日月星の行事

【星空をめぐる行事・信仰】
 日本では、日月星にまつわる行事としてタナバタや十五夜(十三夜)、月待信仰などがよく知られています。 いずれも、本来の素朴な営みはほとんど見られなくなりましたが、昭和の時代までは、星や月、太陽とかかわりの 深い他の行事なども含めて各地に存続していました。地域によっては、現在でもその名残を見出すことができます。 こうした行事や信仰にかかわる伝承は数多くのこされていますが、ここでは現地調査で得られた 記録や有形民俗資料をもとに、かつての日常的な暮らしのなかで生かされてきた日月星の文化の一端をご紹介します。

《本文中の引用文献について》
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オビシャ

 弓で的を射る弓神事は、現在も各地で行われていますが、形式的には、 主として乗馬した射手が馬を馳せながら射る流鏑馬、その場で射る歩射の二つが知られています。民間の弓神事として行われる のは、ほとんどが後者のほうであり、地域によりさまざまな呼称があります。関東地方では一般的にオビシャと称し、埼玉、 千葉、茨城各県の利根川流域に濃密に分布しています。ただし、栃木県の一部には「日の出祭り」という呼称の行事があり、 埼玉県や群馬県の一部では「弓取り式」あるいは「天気占い」などと称しているケースもあります。これらの多くは、正月の 弓神事として位置づけられており、行事の中心が神社の管理・運営を担う頭屋の交代にかかわる儀礼である点がほぼ共通した 要素となっています。
 関東地方で現在も行われている弓神事は、新暦の1月あるいは2月に集中しています。そのなかからいくつか事例を紹介しますと、 埼玉県吉川市の香取神社に伝わるオビシャは、毎年1月7日の春祭りとして実施されます。氏子は460戸あり、神社の神事や祭礼の 運営に際し、区域を1区から5区の当番区に分け、これらが交代で一年間の行事全般をとり仕切ることになっています。祭礼の 当日は、午前9時ころから境内の明きの方(恵方)に的を設置します。これは直径が約1bあり、西内紙という和紙を貼り合わせて 作ります。紙の間には一年に見立てたユズリハ12枚(閏年のみ13枚)が収められており、表面には足のない烏をデザインした絵が 描かれています。11時過ぎから宮司が拝殿で祝詞をあげ、お祓い、代表者による玉串奉納のあと、いよいよ弓取式です。まず、 宮司と当番区総代が1回で二矢、射場の入れ替えでひとりあたり計4回の奉射を行います。次に赤子が無事に成長するよう祈願して 弓を取らせたあと、各区の総代が交代で弓を射ます。そして最後に再び宮司と当番区総代が空に向けて矢を放ちます。このあと 直会に入り、関係者が拝殿に着座して第一献から第二献、神饌披露、第三献と続く「三献の儀」が行われてご神酒を振舞います。 ひき続き神事に入り、12時50分ころから当番区の引き継ぎ(頭渡し)が行われて終了となります。その際に引き継がれるのは、 弓、弦、神号軸、神宮請社員名簿、焼き印、本殿錠、諸式控帳などとされます。この地域のオビシャの目的は、無病息災、悪霊退散、 豊作祈願といわれ、弓取式において矢が的を射抜けば、その年は豊作になるとされています。
 同じ埼玉県内でも、川越市下老袋の氷川神社の弓取式は2月11日に行われます。神事は、神主を先頭に関係者、甘酒や豆腐田楽を 持った一行の入場ではじまり、神社拝殿での祝詞奏上、お祓い、玉串奉納で終了します。このあと弓取式に移り、本来は各地区から 選ばれたユミトリッコ(1〜6歳の長男)が弓を射ることになっていましたが、現在は羽織・袴を着用した地区総代が代わりに行います。 的は三重円のもので、烏などの絵はありません。5人の総代が各3回の歩射を行いますが、これらはそれぞれ春作、夏作、秋作の 豊作を予祝するとともに、的の白い部分に矢が当たると晴れ、黒い部分に当たると雨が多いという具合に、卜い行事としての性格が 強く表れています。

下老袋・氷川神社の弓取式

 東京都新宿区の中井御霊神社と葛谷御霊神社では、1月13日に備射祭が行われます。午前中は葛谷御霊神社で分木受渡しの儀、 ご神酒の儀、取肴の儀のあと、社殿の前で引き弓の儀が行われます。的は約1bの笊状円板に紙を貼ったもので、表に三重円を描き、 その中心に2羽の烏(2本足)が向き合った図案です。ビシャを行うのは送り番と受番のふたりで、小・中・大の矢を交互に射る ことでその年の豊凶を卜うといわれますが、鳥居に吊り下げられた的まで20bほどの距離があるため、射られた矢はほとんど的まで 届きません。午後になると、中井御霊神社でも弓神事が行われます。拝殿での祝詞奏上、盃儀のあとに弓射の式があり、氏子から 選出されたふたりの頭屋と宮司が弓を射ます。その際、一の矢は鬼門に向けて放たれ、二の矢が的に放たれます。こちらの的は、 三重円の中心に足のない飛翔する2羽の烏が描かれていて、時代とともに簡素化されてきた状況が窺えます。由来によれば、中井 御霊神社が本家筋にあたり、葛谷のほうはその分霊を祀ったものといわれます。弓矢の製作や弓射の方法などを比較しても、中井の ほうがより古い形式を伝承しているものと考えられます。ただし、的に描かれた烏の絵に関しては、葛谷のものが本来の姿を継承して いるのではないかと思われます。
 千葉県八千代市高津新田のオビシャは、別名をカラスビシャといいます。この地区にある諏訪神社の氏子によって継承されている 神事です。氏子は現在47軒あり、毎年2軒(4人)ずつ交代で頭番を務めます。弓射が行われるのは社殿脇の境内で、的はシノ竹で 作った六角形のものが一つだけです。描かれているのは烏が飛翔する絵で、足は二本となっています。的の数も含めて、少なくとも 50年ほど前からは変化がないとの話でした。ただし、同県内の市川市には3本の足をもった烏を描いた的もあるといわれています。 弓と矢についても、10年ほど前までは神社の境内に自生していたシノ竹で作り、弦は麻ひもを利用した質素なものでした。ここでは、 弓射に際して特にきまりがなく、氏子の人たちが適当に行っていましたが、古くは矢を放つ人もそのやり方にも決まり事があったものと 考えられます。実際に、当事者の話を伺っても祈願の対象や目的に関する説明は曖昧で、神事としての意味合いが希薄化している点は 否めません。このあと、近くの公会堂で頭番の引き継ぎと直会があり、その際、氏子の名簿を襟首に挿して渡すという風習が今でも 伝えられています。
 流山市の鰭ヶ崎に伝わるオビシャは、7戸の氏子によって継承されています。ここの神事は、祝詞奏上のあと歩射、トウ渡しの手順で 行われますが、二つの的の絵は青鬼と赤鬼の組み合わせです。弓射を行う人と順番は決められており、かつては備社田の耕作も行われて いたといわれます。二つの的を射るところはほかにもあり、たとえば茨城県では、龍ヶ崎市馴馬町で毎年1月中旬にオビシャが行われます。 これは、坪ごとにダンナ衆が行う行事とされ、二つの的に描かれた絵は烏と兎です。また、引き継ぎの際は「オビシャさま」と呼ばれる お宮を次の頭番へまわしていくという形態をもっていました。ここで気になるのは、弓神事がどのような目的で行われていたのかという 点です。『熊野の太陽信仰と三本足の烏』〔文0059〕によれば、それを解明する重要な手がかりは、的に描かれた絵にあるとされて おります。関東地方のオビシャには、さまざまな的が使われていますが、図案としては烏が多いといわれます。古代中国では3本足の 烏は太陽の象徴でした。同様に月の象徴は兎あるいは蟾蜍です。これに該当するのは龍ヶ崎市の事例ですが、吉川市の場合は、烏絵の 中に12枚のユズリハが収められている点が注目されます。これは旧暦の月の回り、つまり1年の「時」を表したものでしょう。 この的を弓で射るということは、年の交替を図るための「時」の更新が目的ではなかったかと考えられます〔文0059〕。

 

 

[写真上左]ユズリハが入った吉川市の的/[上右]葛谷御霊神社の二羽の烏
[写真下左]八千代市の六角形の的/[上右]流山市の鬼の的

十九夜待

 十九夜待は、いわゆる広義的な月待行事の一形態として、主に関東、中部、東北南部、西日本の一部などで信仰されました。 関東地方では、利根川下流域から北側に広く分布し、現在も各地で行事が存続されています。以下に、いくつか事例を紹介 しましょう。
* 茨城県つくば市:毎年正月、2月、12月の各19日に行い、かつては30〜40代の婦人を中心に約30人ほどの講が 形成されていました。現在は公民館に集まってお茶を飲む程度で、十九夜塔を拝むと解散します。また、お産を控えた人が 安産祈願のために二股の塔婆を立てることがあります。
* 栃木県野木町:2月と12月の各19〜20日にかけて行われました。地区内の不動堂内に、如意輪観音が描かれた掛軸を かけ、線香を立てた火鉢を中心に車座に座り、念仏を唱えながら拝んでいました。講は30人ほどの組織です。
* 群馬県板倉町:地区内の25軒で、毎月19日に実施していました。既婚女性だけの安産祈願の行事とされ、十九夜さまの 掛軸を拝むのが主な目的でした。無事に出産を終えると、寺院の境内にある十九夜塔にタスキをかける風習があります。
* 埼玉県大利根町:実施日は不定で、15軒からなる組合で行われていました。当日は十九夜さまの掛軸をかけ、線香、 ロウソク、食物などを供えます。お産の近い人が短くなったロウソクを持ち帰り、自宅でこれを使うとお産が軽くなるといわれて います。かつては、念仏あるいは御詠歌などを唱えていた形跡が窺えます。
 他の伝承もほぼ類似の内容となっており、全体として女性を主体とした組織による安産祈願の行事という性格が強く表れて います。また、この行事の一環として行われる「犬供養」も、茨城県や栃木県の一部地域で特徴的な要素を構成しています。 これは、産が軽いといわれる犬にあやかり、それらが死んだときに行われる供養であり、50〜80aの経文を書いた股木を 分かれ道などに立てるものです。この流域では、産神信仰として下流域に子安信仰が、中・上流域には産泰信仰が濃密な分布を 示すことが知られています〔『利根川−自然・文化・社会−』文0150〕。このうち、子安信仰は犬供養と深いかかわりをもつと されていますが、十九夜待信仰圏と子安信仰圏の重なりを考えれば、三者の習合も特別な事例ではないことがわかります。同じ 下流域でも、千葉県では時代の経過とともに十九夜待信仰が子安信仰へと収斂された経緯があり、犬供養も子安信仰の一部として 行われている地域があります。このことは、千葉県内における近世の十九夜塔分布からも明らかで、かつては十九夜待が主体的に 行われていたものと考えられます。  ところで、この地域での十九夜塔は相当数あり、古いものでは近世初期の1650年代に造立がはじまり、1690年代にかけて一気に 初期のピークを迎えています。これらの石塔に共通しているのは、その銘文に「十九夜念佛供養」の文字が高い確率で認められる ことです。つまり、近世初期の十九夜待信仰は、念仏講的な性格を有した信仰ではなかったかと思われます。銘文の文字は、 その後の造立で「念仏供養」を消失させる傾向を示し、次第に子安信仰との習合が図られていくように推察されます。
 以上の点から考察しますと、十九夜信仰がはたして本来の月待行事なのかという素朴な疑問が湧いてきます。少なくとも、 現地での聞きとり調査では、月の出を待ってこれを拝したという行為は全く認められません。また、そのような形跡があった という確かな伝承も聞かれないのです。一方、この流域では二十三夜待の信仰もさかんで、1790年代以降は二十三夜塔の造立が ピークを迎えています。地域によっては、二十三夜が男の行事で、十九夜は女の行事としているところもあります。また、福島県の 十九夜待についても、安産祈願を目的とした産神信仰に特化しており、現状では二十三夜待のような月の出を拝する信仰形態は みられません。ここで、いわき市に伝わる十九夜念仏を紹介しておきましょう。

帰命頂礼 十九夜の 由来をくわしく 尋ねれば
若き女人の 大厄に 難産除けの 祈祷とて
清水をあらため 身を清め 九日十九夜 多けれど
寅の二月の 十九日 この念仏に 始まりて
帰依ある人も 無き人も 互いに誘い 誘われて
雨の降る夜も 降らぬ夜も 厭わず違わず けたいなく
十九夜講に 集まりて 我名を千遍 唱えなば
腹立つ度の 咎を消し 今世は祈祷 未来では
必ず救い とらんとて 大慈大悲の 御誓い
六観音の その中に 如意輪菩薩の 御誓い
あまねく衆生を 救わんと 六道巷に 立ち給う
悲しや女人の 身の障り 穢れ不浄の 定めなく
今朝まで澄みし 早や濁り 洗い濯いで 零す水
天神地神も 水神も 許させ給え 観世音
如意輪菩薩と 唱えなば 永く三途の 苦を遁れ
死して未来に 行く道は 四方の天も 雲晴れて
吹く風までも 法の声 藺香薫じて 天よりも
無明の花も 降り下り 中にも如意輪 観世音
慈悲の光明 輝きて 玉の天蓋 さしかけて
十悪五逆の 我われを 右と左に 伴いて
八萬由旬の 血の池を かそかな池と 見て通る
地獄地獄の 門徒たち なんなく通る 御慈悲に
先立つ者は 父母も 皆諸ともに 極楽に
導き給えや 観世音 極楽浄土の 涼しさは
妙法蓮華の 花咲きて 十方世界の 諸菩薩も
正念供養の 経陀羅尼 天より天女の 天下り
十二の音楽 練り供養 いざや十九夜 講半ば
この道教に 入らずんば 永く地獄に 落ちるべし
頼めや頼め ただ頼め 後生友達 講仲間
寺でも堂でも 在家でも 懸け念仏で 南無阿弥陀
即神成仏 南無阿弥陀
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

   

茨城県の十九夜行事
※[左]十九夜待の掛軸/[中]犬供養の塔婆/[右]十九夜塔と祈願成就の幡

十七夜待

 十七夜とは、旧暦で17日の月をさし、この月の出を拝する行事が十七夜待とされています。いわゆる広義の月待信仰の一つで、 通常は正月・5月・9月に行われ、このうち正月の十七夜待がさかんでした。この十七夜待を供養する目的で建てられた石塔 (十七夜塔)も各地にみられます。
 月待といえば、一般には二十三夜の月の出を拝する行事が中心です。本来は宗教的な要素を含まない素朴な信仰儀礼であったと 考えられますが、仏教との関係を深めるなかで七夜待と称する信仰が生まれました。これは十七日から二十三日の7日間に 六観音と勢至菩薩を配して祀るもので、十七日の本尊は千手観音あるいは聖観音とされています。東京都の奥多摩町には、 この十七夜待を供養したと思われる石塔が山間の道沿いにあります。1943(昭和18)年の再建塔ですが、もとは宝永年間の 造立とされ、千手観音の彫像をもっています。ただ、詳しい資料がないので、実際に十七夜待行事が行われていたのかどうかは 不明です。一般的に、民間での十七夜待行事は、月待行事というよりむしろさまざまな信仰との複合行事として捉えたほうが わかりやすいかもしれません。地域によっては、念佛講との習合がみられるほか、十五夜に類似した行事の性格も併せもっています。

 

十七夜に関連した石塔類
※[左]東京都奥多摩町の十七夜待塔 / [右]埼玉県秩父郡の十七夜念佛塔

二十三夜待

【月をめぐる信仰】
 月は、地球にもっとも近い天体です。古来より天文・暦法や信仰の対象としてかかわりの深い天体であり、夜の闇に貴重な明かりを もたらす存在感は絶大で、太陽とともに多くの神話や伝説、伝承に登場します。身近なところでは、太陰太陽暦に象徴されるように 永い間人びとの生活のリズムを支配してきた歴史があり、月のもつ神秘さや力にあやかりたいという姿勢が、仏教をはじめとする 宗教思想と結びついて「月をめぐる信仰」へ発展したものと考えられています。十五夜行事などにみられるように、近世以降は庶民の 間にもようやく観月などの慣習が広まってきたようですが、その背景には都市の発達と都市住民の生活様式の変化が大きくかかわって いるようです。
 さて、月待に関する史料は少なく、その実態についてはよくわかっていません。中世の月待に関する重要な資料としては、15世紀 の中ごろに出現する「月待板碑」があります。これらの板碑からは、当時すでに月天子すなわち勢至菩薩が月待の本地仏として信仰 されていた状況を窺うことができます。勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされますが、中世の月待板碑には「二十三夜待」の文字は 表れていません。近世に入ると、月待信仰は各地で隆盛期を迎えます。月待板碑に代って、さまざまな形態の月待供養塔が造立される ようになり、月待自体も目的に応じて講が組織され、多様化が進展しました。地域によっては、ある特定の信仰日に集中して行事が 営まれるようになりました。このうち、十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした安産祈願の行事が主流をなし、 二十三夜待の信仰とは一線を画した展開がみられます。二十六夜待の信仰も、近世になって顕在化してきたものとみられ、江戸では 都市文化の一端に組み入れられた近世後半に大流行をみせた時代がありました。
 月待というのは、一般にある特定の月の出を待ってこれを拝する行事とされています。月齢によって、十五夜から二十六夜まで さまざまな月待が知られていますが、もっとも多く行われたのが二十三夜待です。ほぼ全国的にみられるもので、月待といえば 二十三夜待をさすといってもよいほどです。多くは地域ごとに「講」が組織され、神道や仏教などの影響を受けながら継承されて きました。月待講と称される行事は、現在も各地で細々と行われていますが、その実態は産泰講や庚申講、念仏講などとの習合が 顕著で、内容も地域の社交的な寄り合いに終始しています。したがって、本来の月の出を待つという形態はほとんどみられなくなり ました。

【二十三夜待】
 太陰太陽暦では、基本的に毎月23日に月齢二十三近い月がめぐってきますので、三日月信仰などと同じように、もとは月ごとに これを祭っていたものと考えられます。ただ、各地の記録をみますと、正月・5月・7月・9月・11月という事例がほとんどです。 これは月待に限ったことではありませんが、陰陽五行思想の影響で陽の数である奇数月が重んじられた結果と思われます。なかでも 11月23日の二十三夜待は「霜月三夜」としてよく知られています。この時期は、旧暦では冬至にあたっており、古来からの タイシ信仰と習合した事例などもあって複雑です。具体的にどのような二十三夜待が行われていたかは、各地の伝承からその名残を 見出すことができますので、いくつかの事例を紹介します。
* 茨城県龍ヶ崎市:旧暦の毎月23日に行っていました。参加者が飲食をしながら月の出を待ち、これを拝んだといいます。 三夜さまは「お金の神さま」といわれています。
* 群馬県千代田町:旧暦23日が二十三夜の縁日で、特に正月と7月がにぎやかでした。夜遅くまで月の出を待ち、これを拝みました。
* 千葉県野田市:30年ほど前まで、旧暦の毎月23日に行われました。二十三夜の月の出は、仏さまの姿に見えるといわれ、 念仏を唱えながら拝みました。三夜さまは女性だけの行事であり、念仏は一番から三番まであったようです。行事が終わると、全員で 三夜さまの石塔にお参りしました。
* 山梨県小菅村:二十三夜の月待は、旧暦の毎月23日に行われ、皆が集まって月の出を拝みました。
* 長野県上伊那郡:三(サン)は産につながるもので、女性は安産を願うために講をつくりました。月が上がるまで外に立って待ち、 そして願をかけることを習わしとしました。これをオタチマチといいます(横山好廣氏の調査)。

 

[左]二十三夜堂/[右]勢至菩薩

【三体月の伝承】
 二十三夜待行事でもっとも興味深いのは、その夜の月が三体になって昇るという伝承です。これは和歌山県の熊野地方に伝わる もので、月に供えものをしたり、念仏を唱えたり、またある地区では山に登って「三体月」を拝んだものであるといわれます 〔『熊野信仰の起源』文0057〕。ここに紹介されている事例は、6例中5例が霜月23日の月が対象です。三体月に類似した 伝承は他の地域にもあり、
* 青森県南津軽地方:七福神(正月)、アヤメ(5月)、稲を積んだ形(9月)〔『二十三夜の月を訪ねて』文0158〕
* 宮城県加美郡:3本のロウソクをともした形〔『東北の歳時習俗』文0142〕
* 千葉県香取郡:御幣3本の形、あるいは帆をかけた船の形
* 奈良県北葛城郡:輪を被ったように三つ〔『大和に残る星の古名(下)文0265〕
などさまざまで、熊野と同じ三体の月とみるところも埼玉県や静岡県、熊本県などで伝承されています。
 これを単なる俗信として片付けられないのは、二十六夜待ちの類似伝承も含めて、信憑性の高い証言が意外に多くのこされている という事実です。以前から、これを自然現象ととらえ科学的に解明しようとする動きはありましたが、予測が困難なうえに確率の 低い現象ということで、明確な証拠は長い間把握されることがありませんでした。しかし、1992(平成4)年になって、三体月伝承の 本拠地ともいえる熊野地方において、ようやくその実態が写真撮影されたのです。この現象は二十三夜の月ではなく、六日月で偶然に 確認されたものですが、「最初は完全に三体に見えた」という観察者の話を紹介しています〔『熊野地方の伝説「三体月」の観察』 文0058〕。この現象の正体は、一種の蜃気楼現象と考えられますが、かなり複雑な条件のもとで発生しているといえるでしょう。

二十二夜待

 二十二夜待も月待信仰の一形態とされ、一般的には月齢二十二日の月を祭る行事と考えられています。しかし、関東地方での 伝承や行事の名残からは、十九夜待と同じように産神信仰や念仏などとの習合があったものと推察されます。行事自体が早くに 衰退した地域が多く、現状では単なる寄り合いと化しているのが実態ですが、いくつか事例を紹介します。
* 埼玉県児玉町:かつては、旧暦の毎月22日に、行事を組織する各家のもち回りで行われました。古いしきたりでは、「二夜さま」 と称する掛軸をかけ、炒り豆の粉で作りものをして食したといわれます。年配の女性だけの集まりでした。
* 埼玉県本庄市:毎月22日夜に行われた女性だけの行事で、二夜さまは安産の神さまと伝承されています。
 他の事例もほぼ同じで、なかには「お日待」と称しているところがあります。この行事においても、本来の月待にかかわる要素が みられないのが特徴であり、実態として行われていなかったものと推測されます。二十二夜待の主尊は、十九夜待と同じ如意輪観音 ですが、近世中期から後期の二十二夜塔では、さまざまなタイプの観音像がみられます。共通項は、「女人講」による造立がほとんど であり、当初から観音信仰を基盤とした行事であったと考えられます。利根川流域では、中流域の群馬県や埼玉県において、十九夜 信仰圏と二十二夜信仰圏の境界が明瞭に表れているのが大きな特徴です。

 

秩父市の二十二夜信仰
※[左]二十二夜待塔と薬師堂 / [右]堂内にみられる信仰の名残

二十六夜待

【六夜さま】
 月待行事の一つとされ、二十六夜(実際には夜明け前)の月の出を拝することを目的とします。一般には、正月と7月の二十六夜が 対象ですが、地域によっては他の月にも行われていました。ただし、二十三夜待のように全国的な行事ではなく、やや偏った分布を 示しています。関東地方では、近世の江戸で隆盛をきわめた一時期があり、江戸の六夜待としてよく知られています。それらが影響して いるかどうかは不明ですが、近隣地域でもさかんに行われた記録があります。二十六夜待は、二十三夜待よりもさらに遅い月の出を 待つ必要がありますが、月齢二十六前後の月といいますと、その形は三日月のように細く、しかも東天に姿をみせるのは明け方に 近い時間です。各地の二十六夜待に関する伝承を以下に列記します。
* 秋田県仁賀保町:ロクヤマヂあるいはゴリヤクサマと呼ばれます。神社にて酒盛りをしながら月の出を待ち、月が昇ると豊作を 祈願しました。また、ところによっては番楽を奏し、月の出を待ちました。二十六夜の月に出は、船の形に見えたり、2本の ロウソクにも見えるといわれます(横山氏の調査)。
* 山形県酒田市(飛島):ロクヤの月さまといって、旧暦7月26日に村中でご馳走(餅、おはぎなど)を供え、月が出るといっしょに ご馳走をいただきました。特に願かけはしませんが、二十六夜の月の出は、年によって盃の二段重ねになったり、2本のロウソクに なったりします(横山氏の調査)。
* 東京都八丈島:ロクヤさまといって、旧暦7月26日の月の出を拝みました。このときの月は、船の形やロウソクの形に見えるという 伝承があります。
* 神奈川県横浜市:旧暦9月23日には、海辺にて夜中の月の出を待ちました。月は千葉の山から宝船の形で昇ってきたといわれます (横山氏の調査)。
* 神奈川県横須賀市:人々は、毎年秋になると二十六夜さまを拝みに観音さまへ出かけました。月は鹿野山と竹岡の中間辺りから 昇ってきますが、船の真ん中に船頭が乗っている姿に見えたといわれています。

二十六夜の月の出に関する伝承

 このほかにも、「月の出が三体に見える」とか「阿弥陀三尊の姿を拝むことができる」などの伝承が各地にあります。紀州の 熊野地方などでは、二十三夜の三体月としてよく知られており、元来が二十三夜待における信仰がその本筋ではなかったかと思われます。 八丈島の場合は、一度中断された行事を数年前に復活させ、地域の新たな行事としてとり組まれている事例です。行事の内容は かなりの変化がみられるものの、現代社会においても神秘な月を拝する行事への関心は高いといえるでしょう。
 江戸の二十六夜待は、前期と後期でその様相を異にします。前半期のそれは、信心深い庶民を中心とした本来の月待行事だった ようですが、後半期になると一種の流行と化した側面がみられます〔『二十六夜待』文0161〕。このころの六夜待は、湯島天神などの 高台や芝高輪、品川、川崎などの海岸あたりを中心に行われ、文化・文政の時代には万来の見物客でにぎわったことが多くの文献で 紹介されています。当時の状況については、その実態が月待信仰の名を借りた遊興娯楽の行事と化していたようすが窺えます。 はたして、当時の江戸玩具に「御来迎」というものがあり、これは月待と称して夜遊びを楽しんだ遊客たちが、月待に参加した証と して買い求めたとされています。このような風俗の乱れが顕在化すると、幕府も取り締まりを行うようになり、江戸の一大イベントと 化した六夜待は天保期に入って急速に廃れていきました。江戸周辺では、茨城県や千葉県、神奈川県、山梨県、静岡県の伊豆半島、 東京都の伊豆諸島などで行われましたが、分布は局地的です。沿岸域ばかりでなく、山間部でも熱心に信仰されたところがあり、 この場合は周囲が見通せる高い場所へ登って月を拝することになります。山梨県南部や伊豆半島にある「二十六夜山」は、その名残を とどめた史跡として貴重な存在です。
 ところで、二十六夜待がいつごろから行われたのか、その起源についてはよくわかっていません。いわゆる中世の月待板碑のなかには、 二十三夜待供養を目的としたものが多くみられますが、二十六夜待を具体的に示す史料はほとんどみられないようです。近世以降に 出現する二十六夜塔をみても、年代的には享保年間以降に多く造立された傾向を示しています。また、月待信仰ではそれぞれの月待を 行う日によって本尊が決まっており、たとえば二十三夜待であれば勢至菩薩を信仰することになります。二十六夜待の本尊は愛染明王と され、「愛」と「藍」が音で通ずるところから染物業者の守り神としても広く信仰を集めた経緯があります。したがって、二十六夜塔の なかには、こうした染色あるいは養蚕関係の人たちが造立したものも少なくなく、本来の二十六夜待供養を目的とした石塔とは区別して 扱う必要があるでしょう。

二十六夜の月(※暗い部分は地球照で輝いている)

【二十六夜の御詠歌】
 二十六夜待においては、月の出を待つ間に御詠歌などが詠われていました。岩手県盛岡市で、大正時代に二十六夜待を体験した 記事にも、東の空に向かって御詠歌を詠うようすが紹介されています〔『二十六夜尊の思い出』文0160〕。また、神奈川県三浦半島の 二十六夜待は戦前まで続いていたようで、横山好廣氏の調査によると、次のような御詠歌を歌いながら月の出を待っていたことが わかります。

♪帰命頂礼タカナワの 二十六夜の御来光
拝もとすれども雲かかり 雲に邪険はなけれども 我が身が邪険で拝まれぬ
また来るロクヤを 体を清めて 拝みましょう(参りましょう)
ナムアミダーブーエー

 この歌は、武相流の口伝によるものとされ、三浦半島には数人の伝承者がいるといわれます。御詠歌は、西日本でも記録されて いますが、特に二十六夜だけのものではなく、念仏などを含めて二十三夜待や十九夜待などでも類似の歌があります。