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「ホラーで殺人犯が増えるなら十三日の金曜日は東京都下ジェイソンそぞろ歩き状態になってるわよね!」
(有川浩 『図書館戦争』 p142 電撃文庫2006年)
児ポ法について、声高に叫ぶ方々が相変わらず多く、法改正(悪化?)の傾向が更に無視できなくなりつつある。が、浅学非才にして常識知らずの私には、そもそもこの議論の問題点に腑に落ちない点が多々ある。
児童を子に持つ親達にとって(私もその一人だが)、自分の子が児童性犯罪なるものの被害者になることを避けたいと思う余り、児ポ法推進派の提示する様々な「危険性」に戦々恐々として翻弄されるのは理解出来なくはない心情であるが、少しよく考えて欲しいのは、この法案が要求しているのは、いわゆる「ロリコン」と呼ばれる「不健全な」人達を犯罪から閉め出す事だけに止まらない点である。現状の法案をそのまま突き詰めれば、単に自らの子が真夏にプールで水遊びをしている記念写真ないしビデオを「所持しているあなた」も、犯罪者として逮捕されかねない状況であることに注意して頂きたい。「親だから」という論理はそこには成り立たない。親が実子を性犯罪の対象とする事件も現実には存在するし、その境界は日頃私達が考えるより曖昧なのだ。私の両親も、私が幼い頃裸で水遊びをしている写真を所持しているし、多くの親たちがそうした写真を保持しているだろう。それらは今後の法の成り行き次第で、立派な「児ポ法違反」になる。奇妙な話だが(そして奇妙な話だからこそ児ポ法推進議論そのものが奇妙だと私は思うのだが)、この場合、親が自分の幼子の写真を「性的対象として(つまりポルノとして)」所持していないのだと法廷で立証することは難しい。馬鹿らしいとお考えかもしれないが難しいのだ。「親だから当然だ」等という議論が、「親による性的虐待」が次々と報告される現在、心情論だけでまかり通る現状ではない。「ポルノとして」所持しているのではないと、どうやって立証出来るだろう?
まず「ポルノ」の定義がこの際問題となる。以前述べた事もあるが、何が「ポルノ」に該当するか…は諸個人の主観に依存する。が、現状それでは明確な判断が(そもそも)出来ない為に、一般には「露出」のみが取り上げられる。私達同人作家達が常にその即売会の参加の上で求められるのも結局「性器およびその結合部の露骨な描写」という点のみが「明白な」基準なのだ。
「裸=ポルノ」というこの基準がいかにずさんなものであるかは、先の実例で明らかである。幼児が自宅の風呂場で、暑い夏に水遊びをする姿はまさしく裸である。親としては元気な子供の水遊びする姿を、記念撮影したいと思う心情は当然な事だろうが、当該基準においては、まさしくこれは「ポルノ写真」もしくは「ポルノビデオ」の撮影と「選ぶところがない」。馬鹿馬鹿しい。が、馬鹿馬鹿しいのはそうした基準でポルノを論ずる現在の児ポ法の議論の方なのだ。
奇妙な事に、人間の身体の中で性器のみがその描写を禁じられる。その理由がまず私には分からない。逆に腕や指、足、頭髪は「何故描写が許されるのか?」という理由が分からない。勿論描写されていけないというつもりは更々無い。逆である。性器も性行為も、ヒトの自然である。あらゆる自然の中で、そこだけは忌むべき存在であり、いかなる描写も許されるべきではないという根拠は、いったい何処にあるのだろう?
「それは恥ずべき場所であるから」とある人々は言う。よかろう、ならばヒトはその恥ずべき場所の結合という恥ずべき行為によって生まれてくる…恥ずべき存在だと言うことになる。宗教的にはそれでもOKかもしれないが、誰しも自分なり自分の愛する人なりが「恥ずべき」存在だ等という否定的な自己感や他人感で、幸福に生きていこうと出来るものであろうか? 「あなたはご両親の恥ずかしい行為によって生まれた、恥ずかしい人なんですよ」と言われて、肯定的な人生を描けるものだろうか? 一方では児童に否定的な人生観を抱かせることを憂慮する議論のある中、これは矛盾であるように私は見える。性行為は生命の始まりであり、愛情の確認であり、生命を生み出す誇るべき行動という一面を持っている筈で、子は両親の愛情から生まれ、そこから出発するのだ。そうであれば、その行為をなす性器は、誇るべきものとは言い難いとしても(笑)、少なくともヒトの、当たり前の自然として受け止められなければならない筈ではないか?
「それは性犯罪を誘発するから」と別の人達は言う。はて、生命を生み出す性器を崇拝し、それを「露骨に」像にしていた古代人の社会は、さぞかし性犯罪であふれかえっていた事だろう。もしかすると私達は皆、古代人がレイプによって生み出した性犯罪者の子孫かもしれない…。本当にそうであろうか? (私はここでその現象の可能性のみを言っているのであって、現在不幸な性犯罪によって生まれた人達が多々居るが、彼らの生にケチをつけるつもりは更々無い)。ポルノ写真ないしビデオが性犯罪を誘発するという考え方から行けば、テロを題材とした映画はテロ犯罪を誘発し、多くの推理小説は殺人や窃盗を誘発するだろう。恋愛小説は軽薄な恋愛を誘発し、出世コースに悩んで人生を捨てた男の苦悩の物語は、世捨て人や絶望しきった自殺者を誘発する。解釈にはきりがない。あらゆる絵や物語は、ヒトの不幸や犯罪を誘発するのだ。キリスト教徒にとっては不敬な話だろうが、十字架のキリストの死を描いた絵は、他人を虐待して殺すという加虐嗜好の犯罪を増発しかねない危険な作品であるだろうし、戦争の悲惨を描いたとされるピカソの『ゲルニカ』さえ、戦争そのものを誘発しかねない危険な作品となるのだ。尤も、児童性犯罪の危険がこれほど声高に叫ばれる現在、戦争そのものの危険性は「正義」や「国家」の名で正当化されることの方が多いようだが…。
本当にそうだろうか? 人は何かそういう誘発要因があると、自分もそれを簡単に行ってしまう程愚かで無思慮な生き物なのだろうか? 「人はそうだ」という方々の多くは「識者」と呼ばれるお偉方で、その「人」という言葉の中には、無条件に「自分は含まれていない」様に聞こえることがある。寧ろ私はこう問いたい。「あなたが、そういうものに誘発されやすい人なのでは?」と。
ナイフの所持に関する規制もこれと似たところがある。「ナイフを所持するから傷害殺人の被害者が増えるのだ」とする方々は、「関の孫六(出刃包丁)があるから強盗が後を絶たない」と言っているのと同じ論法に立っている。一方でそういう人達の一部は「武器や軍隊を持っているから戦争などするのだ」という議論には何故か消極的なのも不思議である。自衛隊などというものを持っているから、日本はいずれ戦争をすることになるのだ。と言えば、馬鹿にする連中が大半である。「あれは自衛という国家固有の権利のためのものであって、間違っても戦争に用いる事はありえない」と。そうであろう。ならば、ナイフはそもそも何の為のもので、出刃包丁は何のためのものか…。
刃物を持つ者の殆どが犯罪に走るとすれば、それは確かに危険な事だろう。だが、「あなた」も刃物を所持しているだろうし(例えば台所の包丁)、それであなたは何故人を刺さないのだろう? しかもあなたはテレビや漫画、あるいはゲームで、刺殺シーンを幾度も観て育っている。ならば、そろそろ「あなた」も「影響されて」台所の包丁を持ち出し、誰かを刺しに行ってもよいのでは?
…いや「刺しに行ってもよいのでは?」 と言われた処で、「あなた」は「そうだな、そろそろそうしよう」などと思うまい。人を刺し殺すという行為を仮に夢想したとしてもだ。それを実行するには、自分の人生を曲げてしまいかねないほどの強い動機を別に必要とするだろう。根が善人だとか悪人だとか、あるいは優しいとか冷たいとか、そういう個々の性格の問題でもない。もっと強い動機が必要な筈だ。ましてやテレビやゲームで「殺し」の現場を観たから、でもないだろう。「あの番組を観てから、人を刺したくて仕方ないんだよ」と真顔で言う奴がいたら、「こいつはどうかしている」と思うのが大多数の人である筈だ。それは、彼らが「善人ぶっているから」とか「刑法が怖いから」という理由じゃあるまい。そもそもそうしたシーンをテレビで観たからと言って、大まじめにそれを実行したくなる人間自体が少ないのであり、そうした大それた行動を起こすには「観た」という条件からだけでは困難であるからなのだ。刑法の規制がなければ殺人や窃盗は更に増えるだろうが、誰でもそうした事を行えば、仮に刑がなくても、復習だなんだとやっかいな社会的責任に追い回される事くらい知っている。レイプや児童の性的虐待は、被害者の大半が社会的な弱者である分もう少し状況は変わってくるだろうが、それでも「女子供はレイプしてもいいんだ」等と喜んで行動に移す人物は多数派には至るまい。仮に心の裏側にそうした願望があったにせよ、それに伴う後味の悪さや、それが自分の所属する社会にもたらす嫌悪の念、従ってそうした犯罪を通じて自分がその社会に平穏とは生活出来なくなることの恐怖を、概ねの人は知っている。「大衆は流されやすい」と指摘する向きもあるが、「体に良い」と言われた商品を買いに走る大衆の行動と、そうした犯罪との間には基本的な相違がある。商品はそれを買うこと自体が悪とみなされることは無い。何かを買ったからといって、羨ましがられることこそあれ(あるいは多少は軽蔑されることもあったとして)、社会から危険視され、つまはじきにされる危険性はまず無いのだ。
一部の人達だけが、そうした事を引き金にするだろう。だが、それは引き金の一つであって、全てではない。逆にある人達がそうした強い犯罪への嗜好を持っているのだとすれば、刃物のあるなし、残虐映像やポルノ映像のあるなしには全く関係なく、彼らはそれを実行する引き金を、何処にでも求める事が出来るし、実行するだろう。仮に私が、理性を失いかねないほど激しい憎悪に駆られ、とある人物を殺害しようと思ったなら、手元に刃物があろうがなかろうが、以前残虐映像を目にしていようがなかろうが、それを実行する可能性に殆ど影響を及ぼすまい。私は例えば靴下に小石を詰めて、対象の人物を殴り殺すことも出来るのだ。さて、その場合、かの識者達政治家達はこぞってこう言うだろうか?「靴下や小石があるから殺人事件が誘発されるのだ。靴下と小石を今後この世界から無くすべく立法に掛けようではないか」と。
笑い話ではない。私が「関の孫六なんてものがあるから強盗事件が起こるのだ」と言えば、多分誰しも笑い話としか思うまいが、テレビで識者なるお偉方が「ナイフを児童に持たせるから犯罪が助長される」とまことしやかに言えば視聴者は真剣に頷く…。だが、これが私の見る限り、現在のマスコミで流れている「規制」の論法の典型なのだ。で、仮に靴下と小石が世の中から一掃されてみたところで、犯罪は減るかどうか考えてみて欲しい。減る訳はない。「殺し」の動機を持つ者は、次はロープを、その次は金槌を、あげくの果ては電話機を鈍器代わりの凶器にしたって、犯罪を実行するだろう。さぁ識者や政治家諸君全てその可能性を含むものを規制したまえ。年間最大の死傷者を出している自動車というあの大きな凶器とともに!
「児童を性の対象としてとらえることのない健全な社会」(円より子議員発言)というが、何を性の対象としてとらえれば「健全な社会」なのかも今ひとつはっきりしない。これは二つの側面からそう思える。一つは「18歳未満」という余り根拠のない年齢の境界設定。もう一つは性の対象という曖昧な表現である。
「性」という言葉を「スケベ」と同義に捉える輩は別として、性それ自体は根本に、生命を生み育む機能全てを含む。男女が愛し合い、子を産み育てる…その全課程が「性」なのだ。私達ほ乳類は性的存在といっても過剰ではない。二次成長を迎えた全ての男女が、この意味ではすでに性的存在であり、相互に性的な対象となる可能性を持つのであって、事は単に「ロリコン」に限った事ではない。18歳の少年が16歳の少女に恋する事もまた、立派に「性の対象」なのであって、この言葉は解釈次第では、「児童は恋をするな」という人権の蹂躙、人格の無視という虐待に繋がる可能性を持つ。「子供は勉強していれば良いのだ。恋愛などとんでもない」という言葉に素直に頷けば、その子は「エリート」とか「勝ち組」とか言われる、あの「素敵な」存在になれるのかもしれないが、人間としてはいい歳して恋愛もろくに知らないようなつまらない人物になるような気がしてしかたがない。そもそも、二次成長を迎えた青少年達が、性から離れているべきだとする理由も何処にあるのか分からないし、もっと年齢の低い児童が「性とは無縁であるべき」という決めつけも、オトナ達の勝手な思いこみと強制にすぎない。どう処理すべきか分からないというだけで、自発的な性欲を持っている子は、幼稚園児にさえいるのだ。オトナ達はそれらの無責任な性的行動にストップを掛けたとしても、その「心」を抑圧することは出来ない。
また誰が何を憂慮しようが、中・高校生の殆どの男女が恋愛と無縁ではいられない。恋愛である以上具体的に何を欲してるかはともかくとしても「性の対象」としている訳だから、学生が好きな人の写真をパスポートに忍ばせる行為そのものが、「児童ポルノの所持」という事になる。極論ではない。尤も現状では「肌の露出」がポルノの唯一の明白な定義だったから、衣服を着用していれば言い訳は成り立つだろう。奇妙な話である。この定義からすれば、異性の(同性のかもしれないが)ふくらはぎや踵に、性器以上の刺激を感じる脚フェチの方々にとっては、まさしく天国(笑)、ミニスカートが全盛の時代には、彼らにとって隠されているものは何もない。まさに性犯罪を大量に誘発するだろう。いっそどうだろう?
某宗教国家の様に、目以外は全てを覆い隠すファッションを義務づけたら?
きっと性犯罪は大幅に減るだろう。だが、現実はそうではない事は、ナワル・エル・サーダウィの報告にも伺える(『イヴの隠れた顔』未来社1988年)。
ここまで書いて来て、一つ尋ねたいことがある。「児童は責任能力が劣る、故に奔放な恋愛は好ましくない」と仰る方々が居る。確かにそうだろう。情熱は時として人を誤らせる。が、私が尋ねたいのは、「なら成人は責任ある恋愛をしているのか?」という事である。概ねの人達にとってはそうだろう。だが、繁華街のクラブで女達を侍らせる事を楽しみにしている大人や、セクハラで部下を悩ませる企業の重役方、売春や買春、痴漢行為といった大半の性の堕落や犯罪を平然と行う「責任ある大人達」を見るがいい。一人の相手と真剣に結ばれることを考える青少年の恋愛のどれほど清々しいことか…。「それは一部の大人の事であって…」と人は言う。なら「性的に堕落する若者」も一部であり、児童性犯罪などに手を染める輩も一部なのだ。
ついでに言えば、児童を性の対象とする、いわゆる「ロリコン」なる人々が、全て児童性犯罪の予備軍だとする考え方も、丁度包丁を握る職業にある全ての人々がみな刺殺事件の犯人予備軍であるというのと同じ程度に失礼な扱いである。同じように考えれば「お金が欲しい」と一度でも思った人は、みな窃盗犯予備軍なのだ。なんという恐ろしい社会! だが一方で「同性愛者はみなエイズ患者だ」等というふざけた発言が、人権の侵害となる差別発言だとして問題にされなかっただろうか? 私の発言を漱石枕流の言と見なすのは構わないが、相対する児ポ法推進派の強弁にもしっかりとその批判の目を向けて頂きたい。
ポルノはそれ自体が有害とされる実質的な基準を含んでいる。それは表現された性器や露出部分の云々ではない。問題はその撮影の際に行われる被害者の意志に反した露出や性行為の強要…従って人権の蹂躙にある。人としてこうありたい、こうしたいという選択は、「自由の国家」に於いては、それが他人に迷惑を及ぼさない限り保証されるべきであるという理念を踏みつぶし、性的露出や性行為の強要を通じて、児童なり女性(あるいは男性も含めて)それが妨げられる事があれば、許されるべきではない。社会的にも肉体的にも脆弱な子供は、こうした被害に遭う可能性が少なくない。強面の性犯罪者に強要されれば、子供は泣きながら従うしかないだろう。被写体の強要…ある種の映像が犯罪を誘発するとかしないとか、そんな曖昧な(学問的にも否定されているという説がある)問題より、これこそが「ポルノ」がもたらす現実の被害である。被写体となった者は、好むと好まざるとに関わらず、自分の個人的な身体を公衆の面前に晒される。だが、これは児童に限った事ではなく、父権社会において未だ十全な権利を実質持っているとは言い難い大人の女性達にとっても同じ事なのだ。児童に限らず売春を強要され、あるいはレイプの対象として被害を受ける女性達(あるいは男性も)全体のこうした問題は、何故か児ポ方の影に今は潜んでいる様に思える。誰かが他人の言いなりになって、その人格を否定される事は「自由の世界」にはあるべきではない。まして住所や氏名が公表されることを「個人情報の開示」として好まないこの世界では尚更だ。
そこで振り返って観るに、児ポ法はこうした児童の人権を守るものだと主張されるが、児童の人権は「ポルノ」の被写体となる以外にも守られているとは言い難い。児ポ法推進を掲げる政府与党の作り出した学校制度がこれを物語っている。そこでは髪の長さの規制や衣服、持ち物検査も含めて、一個人の自由が、「学生は学問が本文だから」という訳の分からない理由によって日々行われている。「あなた方」のうち誰かが、明日会社に行ったら社長から「所持品検査をする」と強制的に鞄を取り上げられ、他人の面前でその中身を一つずつ取り出してチェックされたら、果たして喜んで応じる人がどれくらいいるだろう? あるいは衛生に関する職業はともかく、一般事務員が「仕事にファッションは関係ない」と強制的に髪を切らされ、着用する下着まで強制されたら? おそらく大問題となるに違いない。が、学校という「児童を保護する筈の場」で、こうした事はまだ多く行われていると聞く。態度が悪いと言って廊下に立たされる事だって、「学ぶ権利」の明白な侵害なのだ。児ポ法で、児童の人権を守る云々がきれい事の様に繰り返される中、こうした人権蹂躙は、まだそれほど問題にならないのはどうしてだろうか?
実に不可解な法案だ。こうしたものを「危機を餌に」強引に推し進めようとする政府与党には何か別の目的があるのかとさえ思いたくなる。
まぁ実際に彼らに悪意があろうとなかろうと、こうした規制は一方で、表現の自由の侵害になることはよく論じられる処であるが、一方「何が善で何が悪か」という基準を公的に押しつけられるというモラル・ハラスメントであり、憲法に保障された「思想と良心の自由」の侵害でもある。具体的に他人の権利を妨げなければ、つまり「思う事」は、固有の自由だ。誰かが他の誰かに恋心を抱いたとして、それが仮に対象が「18歳未満」であったからということだけを理由に「悪である」「不健全だ」等と誰が言えるのだろう? それとも「健全な人は、絶対に成人しか恋愛対象としない」という不文律の道徳や心理学的根拠が何処かにあるのだろうか? 寧ろ逆だ。身分社会の崩壊と共に、私達は全ての人を恋愛の対象として持つ可能性を得ている。その身分社会の元では例えば「平民の男が貴族のお嬢様に」恋愛感情を抱くことさえ「異常な」事だったのだ。現在私達の多くはそのころのそうした物語を「時代の悲劇」として、主人公達に同情的な視線で読んでいる。
何に価値がありまたは無いか、何が善でありまたは悪であるか…そうした事を判断するのも、国民固有の権利である。そしてそれらを行うために、価値のあるもの無いもの、善とされるもの悪とされるものの両方を見る事も、諸個人の権利に他ならない。善だけを見て育つ者には悪とはどんなものか判断はつかなくなるだろう。古き社会では何が善であり何が悪であるかは宗教なり支配者なりが決定した。また冷戦時代には私達は「鉄のカーテンの向こう側」に、そうした価値基準を個人で持つことが出来ず、政治権力が一方的に押しつける世界を憂慮したものだ。児ポ法推進派が創ろうとしている世界は、そうした世界と選ぶ処がない。そこでは政治権力が決定した「善」と「健全」とが諸国民に強要され、私達はそれ以外のいかなる良心も思想も否定されるだろう。そこでは恋愛という極めて個人的な行為でさえ、年齢その他の条件によって厳しく規制され、真剣に愛し合う若者達の多くが仲引き裂かれる事だろう。代わりに残るのは、芸者をあげたりホストやホステスを侍らせたりして喜ぶことの出来る「勝ち組」達の性だというのだろうか?
若者をゲームのやりすぎで現実が見えていないと評するオトナ達よ、世の中をはっきりと線を引いた善悪で割り切ろうとするその考えこそ、非現実的なゲームの世界なのだよ。大方のゲームには善と悪しか無く、「光は善」「闇は悪」とその基準は明白で、「悪」は全て倒すべき対象なのだが、それは「ゲームだからだ」ということは、大抵の人が知っている筈の事だ。そう、現代を生きる私達にとって、価値観は多様であり、善や悪は一方的に線引きが出来るほど単純なモノでないことは誰でも知っている事だ。識者・政治家の諸君、もしかするとあなた達は「ゲームのやりすぎ」なのでは?
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