形容詞を含め、論説は行わない。
(3)国際的紛争については、解決案が見出せない限り、たびたびこれに言及することは避けるか、または紛争点を例示するだけにとどめる。
(4)子どもたちに苦痛を与えるような状況については、事態改善の可能性が見出されない限り、長々と伝えないこと。
(5)子どもたちに政府や法律の長所・短所を考えさせることはよいが、政府や法律に対する尊敬の念を失わせることがあってはならない。政権の負託や法律の作成は民主的手続きをへて行われること、すべての法律や政府の政策決定に従うのは市民の義務であることが忘れられてはならない。
(6)世界各国の重要な出来事を偏らずに報道すること。
6月15日
●NHKが大規模な人事異動と機構改革。放送は文化であり、その将来像を構築するには放送の調査研究が不可欠との考えから、会長の高野岩三郎が熱心に推進した放送文化研究所も発足(構想そのものは戦前からあった)。高野は当初、研究所長を兼務していたという。
9月19日
●放送委員会は、ハンナーメモのいう放送倫理コードとして「放送基本原則草案」を策定し、CCS、CIE、NHK高野会長に提出。以後、放送民主化に取り組む一方、NHK番組に対する助言も行った。
9月17日
●日本新聞通信放送労働組合が傘下の各支部に、「団体協約の締結、賃金引き上げ、読売・道新争議団の要求貫徹をめざしてゼネスト準備態勢にはいれ」と指令。続く26日、「10月5日ゼネスト決行」を決定し、闘争宣言。
9月30日
●新聞通信放送労組参加の放送支部は、NHK理事に3項目要求を提出し、10月4日までに解決しなければ翌5日からストに突入と申し入れ。NHK理事側は、高野会長名で「連合国軍の占領政策遂行に支障を来したり、一般聴取者大衆に迷惑を及ぼすことのないようにその行動を慎まれることを切に希って止まない」(10月1日「従業員諸君に告げる」)、「此の際“ゼネスト”問題については忌憚《きたん》なく批判され、中正な判断を為し、以て諸君の行動に誤りがないよう」(「“ゼネスト”に対し重ねて従業員諸君に勧告する」10月4日)とスト回避を訴え。逓信省もNHKに対し、スト回避を再三要望・命令。
10月5日
●NHK理事側と組合の交渉は決裂。午前7時10分、「ゼネストに入ります」とのアナウンスで、ラジオ第1・第2放送とも全国一斉に沈黙(占領軍向けのAFRS放送は平常通り)。
●政府は閣議を開き、放送再開に向けて強硬策をとる方針を決定。夕方、内閣書記官長・林譲治が「あくまでも日本放送協会が罷業を継続するにおいては(中略)放送の国家管理をなすなど、公安上必要なる措置をとることが必要であると信ずる」と声明。「放送無線電話施設許可命令書」第9条「逓信大臣ニ於テ公益ノ為本施設ヲ管理シ又ハソノ設備ノ全部若ハ一部ヲ買収セムトスルトキハ施設者ハ之ヲ拒ムコトヲ得ズ」を念頭においた発言。
10月6日
●未明、NHK理事側と組合の交渉は再び決裂。
●午前8時30分、日本放送協会の放送が国家管理下に移行。東京第1放送の実施に必要なすべての設備が逓信大臣に引き継がれることになり、高野会長は「全面的に協力」を約束。スト突入前に国家管理への態度を保留していたGHQ・CSSも、スト突入後、政府が国家管理実施について最終了解を求めた時点では「全面的に賛成」。
●逓信省は逓信次官・鈴木恭一を長とする「臨時放送管理本部」を設置。国家管理命令が発動されると電波局長・網島毅が放送会館に出向き、放送会館の一部と川口放送所接収のため労組と交渉。接収は難航し、翌7日夜までかかった。
10月8日
●午前7時、前代未聞の逓信省による「国家管理放送」がスタート。川口放送所にマイクを設け、逓信大臣・一松定吉が国管放送実施のあいさつ、逓信省職員(文書課事務官)がニュースや気象情報をアナウンス。放送会館では電波局長・網島毅、電務局長・渡辺音二郎以下の官僚がニュース編集などの作業。
●当初、放送回数は午前7時、8時、正午、午後3時、5時、7時の日に6回で、放送内容はニュース、気象情報、天気予報、時報などで、東京だけの放送。
10月11日
●新聞・放送ゼネストの足並みが乱れ、放送だけが暴走するかたちとなるなか、放送支部闘争委員会が労働協約と待遇改善の2点に絞って交渉を再開。
●13日、大阪中央放送局の部課長が、東京からの短波中継を受けて放送再開。14日、名古屋中央放送局が職場大会で放送再開を決め、全従業員が職場に復帰して国家管理放送の中継やローカル放送を再開。
●16日、読売争議が解決。以後、放送を再開する局が増え、18日正午には中央放送局の全局、地方の17放送局が東京からの国家管理放送を中継放送。
10月23日
●高野会長は、「専制を脱し自由独立を叫べ」の宣言と「放送人としての責任感を持つものは48時間以内に部署へかえれ」の就業勧告文を発表。これを機に組合内部でも職場復帰の動きが加速。
10月24日
●午後5時、放送支部がスト中止を決め、「10月25日午前零時を期して就業すべし、闘争は断固継続す」との指令を発す。
10月25日
●放送委員会の仲介で理事側、組合、放送委員会の三者会談が開かれ、理事側の主張通り「経済要求は認め、労働協約は後日協議のうえ締結する」ことで妥結、争議は終結。
●午後7時、鈴木恭一・逓信次官によるアナウンス「幸い本日、放送協会会長から、放送協会の手によって、公益上必要とせらるる放送を確実に再開できる状態に到達した旨の申し出がありましたので、ここに政府は私のあいさつが終わり次第、放送の国家管理を解くことになりました」を最後に、放送の国家管理が終了。放送は28日に正常化。
10月
●GHQのCCS(民間通信局)が、日本国憲法の公布を契機として放送法制の見直しを行うよう日本政府(逓信省)に指示。CCSは、1945年10月以降、アメリカはじめ各国の放送制度・法規の調査研究を進め、日本の「無線電信法」の英訳に着手していたとされる。
11月
●CCSの指示を受けた逓信省は、逓信次官を委員長、各局長を委員とする臨時法令審議委員会を設置し、放送法制の整備に着手。

1947年(昭和22年)

2月
●臨時法令審議委員会が、最初の案をまとめる。この段階では、電波と放送に関する規定はすべて無線電信法に一体化されていた。4月に修正案をまとめる。
6月
●臨時法令審議委員会が、無線全般に関する一般法としての「無線法」(7月1日に「電波法」と改称)案と、放送事業の業務運営に関する組織法としての「日本放送協会法案」を作成。ここで電波(無線)と放送(NHK)が法的に分離された。日本放送協会法案は、NHK会長・副会長の任免、聴取料額、聴取規約、事業計画、収支予算、剰余金処分、NHKの解散などの認可権をすべて逓信大臣が握るという官主導・官優位で規制色の強い内容。
7月16日
●逓信省が「放送事業法案」を作成。社団法人日本放送協会に代えて政府が全額出資する事業官庁的な公法人(日本放送委員会)を設立し中波放送を独占させるというもの(それ以外の放送については、民間その他が運営可)。CCSが、放送を出資者6500人で構成する社団法人が独占するのは不適当と指摘し「日本放送協会法案」に反対したため。
8月16日
●時事新報が非公開だった「放送事業法案」草案の内容をスクープ。以後、朝日(17日)、東京(18日)、読売社説(24日)、毎日社説(25日)などが、日本放送協会や同労働組合の反対の声を報じつつ、こぞって官僚独占・統制色の濃い法案として反対。
8月27日
●逓信大臣・三木武夫は、放送事業法案について「経営は特殊な法人組織にし、事業は一切法人にまかせ、政府は施設について監督する程度にしたい」との談話を発表。
●CCS放送課のハウギが「日本の放送に関する政策の実施」と題する文書を作成。社団法人日本放送協会を改組し中波放送(ラジオ)を独占的に運営させる、中波放送以外(FM、テレビ、ファクシミリなど)は民間企業のイニシアチブにまかせる、放送の規制・監督機関として、国会に責任を負い行政府から独立した委員会を設立するなどを骨子とし、以上を盛り込んだ「放送基本法」の制定を提言(いわゆるハウギ文書)。
10月16日
●ハウギ文書に基づきGHQ部内の意見調整を重ねたCCSの調査課長代理ファイスナーが、逓信省とNHKに対して、将来策定されるべき関係法規の根本原則について、次のA〜Kのように口頭で示唆。
「ファイスナーメモ」の骨子
A 新しい法律は、国内放送、海外放送、FM放送、テレビジョン、模写放送(ファクシミリ)の発達の基礎を規定すべき。
B 基本法は、a.放送の自由、b.不偏不党、c.公共サービスに対する責任の充足、d.技術的諸基準の順守という四つの一般原則の上に立つべき。
C あらゆる種類の放送を管理運営する機関の設立を規定すること。この機関は、自治機関(autonomous organization)で、政府、政党、団体から完全に独立していることが必要。国民に奉仕する機関であり、理想的には憲法により民主的に選ばれた政府を通じて欲求と希望を表明する日本国民によって支配される機関であるべき。
D GHQは、同自治機関による放送の独占を唱道せず、その反対を唱道する。GHQは経済状態が許すときには、日本において民間会社相互間、また民間会社とこの公共機関(public authority)との間で自由競争を発達させるよう、民間放送会社の助長に備えた規定を新法が設けることを示唆する。つまり、同法は、将来、現在の日本の鉄道機構(公営民営並立方式)と同様の放送(運営)方式の発達を許すべき。
E 将来は公共機関と民営の二つの放送方式が発達する。公共機関は次の2要素からなる。一つは監督・管理部門で、放送に関する方策を決定し、また、公共機関および民間放送によって運営される放送の免許、監理を行う。他の一つは運営部門でNHKの放送施設を移管し運営する。
F 番組(編成)の自由を保障。
G 放送労働者の罷業権は禁止すべきものではないが、その行使にはある種の限界と制限とを加える規定を置くほうがよい。
H 公共機関は、FM、テレビジョン、模写放送を経営してはならない。これらは、初めから私企業にゆだねるが、公共機関の管理部門の管理下に置かれるべき。
I 公共機関の運営費は聴取料によって賄われる。
J 新法は時限立法。
K この示唆は一般的だから、細目立案の際は、この基本法を補足するよう注意することが必要。
10月22日
●ファイスナーの示唆が「日本放送法に関する会議に於ける最高司令部示唆の大要」として文書化され、GHQ部内に配布される(いわゆる「ファイスナーメモ」)。
【坂本ひとこと/戦後日本の放送制度の原点】
●上記のファイスナーメモが、善し悪しは別として(坂本は結構なメモだと思っているが)、戦後日本の放送制度の原点である。なお、1910年ペンシルベニア州生まれのファイスナーは、ミシガン大で国際法や極東について学び、会計検査院などをへて入隊。1946年6月に来日し、CCSの調査課長代理、のち課長としてGHQの放送政策に深く関わった。その後も日本にとどまり、蔵王に近い宮城県に住んでいるが、今日の日本の放送に対しては「自分が作ろうとした放送制度と違う。このようなものを作ろうとしたのではない」と怒っているそうである。

1948年(昭和23年)

6月15日
●ファイスナーメモの示唆を受けて逓信省が作った最初の放送法案(行政委員会方式や公共放送機関と民間放送の併存を謳う)が、CCS(民間通信局)の了解をへて6月15日に閣議決定され、6月18日に第2通常国会に提出される。ただし、国会の会期が少なかったため実質審議に入ることができず継続審議へ。
7月26日
●参議院逓信委員会が「放送法案」に関してNHK、同労組、放送委員会、民放出願者などから意見聴取(〜7月28日)
●8月から9月にかけては札幌など全国13市で公聴会を開催。
11月10日
●芦田均内閣が10月に第2次吉田茂内閣に交代したため、逓信省は放送法案を撤回。
12月
●GHQのLS(法務局)が、撤回された放送法案のうちニュース放送の制限事項を列挙した第4条について、表現の自由を損なうため全文削除することを求める修正意見を逓信省に伝える。第4条は、45年9月のGHQ指令33号「日本に与ふる新聞準則」(プレスコード。ラジオコードもほぼ同内容)に基づくとされたが、LSは「国内法は、占領を目的とする指令33号と異なるべき」とし、全文削除を勧告。
【坂本ひとこと/ニュース制限を狙った日本政府、自由を求めたGHQ】
 逓信省が新・放送法案で狙ったニュース放送の制限は、以下のような内容だった。
第4条 ニュース記事の放送については、左に掲げる原則に従わなければならない。
(1)厳格に真実を守ること
(2)直接であると間接であるとにかかわらず、公安を害するものを含まないこと
(3)事実に基づき、且つ、完全に編集者の意見を含まないものであること
(4)何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと
(5)一部分を特に強調して何等かの宣伝意図を強め、又は展開させないこと
(6)一部の事実又は部分を省略することによってゆがめられないこと
(7)何らかの宣伝意図を設け、又は展開するように、一の事項が不当に目立つような編集をしないこと
2.時事評論、時事分析及び時事解説の放送についてもまた前項各号の原則に従わなければならない
※第3項以下は略
 以上を一瞥《いちべつ》して、「ニュースは、そんなふうに作るべきなんじゃないの」「(1)〜(7)のどこが悪いの」と、不思議に思う読者も少なくないのではあるまいか。しかし、以上に対するLSの意見は、次のようなものだった。
 これはLSの見解が全面的に正しい。
 たとえば、第4条(1)によれば、政府高官の汚職を扱うニュースが、収受金額が違っているという理由で、放送法違反に問われかねない。第4条(2)によれば、反政府デモ扱うニュースが、公安を害するものを含むと見なされ、放送法違反に問われかねない。第4条(3)によれば、ニュース編集者が「つまらない」という理由で政治家インタビューをカットしたニュースが、放送法違反に問われかねない。第4条(4)によれば、ある宗教団体の行事を取り上げたニュースが、宗教宣伝臭が強く感じられるとして、放送法違反に問われかねない。第4条(5)によれば、政治家の暴言や失言を繰り返し報じるニュースが、反政府宣伝の意図が強められているとして、放送法違反に問われかねない。第4条(6)によれば、政府答弁をかいつまんで報じたニュースが、事実をゆがめているとして、放送法違反に問われかねない。第4条(7)によれば、特定の人物のある行為だけに光を当てたニュースが、宣伝意図のある編集の結果と見なされ、放送法違反に問われかねない。
 そして、政治家や政府高官などというものは、この程度のことならばつねに放送局に言って寄越すものである。それを法律で認めてやる国を、民主主義国とは呼べない。だが、日本国政府は1948年にそのような法律を作ろうとしていたし、日本の国会でも「公安を害するものを含むニュースを放送した者には罰則が必要だ」などと議論していたのである。この馬鹿さ加減は記憶されてよいことだ。

1949年(昭和24年)

3月1日
●逓信省が放送法案を作成。ニュース放送に関する制限とその処罰規定は削除。行政委員会と電波庁の管轄をめぐってGHQ、逓信省ともに異論があり、法案の国会提出は見送られた。
5月4日
●NHK放送委員会が解散。49年以降、活動の停滞が目立ち始め、GHQから承認を得ての解散だった。
6月1日
●逓信省が電気通信省と郵政省に分割され、電気通信省の外局として電波行政を担当する電波庁が設置される(逓信省時代は電波局)。
6月17日
●電気通信省の電波庁が新・放送法案の要綱をCCSに提出。それまでの法案と異なり、合議制の行政委員会方式を採用せず、行政権が電気通信大臣に属すること、放送に関する重要事項は、電気通信大臣の諮問機関として新たに設置する放送審議会に諮ることを盛り込んだもの。日本政府は、行政委員会方式には初めから批判的で、憲法第65条「行政権は、内閣に属する」、第66条第3項「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」との規定に反するという立場。
6月18日
●新・放送法案に対し、CCS局長G.I.バックは電気通信大臣・小沢佐重喜と官房長官・増田甲子七を呼び、CCSとCIEの一致した意見としてGHQの政策を勧告(いわゆるバック勧告)。放送法と並んで作業が進んでいた無線法(7月1日「電波法」と改称)を次期国会に提出することを求め、
(1)電波監理委員会を総理大臣の下に設立(5〜7人の委員を国会の承認を得て内閣総理大臣が任命し、電波が公共の利便・利益・必要に合致するように政策を決定。電波庁は同委員会に全面移行)、
(2)一般放送局(民間放送局)の許可、
(3)プログラム編集の自由を認める、
(4)日本放送協会を改組して公共機関を創設(政府のコントロールをできるだけ排除した組織とし、全国・地方の放送を公共の利益に適するように行う。協会には経営委員会を置く)
の4項目を重要と指摘。(1)は初めて示された内容。
10月12日
●電気通信省は、電波監理委員会の委員長に国務大臣をあてること、委員会の議決に対し内閣に再議要求権や議決変更権を与えることを盛り込んだ電波監理委員会設置法案をまとめ、GHQに提出。
10月18日
●GHQがNHKの放送に対する検閲をすべて廃止すると口頭で伝達。
10月28日
●官房長官・増田甲子七とGHQ民政局次長・リゾーが会談。「憲法上、内閣は行政を担当する。電波監理委員会も内閣の監督に服すべき」と主張する増田に対し、リゾーは(電気通信省の電波監理委員会設置法案の)「電波監理委員会の決定を内閣の決定に完全に従属させる条項は、一般広報の重要な手段を政権を持つ主要な政治権力の支配下におくという事態を招く」「委員会は、行政府の直接統制を受けず独立の機関として行動するとき、その任務を果たせる」「アメリカの経験に照らし、当委員会と同じ性格の中立的で超党派的な委員会(FCC=Federal Communications Commission 米連邦通信委員会を指す)は、独立の機関として、その機能を完全に発揮している」と述べ、議論は平行線に。
12月5日
●GHQが吉田茂首相あてにマッカーサー元帥の書簡を発す。同書簡は「外部の党派勢力ないし機関による直接統制や影響力に対し、適切な安全保障がないというただ1点で、日本側の提案は不完全。国務大臣が委員長たるべきこと、内閣が委員会の決定を逆転できる権限をもつとすることは、独立の原則を完全に否定し、委員会を内閣の単なる諮問機関とすることにほかならない」とし、この2項目の削除を要求。
12月9日
●日本政府はGHQの要求を全面的に受け入れ、電波監理委員会設置法案を修正。電波法案、放送法案とともに(いわゆる電波3法)を閣議決定し、通常国会に提出。

1950年(昭和25年)

1月24日
●電波3法案が衆議院電気通信委員会に付託され審議開始。政府委員の電波監理長官・網島毅は、3法案は相互に密接に関連し「一体として電波及び放送の基本法となる」と述べ、それぞれの趣旨を「とくに放送法といたしまして、放送事業のあり方、すなわち日本放送協会及び一般放送局(民間放送局)のあり方、及び放送の番組内容のあり方につきまして、その大綱を規定いたしました」「これに対しまして電波法は、放送を含む電波一般の有効かつ能率的な利用を確保するという面を、直接の規律の対象といたしまして、無線局はもちろん、個々の放送局も無線局の一つとして免許、設備の条件、運用の監督等につきまして、すべて電波法の適用を受けるということにいたした次第でございます」「設置法では、この電波及び放送の行政をつかさどる共通の国家行政組織であるところの電波監理委員会の組織、権限及び所掌を定めてあるのでございます」などと説明。
 とくに放送法案については、以下のように趣旨説明。
2月1日
●参議院電気通信委員会が放送法案に関する公聴会を開催し、意見聴取。
2月7日
●衆議院電気通信委員会が電波3法案に関する公聴会を開催。2月8日と10日を合わせ、31人の公述人から意見聴取。
2〜3月
●国会審議や公聴会では、NHKと民間放送の関係(放送法に民間放送に関する規定が少ないNHK重視、受信料の独占、ラジオ第1・第2の保有、所得税・法人税の免除その他のNHK優遇など)、NHKに対する監督の問題(収支予算、業務計画、資金計画の国会の承認がNHKの自主性を損なわないかなど)、電波監理委員会と内閣の関係などが議論の焦点に。新聞各紙も社説などで盛んに意見表明。
3月15日
●衆議院電気通信委員会が、電波監理委員会委員長の国務大臣制の復活を図り、電波3法案を修正してGHQ民政局(GS)に提出するも、拒否されて断念。
4月8日
●衆議院が電波3法案を可決。電波監理委員会設置法案は政府原案通り、電波法案と放送法案は一部修正。
5月2日
●電波3法が公布される。
6月1日
●電波3法が施行される。
●電波監理委員会が発足。委員長は富安謙次・逓信協会会長。
●放送法に基づく特殊法人日本放送協会が発足。経営委員会委員長は矢野一郎、会長は古垣鉄郎。社団法人日本放送協会は解散し、一切の権利・義務が新法人に引き継がれた。

参考文献