“ワープする宇宙”

「ヘイ、ユー。運ちゃん。ちょっと頭を冷やしたいから飛ばしてくれないかね」
「は?どちらまで?」
「そこの黒い穴を1周して、向うに見えるだろ。カラビ・ヤウとかいう石頭が。毛が3本立っている。中は真っ暗だ。そこを突っ切ると相棒がいるはずだ」
「・・・?相棒?」
「超猛暑性相棒じゃよ。とにかく暑い。猛暑は元から絶たねばならん。パートナーとか言っているが、重量があって尻が重いんだよ。君の奥さんはどうかね。わしのはフォティーノとかいってね、重いくせに無理に跳ぼうとするんだな。尻重女が宙を飛んでいるというかね、おい、君、早く飛ばせ」
「はぁ?」
「とにかくいいから行け。あ、そこを上へワープ、ワープ」

・・暑さで頭がやられてしまった。 ようやく少し涼しくなったが、しばらくは猛暑で弱い脳がさらに弱くなった。数式をいじくりまわす気にもならなかったので、その間に、リサ・ランドールの『ワープする宇宙』を読んでみた。数式が1行入ると、売れ行きが半分に落ちるという「1/2のN乗則」にのっとって、数式ゼロの本だから、暑さに最適だと思ったのである(笑)。

最近は素粒子の標準理論を越える方向として、主に二つの方向性が盛んに探求されている。いずれも力の統一という目標に向かっているが、その一つは対称性を拡大する方向であり、たとえば超対称性理論である。宇宙初期のような高エネルギーでは大きな対称性が成り立っていたが、冷えてエネルギーが低くなると、対称性が破れ、標準理論のような有効場理論が成立する、と考えるのである。
もう一つは高次元宇宙論であり、時空の高次元化である。これはカルーツァ-クラインに遡るが、最近はスーパーストリング理論に刺激を受け興隆を極めている。ランドールとサンドラムの”Warped extra dimension”もその一つだが、スーパーストリング理論とは違って10次元とか11次元とかものすごい宇宙(?)を考えなくて、空間次元を4次元にして時空5次元ですませるシンプルさが特徴である。

時空を高次元化する場合、その余剰次元をどう始末するかという問題がつきまとうが、従来はその余剰次元はきわめてコンパクトに巻き上がっていると考えてきた。が、著者らは必ずしも余剰次元をコンパクト化しなくて無限に広がっていたとしても、”ワープ”の仕方のよっては、被害は最小限に食い止められることを示した。
たとえば、次のような線素の宇宙を考える。
           
yは新たな空間の余剰次元であり、kがワープ係数である。この宇宙は空間4次元だが、yの位置を固定すれば、その上では平坦な3次元空間が得られる。われわれの見える宇宙が高次元宇宙に埋めこまれたブレーンに閉じ込められていると考えれば、こういう考えも成り立つ。
しかし、空間が4次元、時空5次元がすべて平坦だとすると、重力のニュートン・ポテンシャルは距離とともに急激に減少し、逆2乗則は成り立たなくなる。そういう高次元宇宙はわれわれの経験や実験に反するのである。
ところが、平坦ではなく、ワープ係数が指数関数の肩に負で乗っているため、上式のような宇宙は重力が高次元空間に逃げ出すことを防ぐ。重力がブレーンに集中しているため、ブレーン上ではほとんど通常のニュートン・ポテンシャルが成立していることになる。3次元空間から見れば、4次元目の空間がひどく湾曲しているためである。

簡単にはそういう考え方なのである。
いずれにせよ、理論モデルだから、「なぜそんな計量になるんでやんすか?」などと問い詰められると弱いが、冒険的であればあるほどよいだろう。著者自身が真っ先に引用しているように
    メンブレーン(細胞膜)もいかれてる
    ブレーン(脳)もいかれてる
が、理論に冒険はつきものだから、どうせなら、最大にいかれていると思われた方がよいだろう。というのは当分、高次元理論の検証はできそうもないからだ!(笑)そして著者が主張するように、階層性問題の解決に繋がるアイデアになることだってあるかもしれない。なんてったって、宇宙がとんでもない問題を提出しているのだから、あまりにも奇妙すぎる!と、われわれは高次元論者に向かってではなく、自然に向かって文句を言わなければならないのである。

が、「数式なしで分かる最先端宇宙論!」といった都合のいい出版社の宣伝文句に騙されて、狙い通りに「異次元が云々」とか言い出さないように。こういう本がどう受け止められるかさっぱり分からないが、まだ固まっていない最前線よりも固まった部分(たとえば標準理論など)の解説が非常に良い本であった。


                    (2007/09/01)

                   “テポドン2号”

北朝鮮が打ち上げた“テポドン2号(ペクトゥサン(白頭山)3号)”については、1段目は燃焼したが2段目が点火しなかったとか、いや北朝鮮が自制したのだ(笑)とか色々な解釈があるが、約40秒という燃焼時間から見て、1段目になんらかの燃焼異常が起きた結果、失敗したというのがもっとも妥当な見方だろう。2段目点火失敗説では、あまりにも燃焼時間が短すぎるのである。

日米両政府は6日、北朝鮮が5日に発射した長距離弾道ミサイル「テポドン2号」が発射直後に異常を起こして損壊、その一部が発射場付近に落下したことを確認した。テポドン2号は2段式だが、1段目の新型ブースターの燃焼に問題が生じたと分析している。ミサイルの構造的な問題が浮上したことで、北朝鮮の別のテポドン2号発射の動きに影響が出ることも予想される。
北朝鮮は5日午前4時59分に北東部の舞水端里(ムスダンリ)のミサイル施設から、テポドン2号を発射した。同日発射した7発のミサイルの3発目で、約400キロ飛び日本海に落下したとみられているが、発射後、日米両政府が偵察衛星などで状況を確認したところ、テポドン2号の一部と見られる物体がミサイル施設の数キロ以内で確認された。(毎日新聞7月7日)


この燃焼時間だと、記事のように発射施設に近いところに破片が落下することもありうる。破片が落ちたとすると、爆発その他エンジン系の不具合が起きたと考えるのが妥当だ。
また落下地点に対する報道が正しいとすると、今回のミサイル実験は98年の“テポドン1号(幻の光明星1号)”と違って真東に打ち上げておらず、やや北に向けて発射されている。

だが、弾道ミサイルであるということや技術力から見ても、一部の説のようにハワイなどという点に着弾できるものでもないし、テポドン以外の“ノドン(ファソン(火星)6号)”や“スカッド(クムソン(木星)13号)”だってバラバラに着弾している。精度も、まだまだだ。
前回と違って今回、北朝鮮は「軍事訓練だ」と開き直ってはいるが、ヨーロッパまでも懸念を示す有様で、国際政治的パフォーマンスという意味でも、失敗している。
       
                   (2006/07/08)

その後の情報では、上記の結論は変わらないが、燃焼系異常が発生したのはさらに早く、ほとんど発射直後だったようだ。

北朝鮮の長距離ミサイル「テポドン2号」の発射失敗で、米国の衛星が発射直後に2つの物体が発射台周辺に落ちるもようを撮影、物体は1段目の新型ブースターと2段目の「ノドン」とみて分析を進めていることが分かった。約40秒間飛行が確認されているのは分離した弾頭部分とみられ、これも短距離で落下したとしている。米政府筋が9日明らかにした。(共同通信 7月10日)

                     (2006/07/10)

さて政治的側面の話になるが、国連安保理は北朝鮮のミサイル発射問題に関し、加盟国に北朝鮮へのミサイル物資などの移転阻止に必要な措置を講じるよう求めると同時に、ミサイル発射を非難し、北朝鮮に対しミサイル開発の停止を要求する決議1695を全会一致で採択した。
日米など8カ国は当初、経済制裁などを可能にする国連憲章7章を明記した決議案を提案したが、中国・ロシアが「7章決議」に反対。中国は拒否権行使も辞さない強硬な構えを見せたため、安保理分裂を懸念した英国・フランスが日米案から7章を削除する代わりに「国際平和と安全の維持への安保理の特別の責任」を明記する妥協案を提示、日米も最後には、これを受けいれた。

中国は当初、拘束力をもたない議長声明を主張し、「日本案は火に油を注ぐだけだ」と非難していたが、北朝鮮の説得工作が失敗に終わったことで、土壇場で国連憲章7章なしの安保理非難決議賛成に変わり、ロシアもそれに追従した。安保理が北朝鮮に関して決議を採択するのは、93年、北朝鮮にNPT脱退の再考を求める決議を採択して以来だが、今回は北朝鮮に対する非難決議と共に加盟国に対する拘束性も強い。決議は加盟国に対して「北朝鮮のミサイル開発・大量破壊兵器に関連した物資や資金の移転阻止に必要な措置を講じる」よう要請する一方、北朝鮮に対しては「弾道ミサイル開発に関連したすべての活動を停止し」、再度ミサイル発射を凍結するよう求めている。

実質上、これに至る過程は、日米と中国の対立だったといってよいが、孤立しながらも強硬に反対していた中国が米国との決定的対立を避け「7章なしの安保理決議」に飛びついたため、中露欧州を含めた15カ国一致の決議にこぎつけられ、ミサイル問題への一応の“国際社会の合意”を形成することができた。一部報道では「日本は米国に梯子をはずされ孤立した」とされていたらしいが、日本が米国と共に終始、安保理で主導権を握り続けてきたのは事実であって、「地域の平和に対する脅威(笑)」を感ずる当事者だった。
一方、「北朝鮮は決議のわずか45分後に拒否するという最速の世界記録を作」り、ボルトン国連大使の皮肉を浴びた。
次にはさらに、ペテルブルグで開催されているサミットでの声明にもミサイル問題が言及されることになる。(その後、G8議長総括で、北朝鮮のミサイル発射に「深刻な懸念」を示すとともに、核問題をめぐる6か国協議への即時・無条件復帰と拉致問題の早期解決を求める声明を発表した)

こうして、恫喝瀬戸際際外交により米朝直接取引によって(核開発の放棄と引き換えに)安全保障と重油・原発・経済援助などを確保しようとしていた北朝鮮の意図は、なんら譲歩を引き出すこともなく失敗した。“外交音痴”といわれたクリントン政権下ではテポドン一発で米国の譲歩を引き出したのだったが、直接取引を警戒するブッシュ政権では通用せず、パフォーマンスを続けてきた北朝鮮の孤立をさらに深めただけで、次に打つ強硬手段でも行き詰ってしまった。いまや経済は壊滅の一歩手前だというのに、否、北朝鮮にとっては「だからこそ」であったが。

                      (2006/07/16)

“テポドン2号”の余波が現れた。北朝鮮では、毎年8月に「アリラン祭」を開催し、派手なマスゲームなどを行っていたが、今年はそれが急遽中止になった。その理由として北朝鮮が挙げていたのは、7月の記録的な集中豪雨だったが、実際の理由は観客動員が困難になり、外貨獲得が見込めなくなったためである。日本政府は北朝鮮のミサイル発射の“制裁措置”として半年間の万景峰号の入港禁止措置を取ったが、それによって朝鮮総連などからの資金、物資の移動と、観光客1万2000人の移動が難しくなっていた。毎年350万ドル程度の外貨を獲得していたという。

                      (2006/08/01)

ミサイル防衛を国内初配備 米軍、年内に嘉手納基地へ
金正日、山拓に北朝鮮への招待状…統一協会ルート


Nodong
No-dong - Launch Pad
Taep'o-dong 2



                 自民党の統一教会への祝電事件

気分の悪い話だが、自民党が「統一教会(世界基督教統一神霊協会)」の日本大会に祝電を送った事件について、メモ程度に記しておく。
祝電を送ったのは、官房長官・安倍晋三、自民党政調会長・中川秀直、元法務大臣・保岡興治それに自民党の政務調査会専任部会長・増原義剛である。画像はここにある。
霊感商法で悪名高い統一教会だが、いままでその合同結婚式に参加した日本人女性は数万人、協会に献金された金額は2兆円を超えるといわれる。

統一教会が自民党とどういう深い関係にあったかは闇の中にあって、あまり明らかになっていないが、児玉誉士夫、笹川良一や岸信介の時代にさかのぼり、統一教会の別働隊である「国際勝共連合」と共に日韓反共連合という政治的意図をもったものであったと言われている。統一教会が日本で「国際勝共連合」を立ち上げるに際しては、朴正煕や韓国政府の後押しがあったといわれ、朴、児玉、笹川、岸、安岡正篤といった満州人脈が中心になった。
岸は1974年、日本で開かれた文鮮明の「『希望の日』晩餐会」の名誉実行委員長を務めたし、参加していた大蔵大臣・福田赳夫が文鮮明を「アジアの偉大な指導者」と絶賛したことは記録に残っている。
中曽根康弘は1992年、統一教会の合同結婚式に「宗教的精神に基づいて世界文化体育大典が盛大に開催される意義は極めて大と考えるのであります」と祝電を送った。この年、自民党副総裁・金丸信は、米国で脱税の罪で実刑判決を受けていた文鮮明を入管法の規定に反して超法規的に入国させたが、中曽根康弘はその文鮮明と密会したのであった。
最近では、2002年、自民党幹事長・山崎拓が統一教会関係者である女性と愛人関係になり、防衛機密が漏れる可能性があったと、「週刊文春」がスッパ抜いた事件があった。

また「新しい教科書をつくる会」や「日本会議」にも統一教会や「生長の家」の影響があると言われている。「新自由主義」の旗手というか右派の尖兵である渡辺昇一も、しばしば統一教会に招かれ、講演を行ったり、祝福を投げたりしている。

今回の祝電事件については、弁護士紀藤正樹のブログにある通りだろうが、統一教会のようないわゆるカルト団体が、なぜ自民党や右派“論客”の影の部分を担っているのか、単に「反共連合」だけでは説明できない。文鮮明は北朝鮮の定州生まれで、その生家は教会内部では聖地扱いされているらしいが、「共産主義を神の名のもとに倒した」などと言う一方では、金日正とも会談を持ち、二面的な動きをしていた。1991年の金日正との会談で、35億ドルの経済援助を約束し、対北朝鮮大規模経済投資で両者が合意したが、さらには金正日の教育係を申し出て、父親金日正に同意させたという。
金大中と金正日の南北会談をお膳立てしたのも統一教会であったし、最近は韓国内の空気を反映し、さらに親北朝鮮になっている。霊感商法や信者から吸い上げた金の一部を、政治献金として還流するという黒い金の流れだけが存在理由でもなさそうだ。なんのためか銃砲店を経営したり、「癌を心で治す」などという突出したカルト性から見て、もっと隠された理由もありそうである。

山崎拓訪朝は統一教会ルートだった(2)

(参考)報道特集 統一教会集会

   アジア平和女性連合・百人委員会
      有田芳生『統一教会とは何か』(教育史料出版会)、有田芳生『「神の国」の崩壊』(教育史料出版会)



                    (2006/06/18)

                  ライブドア、強制捜査から逮捕へ

証券取引法違反でライブドアに強制捜査が入った。
ライブドアとホリエモンに対してはすでに下の「フジvsライブドアの和解」に書いた通りで、私の立場に変更もないし、ライブドアの分析は、そのとき紹介したホリエモンの錬金術を参照してもらえばいいだろう。時代の寵児のようにもてはやしたマスコミには苦々しさが残るが、強制捜査が入ったことで、図に乗って書くつもりもない。時代の象徴という側面だけ、ここで書いておこう。

いつも時代思潮というのは、漠然とした妖怪のような力に突き動かされるものである。
稼ぐが勝ち、にしてもその一つで、閉塞した現実を個人の世界の中で突き破ろうとする衝動または“あがき”のようなものと捉えた方がいいのだろう。経済社会が停滞している以上、全体としての希望は見えてこないが、しかし経済社会が動かなくても、自分が“勝ち組”になれば、個人世界の中に希望を見出すことができる。希望とは端的に自分の富を増大させることだ。
そういった考えは、社会全体に希望が溢れていれば出てこないが、停滞し、個々人が追い詰められれば必ず出てくるものである。それはいかにも“勝ち組の思想”のように現れるが、総体としてみれば、実は経済社会の停滞から個々人が追い詰められて出てくるのだ。

そうした時代思潮の特徴は、停滞状況で出てくるゆえに、勝ち負け、勝負、つまりは社会的ゼロサムゲームに勝つという衝動になりがちだということである。こうした状況では、価値を生み出す地に足をつけた仕事では“小勝ち”はできても、大向うをうならせるような“大勝ち”は難しいからだ。

ホリエモンもその例に漏れないだろう。
社会的ゼロサムゲームに勝ったところで虚業でしかない。が、虚業でも資金は集まるし、それを企業利益に見せかけることもできる(投資組合なるものを使い、自社株を売り抜けた売却益を“事業収益” として、あたかもが事業が年々拡大してるかのように見せる)。実際、虚業であっても、個人投資家は乗ってくるし、乗ってくる以上、企業価値が上がったように見える。たとえてみれば狐と狸の騙しあいのような奇妙な風景だが、ともかく、そういう風にして、一流企業に打ち勝ち、富の世界で打ち勝つ。そうでもしない限り、社会的下層に沈むしかない、と思わせるような時代だからである。

企業としていえば、ホリエモンがやったことはアメリカの一部の企業勢力の後追いでしかないが、だからこそ、そこに富の輝きがあるかのように見えるという側面もあるのかもしれない。グローバル・スタンダード、グローバリゼーションといった思潮に沿っているから、なにかそこにアメリカの巨大な富を予感させるものがある、と。その世界では企業価値とは株式時価総額のことだ。どんな手段を使っても時価総額が上がった方が勝ちなのであって、従来の巨大企業も“負け組み”なのだ、と。
そういう幻想が、ほどよく“小泉改革”の幻想と吊り合うのだ。だが、社会的ゼロサムゲームはどこまでいってもゼロサムでしかない。すべてがそうだとは断言しないが・・・。
                     (2006/01/18)


ホリエモン以下、ライブドアの幹部4人が、証取法違反容疑で逮捕され、新聞の号外まで出る始末、テレビは特番まで組んだ。ライブドア株は監理ポストに入り、上場廃止の直前だ。もはやヒルズ38階で”錬金”はできず、ライブドアは風前のともし火のごとくゆらゆら揺れる。
晩年の秀吉ではないが、黄金の輝きのことは、夢のまた夢、とでもいうべきか。すでにネットでは六本木心中(作詞:湯川れい子)の替え歌まで出回っているようで、世相の変わり身の早さも冬空のごとしだ。

       だけど心なんて 株価で変わるのさ
       分厚い皮膚がヒワイね貴方
       罪な目つきをしてさ 命あげますなんて
       ちょっと場末のシネマしてるね 
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
例年になく寒さが身に沁みるではないか(笑)。経済犯を軽く見る人が多いが、それだって直接間接に人を殺すこともできるし、金の使い方によっては人を救うこともできる。悪質金融業者など何人、人を殺していることか分かったものではない。歌詞にならえば、今回の事件は、あげるつもりもないのに、「あなたに命あげます」などと言う「場末のシネマ」だったかもしれないが、それもまた、終わった。
が、依然として国民に命をやり取りすることを勧める“市場原理主義者”の政治支配には反省はないのだろう。
                    (2006/01/23)

商法の規制緩和とライブドアの株式分割の関係については
ライブドア強制捜査に思う---投資事業組合とか「ごめんね」とか
株式日記と経済展望--ライブドアのビジネスモデル

噂が絶えない闇の部分については
ライブドアの“偽装買収”企業親会社背後に山口組系企業
ある往復書簡
ライブドア ダイナシティ 闇社会暴力団連鎖



                     

自宅の庭に、青紫の藤が垂れ下がるように咲く。
ここ数日が盛りの青紫だ。それだけのことだが、とりとめもない連想も書いて一息入れよう。

紫。ある人によると『源氏物語』は“紫色”を中心に展開する物語だそうだ。桐壺、藤壺、若紫、紫の上、桔梗・・・。というのも、当時は色にもある意味があり、無意味な自然現象というものはなかったからだ。高貴な一方、癒しなどという意味もあったかもしれないし、なにかの精神性を表していた。
巻貝のパープル腺から取った貴重な貝紫は、エジプトやローマの禁制だった。吉野ヶ里から発見された絹片は、すでに貝紫染めだった。その古代の紫である。

色彩といえば、ゲーテに『色彩論』というのがあるが、そこではニュートンに反論し物理的な考察よりも、色の持つ感覚的、精神的な作用について論じられていた。黄色は生き生きとした欲求にあふれるプラス、その反対に青は不安な弱々しいマイナスといった具合である。今でも憂鬱な気分をブルーだとか言うが、そういう感覚は地域、民族、文化、個人などによって異なってくる。ちなみに紺碧の青はちっとも憂鬱ではなく、美しい。ただ、色彩にそういった集団精神的意味づけをしないではいられない点は、古代から洋の東西を問わず、ゲーテや『源氏・・』が特殊だったのではない。ただ敏感だった。無論、個人の感覚は、そういう集団的意味づけを脱出してしまう。

“色彩の神秘”が深刻な悩みになった例もあるようだ。
昔、血盟団事件の首謀者だった井上日召の自伝を読んで、異様な感想をもったことがあった。そこには、社会問題を中心にさまざまな苦悩が書かれていたのだが、その中に“色の神秘”に関するものがあった。どうして自然には色があるのだろうか、色とはなんだ、というような疑問に悩んで悶々とした、といったことが書かれていたのであった。社会問題と並んで、そんな問題が出てくるのが異様だったが、結局、その“苦悩”に誰も答えてくれず、どうしても解けなかったというのであった。

長岡半太郎がディラックの“量子力学初版”を抱えて歩いた頃の話なので、一般の人が量子力学をまったく知らなかったのも当然だった。が、当時の風潮として、それらをすべて哲学問題として解こうとして悩んだのであった。井上日召の場合は、本人の言によれば、そうしたもろもろの“哲学問題”は、あるとき、宇宙的啓示のように、“氷解”したのであった。法華経信者であった井上日召自身の言葉では、“宇宙一元、万物同根、天地一体、善悪不二の一如感”だったらしいが、要するに神秘家の誕生である。当時の苦悩者の行き着く先の一つであるが、これも異様に敏感だったといえるかもしれない。

今や、そんなことは問題にならない。パソコンで簡単に色の操作ができ、人工的な風景で一杯だ。また花の色も交配などで変えられるから悩むこともない。
しかし、色彩に限らず人間の“想像力”というのは意外に貧しく、今でも自然の多様さや豊富さに比べれば格段に劣るようだ。古代の唐草模様にしろ現代のフラクタル構造にしろ、自然から抽出された。荒々しいが想像したこともないような美しい天文画像に驚かされることがあるのも、想像力を超えるからだ。そして色相がぐるりと円環を描いて閉じるゲーテの“色環”は間違っており、その外の紫外、x線、γ線画像などでも見えることになった。それはむろん喜ばしいことだ。視覚にない視覚。まだまだ無限に自然から学べる。

ガシャリと撮る一瞬。そこには青紫の色彩があるというだけではなく、瞬間的な生命現象への感嘆や哀切さがある。



                     (2005/4/28)

                   フジvsライブドアの和解

ギャラリーで満員になった現実の通俗ドラマ。初めからどちらも好きになれなかったのだが、買収劇の結末は、

 (1)ニッポン放送株32・4%を保有するライブドア・パートナーズをフジが670億円で買収
 (2)フジがライブドアの第三者割当増資440億円を引き受け、12.75%を保有
 (3)両社による「業務提携推進委員会」を設置
 (4)ライブドアはニッポン放送株の残りの17・6%もフジ側に売却

と、気の抜けたビールのようになった。収支決算でいえば、ライブドアの“利益”で、1,000億投資して1,400億戻ってきたという勘定。結果としては資金ゼロで、不明快だとしても「業務提携」を手に入れたようなものだが、“フジサンケイの経営支配”という意味では”放棄”または“撤退”だったといえる。大賭けを避けたのである。一方のフジ側は、焦ることもないのに焦り、不勉強ぶりと二重基準ぶりが目立った。それでもフジ側は守勢に立ちながらグループを守ったので、高くついたが、よしとしているのだろう。
騒がしい事件には、舞台上の派手なバトルがあるだけで、あまり実りがない。

若干の補足をしておこう。
まずフジサンケイ側の二重基準について。
日頃、アメリカ型経営手法やグローバリズムを礼賛しておきながら、現実にそれが身に迫ったときの「拝金主義、ルール無視、マネーゲーム」といった非難と豹変は、滑稽な自己矛盾以外のなにものでもなかった。実はこうした自己矛盾はフジサンケイだけではなく、多くの経営者に見られるものであって、彼らは建前と本音は別、「改革」の合唱と同じ現象。だったら初めから「株主、株主、株主・・アメリカ、アメリカ・・」などという礼賛の連呼をやめておけばよかったのだが、凝りもせずスズメの合唱を繰り返す。そのご都合主義の二面性は今回も同じであった。

次にライブドア側の無内容について。
もともとライブドアはホームページ作成を業務とし、M&Aを繰り返して大きくなった会社で、特にこれといった技術もない、いわばIT雑貨会社である。人材使い捨て、低コスト、エログロでもなんでもという安易な商売は、“ITベンチャー”の通弊だが、今回の事件でも内容がまるでない。金の自己増殖の過程に身を置いていることが重要であって、コンテンツなどどうでもいいのである。技術開発など、まどろっこしいこともしない。利益が出ているかのように虚飾し、時価総額を膨らませる“技術”だけがある。
それにしても、旧体制と新世代との対立だの、チャレンジ精神で経済が活性化するだの、大向こうの受けとめ方にはあきれた。新しい市場を切り開くような活性化にはなんの貢献もしておらず、経済行動としてはM&Aと妥協、つまり付加価値ゼロである。
コンテンツ不在のビジネスモデル。それならば、フジテレビをなんで買収しなかったのか?勝つか負けるかという“哲学”ならば、徹底的にやらなければならないはずである。無論、そんなことで人間を内発的に動かすことはできないが、そういう外側からの愚直な一貫性を途中から放棄した。その途端、なにかが変化し、現実的な利益と空白のようなものが残った。余剰のような、ある社会性と共に。
日本経済という観点では無視できるような事件だった。

また思想としてもホリエモンの想定する“アメリカ型社会のコンセプト”には、魅力がなく、金縁のガラや人間の品定め、成金パーティーくらいが出てくるだけだ。どこかのビジネススクール的なしゃらくさい社会像というか、平板で退屈ですらある。科学、学問、文化、芸術、遊び、人間観察、探求、発見・・・等々、つまり豊かさや深さは、どこにも見当たらない。経済的価値とは平板なものだ。



参考)会計士的視点から見たライブドアの“錬金術”の分析に次のものがある:ホリエモンの錬金術


                    (2005/4/18)

                   「ベルリンの至宝展」でのほんのひと時

噴水を通り、上野の国立博物館。その前には、炊き出しを待つ中高年ホームレスたちがおとなしく列を作り、キリスト教団体がギターをかき鳴らす。ジーンズのお姉ちゃんがマイクの前で、ポップな賛美歌を歌う、そのアンバランス。
一方では、その向こうで、花見客のドンチャン騒ぎの宴会が始まるのだろう。
世相は明るくはなく、アンバランスばかりだが、植物の開花は例年と同じ、上野公園は桜が満開で春爛漫の季節だ。ほんの一片、二片が、ヒラリと散っていく。その一瞬の澄んだ時間。空も青い。

国立博物館に入ってひと時コーヒーを飲んだらバランスを回復した(~~;。『ベルリンの至宝展』を観に行ったのだが、それもほんのひと時である。今回はベルリンの旧博物館、新博物館、ペルガモン博物館、ボーデ博物館の所蔵品から選んだ展示品であった。

ペルガモン博物館は前にベルリンで観た。下の写真がそれで、新王朝時代のバビロンのイシュタール門からつづく「行列通り」の浮彫りだが、今回どれだけ来ているかと思ったら、たった一枚しか来ていなかった。
「至宝」というのは嫌な言葉だが、それでもボーデ博物館のコイン・コレクションなど今回はじめて見る展示品もけっこうあった。エジプトのネフェルティティ頭部、ベルリンの黄金帽・・・など。絵画で人気を集めていたのはボッティチェッリの「ヴィーナス」(の誕生、ではない)。肌や髪が3次元のように浮き出ている。一瞬の輝きだ。ロレンツォ・ロットの「聖セバスティアヌス」も殉教の瞬間だ。
シュティーフィングのニーチェ肖像画というのもはじめて見た。いかにも世紀末の、感性が欠落している印象。ニーチェの目はどこかを見ているようで、どこも見ていない。
絵画は視覚と同じく、3次元模索。カラフルなササン朝のコーラン「開扉」、コーラン書見台などというものもあった。こちらは“永遠の経典”というのかもしれないが、いかにも装飾過剰。ギリシャの彫刻はやはり端正で、一瞬の時間を捉えている。
牡牛は繁殖力の象徴。ミイラは空間と時間の閉じ込め。銀貨は神と権力の民への贈与意識、といったところか。

じっくり見ていて面白いのは、エジプトや西アジアの石刻浮彫りで、「捕虜の連行」とか「花の受粉」とか、髪の毛まで細かく彫られているところが実にリアルだ。石刻は権力の瞬間的記念碑。それでも、以前アッシリア文明展だったかで、巨大で、すごい数の浮彫りを観たときは迫力があったが、今回はそんなに数はなく、先史時代から近代まで、そこそこという感じであった。

ベルリンの博物館区は冷戦のお陰でバラバラになっていたが、現在いろいろ改修・新築され、そこに集中、2015年に完成するそうだ。

ついでに本館も回ったが、帰りもお茶を飲みながら、また外の満開の桜を眺めた。いっとき光満ち、世はすべてこともなし、などと歌ったら、日常性への妄信である。なるほどエジプトのミイラの棺はガチャリと閉まるようによくできていた。空間と時間を閉じ込め、その永遠の生命信仰は、奇怪な転生を表しているようだ。だが、ロマネスクのキリストの磔刑もエジプトの転生もこの風景も、宇宙時間の前には、瞬間にすぎない。

瞬間の冷凍庫、それでいいのだ、予定調和はなく、不動点もない。そして次の瞬間には、現代人の貧乏性ですぐ立ち上がり、歩き出す(~~。こうしちゃいられねえや、さてと。生きている日常の時間どころか、死んで土塊となっている時間さえもほんの一瞬なのかもしれない。生命現象が瞬間のように。


                         (2005/4/9)

              ダ・ヴィンチ・コードとニュートン

タイトルを見れば分かるように、今回は余興みたいな話である。ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』が流行っているらしく、フジテレビがビートたけしの『世紀の天才ダ・ヴィンチ 最大の謎と秘密の暗号』という番組をやっていたので、陰謀論的面白さで見た。およそベストセラーというのは読まないので、番組を見た限りの話になってしまうが、「世紀の大発見」というには辻褄が合わない点が面白かった。

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』がクローズアップされる。ナレーター:キリストの左に座る人物は洗礼者ヨハネではなかったのか?キリスト教会にとって、タブーとなる謎の女性の存在。果たしてその女性の正体は?

まずここで、んん?である。キリストの向かって左に座る人物は、いわゆる12使徒のヨハネであって、洗礼者ヨハネではないのだが、どうやら混同しているようだ。洗礼者ヨハネはすでに死んでいる。
そしてダ・ヴィンチが私生児であったことに重ね合わせるように、その左側の人物に焦点を当て(参照)、それが女性に見えることから、マグダラのマリアだという結論にもっていく。

マグダラのマリアというのは娼婦とされている改宗者で、聖書の中では十字架のイエスを「遠くから見守っていた」。また、使徒は誰もキリストの埋葬に立ち会わなかったが、彼女と母マリアの姉妹だけは埋葬に立ち会った。そして、“復活”はマグダラのマリアの元に起こった、と書かれている。
だから、マグダラのマリアはイエスを最も愛した女で、実はイエスとの間に子が生まれていたのだ--その秘密の暗号を守ってきたのがシオン修道会で、この秘密結社にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリル、アイザック・ニュートン、ヴィクトール・ユーゴー、ジャン・コクトーなどが属していたという文書を発見した。 モナリザの謎の微笑は、この秘密結社の暗号を描いたもので、「イエスの子を妊娠したマグダラのマリア」というダ・ヴィンチの暗号に違いない---という筋書きであった。

ここでまた、んん?である。
確かにマグダラのマリアというのは色々なところに影を落としていて、たとえば、ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくる娼婦ソーニャにも、そうした影がある。殺人者ラスコーリニコフは一度死んで、ソーニャの元に革命家として、または宗教家として蘇生するという暗示になっている。
けれども、まず第1に、「最後の晩餐」を共にした“12使徒”の名はマルコ伝、マタイ伝などに明記されていて(12という数字は旧約の“イスラエルの12部族”から来たのだろうし、実際には女性信徒も多かったといわれるが)、マグダラのマリアがここで出てくるわけがない。
彼女は「生と死」を司る古代女神の末裔として、キリストの埋葬と復活の場面に姿を現すのである。「マグダラのマリア」というのは「神殿のマリア」または「神殿に仕える巫女」という意味で、現代の娼婦をイメージしては間違ってしまう。彼女はイシュタール、キュベレー、アナーヒタ、デメテールなどと呼ばれる女神につながる“娼婦”の末裔で、一度死んだ植物や男の生命力を復活させる。聖書が書かれた時代は、おそらく古代宗教の女神たちは衰え世俗的になっていたとはいえ、いくらかの影響力をもった時代だったのだろう、その幻想的な影である。

第2に、「最後の晩餐」で左に座る人物が女性だと決め付けている点。ならば使徒ヨハネはどこへ行ったか?いなくなってしまう。使徒ヨハネは水もしたたる美青年だったという伝承があり、古くから優男として描かれてきたが、ダ・ヴィンチの場合は特にそうした美青年を女性的というか両性具有者のように描く場合が多いのだ。注1) ヨハネが女性に見えたとしても不思議ではない。
ちなみに、ダ・ヴィンチ自身も美貌の持ち主で、少年時代に絵のモデルになったことがあり、後年は彼の周辺にはずっと美少年がいたと伝えられている。そればかりか、当時フィレンツェで流行していた悪徳(男色)の罪で告発さえされているのだから、両性的な傾向が著しく、そうした美意識がヨハネの雰囲気に現れている。あからさまに言ってしまえば、「最後の晩餐」では中央のキリストと大きく空間のあいた弟子ヨハネとの関係はどこか怪しげで、ダ・ヴィンチと美少年の弟子との間の性的牽引力を反映して、異色の反教義的雰囲気を投げかけている。

第3にシオン修道会の秘密の暗号という点だが、テンプル騎士団と繋がっていたとされるシオン修道会なるものがダ・ヴィンチの時代まであったはずはなく、20世紀の中頃、“聖なる伝承”に基づいてフランスで捏造されたものだ、ということである。ジャン・コクトーなどという20世紀人の名が出てくる奇怪さも、そのためである。

ということで、マグダラのマリア説はガタガタだが、キリストもダ・ヴィンチも私生児だという共通項に暗示をもたせているようだ。それならば、なおさらモナ・リザには“聖母マリア”のイメージが込められているとした方が率直であるが、それではグノーシス的異端説としての面白みがなくなってしまうのかもしれない。2) とりわけ「従来マグダラのマリアは娼婦として貶められてきたのだが、ダ・ヴィンチのコードあるいは時代の進展がキリストの真の妻として名誉回復をはかっているのだ」などという、ありがちな解釈は、まったく現代的な勘違いである。
だが、モナ・リザがただの肖像画でないことは確かで、この世ならぬ背景の雰囲気にそれがよく現れている。おそらく、それがなんなのか、あるいはどこなのがを解くことが、モナ・リザの謎を解くことでもあるだろう。注3)

最後にニュートンも「シオン修道会」なるもののメンバーだったという「ダ・ヴィンチ・コード」の説について少し記しておこう。

ニュートンは錬金術や神学に凝っていた時代があり、発見したことを秘密コードで書くのが好きだったので、いかにもありそうな話にしたてられているが、(仮にシオン修道会なるものがあったとしても)実際はありえないのである。なぜかというと、ニュートンは英国人であって、カトリック教会の「堕落」を非難していたし、プロテスタントというかイギリス国教側に立っていたからである。プロテスタントやそれに近い側には聖母信仰はない。彼は哲学の分野としての神学には強い興味を持っていたが、礼拝にはほとんど行かず、「朝の礼拝は眠っているうちに、晩祷は勉強中に終わってしまった」というが、「おぞましき伝説、偽りの奇蹟、聖遺物崇拝、祈祷や礼拝」をいつも非難していた。ニュートンも時代の子であって、アポカリプスに凝ったり、古代エルサレムの復元図の作成に凝ったりしたが、そういった聖杯やら伝説やら三位一体やらは、彼にとってはローマンカトリックの「おぞましい」刻印でしかなかった。


注1)たとえば、「洗礼者聖ヨハネ」をみよ。また、その謎の微笑は驚くほどモナ・リザの微笑に似ている。無論、それは妊娠の喜びを表すものではない(笑)。
注2)ラファエロに大公の聖母という有名な作品があるが、ラファエロがその作品を描くにあたって手本にしたのが、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。この作品は当初、背景にダ・ヴィンチ流の風景が描かれていたが、ラファエロはその後、背景を黒く塗りこめ、聖母を引き立たせた。ウフィツィ美術館にそのX線写真がある。
注3)BBC製作の「The secret life of the Mona Lisa」では、背景には太古からの地質学的サイクルが表現されており、また彼の故郷アルノヴァレー近くにある"地獄の谷”の風景に似ているという。


『「反」ダ・ヴィンチ・コード―嘘にまみれたベストセラー』という論証本が出たようだ。読んでいないが

                     (2005/3/27)

                  「歴史認識」という大火---竹島問題

めらめらと燃えるというが、島根県の「“竹島の日”の制定」というたいした火種にもならない小さな議決に、韓国マスコミや市民が火がついたような反応を示した。

【日本の新右翼陣営とこれに同調する戦後時代の政治家たちは「韓国にどんな対応手段があるのか」という傲慢な姿勢で韓国の領土を軽く扱い、歴史を歪曲した。
日本が韓国の国民の怒りと反発を十分に予想した上で危険な挑発を止めないのは、日本がこれまで国際社会に経済力に見合った国際政治的な役割を要求してきたことが、「自らの道徳的な分際を知らない振る舞い」であることを自らの行動で見せつけたようなものだと言える。
日本が国際社会で「自分たちが望む扱い」を受けるためには、1番先に隣国韓国の信頼と支持を得なければならないという点が日本の挑発勢力には見えていないのだ。
韓国政府は日本の独島領有権損傷の試みと歴史歪曲の問題点を国際社会にはっきり知らせ、日本の挑発勢力に「道徳性と正当性を気にも留めず、経済力だけで権勢を振るう」という意図を実現させるのは難しいという教訓を十分に感じさせなければならない。】朝鮮日報

はっきり言えば、韓国マスコミの論調は観念的で“民族主義”や“ナショナリズム”を煽る傾向が著しい。日本の曖昧な論調とは正反対の意味で、極端に観念的で、宗教的でさえある。こんな問題で火がつくなら、竹島にレーダーサイトを設置された時点で、日本の世論は大火にように燃えなければならなかったことになる。仮に相互規定でいえば、である。

こうした共同幻想の肥大化は、それがどこの国であったとしても、否定的な意味しかないが、アジアでは、いささかうんざりするとしても、まだ今世紀中は続くだろう。最近、ASEANを契機にし突如として「東アジア共同体構想」なるものが浮上し、これぞとばかり入れ込む人もいるが、そんな段階にはなく、いまだにこのような段階だということである。

日本では騒ぎにはならないが、韓国側は“日本の侵略の始まり”として独島(竹島)問題が位置づけられ、さらには「民族の自尊心」などといって話合いも調停も一貫して拒否している。もめた末ようやく締結にこぎつけた日韓基本条約では、「日韓両国の全ての紛争は、まず外交ルートを通じて解決されるべきこと、さらに、これで解決できない場合は、両国政府が合意する手続きによって調停し、解決を図ること」と謳っていた。が、いまやこの合意も有名無実になっている。この問題を提起した途端「妄言」「侵略」「歪曲」・・といった非難の言葉が並ぶか、解決済みという回答になるだけで、共同利用や共同管理といったプラグマティックな解決法さえ拒否される--それが現状となってしまった。

それには過去からの誤解や誤認の積み重ねがあったのだが、いまさら歴史的経過を冷静に再検討しようという姿勢はとれないようである--よく言われる「歴史認識」とは、この問題に関しては、そういうことでしかない。この問題の歴史的経過や考察は、下條正男『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)などの本に書かれているので、ここでは書かない。ただ、“日本の侵略の始まりだった”といった枠組みに放り込んで終わりといった問題ではないことを言っておくにとどめる。

観念の歴史は江戸元禄時代(韓国では「三国史記新羅本紀」智証麻立干13年)に始まるが、実際の紛争の開始は新しい。戦後の李承晩政権は対馬を自国領と考え、サンフランシスコ講和条約締結に至る過程で、米国に対して対馬を韓国領として主張し、それを認めさせる交渉をしたが米国の拒否にあった。それと共に、サンフランシスコ講和条約(最終案)には日本が放棄する朝鮮の領域に竹島(独島)が含まれていなかったことに強い不満をもった李承晩政権が、条約発効前に予防線として“李承晩ライン”を引き、実力行使に入った---それが、紛争の始まりである。
当時は、一方ではソ連が北海道の領有を米国に要求して拒否された、というような領土分割的空気の残る状況だった。それに呼応して「片面講和反対」の声が起こったり、“全面講和派”が平和勢力で、“片面講和派”は戦争勢力だといったおかしな雰囲気もあった。また、アメリカは沖縄を“分割”し、軍事基地化した。そうした“どさくさの敗戦時代”に起こったことである。

世界にはこれに何十倍か何百倍かの歴史的な領土問題がたくさん残っているが、こんな程度の問題でも冷静に検討する最低限の条件も欠けているのだから、問題は片付かない。紛争一般について、現在は武力で解決する時代は去っているが、しかし、いかなる紛争も国際法や交渉で解決できるというほど成熟した時代にもなっておらず、その中間の中途半端な空気に晒され、この問題も残っている。

ニュース:竹島領有権で新事実 
ニュース:伊能図に竹島?



                     (2005/3/18)

                      ベーテ死去

ベーテが死去した。なんと98歳。
ベーテは速攻計算の神様みたいな人で、生涯コンピュータのお世話にならなかったらしく、コンピュータプログラムはなにも覚えなかった。その代わり計算尺は70年間持ち歩いていたという。1947年のシェルターアイランド会議で水素原子のラム・シフトが報告されたとき、ベーテはクラマースの考えに基づき、GEへの帰りの列車の中で、その非相対論的計算をやってしまったというのは、有名な話だ。「ご冗談でしょう、ファインマンさん」にも、ベーテの暗算はマーチャント式計算機よりも早かったという話が出てくる。
もっとも有名なのは、星の内部エネルギー(核反応エネルギー)に関する研究で、ベーテはそれで1976年ノーベル物理学賞を受賞した。場の量子論では、ベーテ・サルピータの方程式を残している。また、統計力学では、ベーテの有効場理論を残した。
ベーテもナチスからの亡命組であった。ベーテの父はプロテスタントだったが、母がユダヤ人だったので、チュービンゲン大学を解雇されたのだった。そのためイギリスに移り、ブリストル大学で教授になったが、その後アメリカに渡ってコーネル大学に落ち着いた。ベーテはファインマンをコーネル大学に呼んだ張本人だったが、ファインマンが去った後もコーネルに残った。
コーネル大学報によると、引退後も再び天体物理に時間を割き、83歳にして格子ゲージ理論を身をいれ、グルーオンプラズマなどを研究する旺盛さだったという。ロッキー山脈やアルプスに出かけるのが好きで、また世界の切手収集も趣味だったが、「それはすべての国が平和に並んだ世界だったからだ」と語っていたという。

Cornell University:Hans Bethe, a titan of physics and conscience of science, dies at age 98

CNN:Physics giant Hans Bethe dies at 98





                     (2005/3/8)

                      失敗とトラウマ

H2A7号機のライブ中継を見ていたのだが、衛星分離まで成功し、これからはMTSATの静止軌道投入作業に移るが、たぶんもう大丈夫だろう、前回の連続失敗からみて、とりあえず失墜した名誉回復といったところかもしれない。
この分野に限らないが、成功が続くと「いけ、いけドンドン」となり、逆に失敗が連続すると、「もうやめてしまえ」とか「縮小すべし」といったもっともらしい否定的な声が出てくるのが世の常らしく、今回は背水の陣で臨んだようだ。

なぜか世論は、二度あることは三度ある、と思っているようで、そこに一種の宗教的なトラウマ性が潜在している。失敗して“H2Aトラウマ”などというものが生まれた日には野生の部族集団の心性になってしまうが、大きなプロジェクトほどなりやすく、結果によっては、最後には、とんでもない議論になることさえある。冗談ではなく、そうならなくてよかったわけである。

最近、失敗学というのが提唱されているように、技術分野では失敗が否定的意味にならないことは、技術にたずさわった人なら誰でも知っているだろう。むしろ失敗の原因を一つ一つ潰していくことが正攻法なのであって、成功ばかりという物語は眉唾ものであり、技術には完璧というものはない。

ところが、ビジネス書などは「成功の法則」だとか神がかり的なものがたくさん出ていて、成功するものはいつも成功し、失敗するものはいつも惨めに失敗する、というようなことが信じられ、成功する側の方法に乗り移れば、成功し続けるのだというようなことが書かれている。それを、あなたが知らないだけだ、というのである(笑)。
ビジネスの世界では重大な失敗をすれば、会社が潰れたり、メンバーの入れ替えが起こったり、あるいは左遷されたり、降格したり、干されたりするのが普通のケースだから、そういった神がかり的な考えがはびこる背景となるのかもしれないし、あるいは誰もが成功し続けたいという叶わぬ夢を見続ける性向があるためかもしれないが、これも一種の超能力的成功学というか、成功トラウマ学である(笑)。資本主義も極端にリスキーになってくると、一般に言われる合理性ばかりではなく、超能力性や偶発のトラウマ性と同居するのは不思議ではないのである。

技術分野では失敗は貴重な体験だが、しかし、そうはいっても失敗は他の分野では必ずしもそうはならないようで、貴重すぎた(?)体験というものもある。
歴史や政治の世界ではいわば“過去に学びすぎて”精神的なトラウマになったために大失敗、つまりセンサーがオーバーシュートしたために大失敗したというものもあるようだ。

たとえば、幕末の“黒船トラウマ”や“日露戦争の成功物語”などは、海軍重視の大艦巨砲主義を生み、“無用の長物”戦艦大和や戦艦武蔵に巨費をつぎ込むことになった。もっと大きなことでいえば、江戸時代の“平和な鎖国政策”の大失敗がトラウマとなり、世界は帝国主義時代であることを痛切に知らされた結果、追いつき追い越せとばかり、日本は“アジア侵略”や戦争ばかりするようになったのだ、という。あるいはシンボル化され「皇軍不敗神話」が生まれた。岸田秀などが、そんなような意味の本をたくさん書いている。

また、最近では米国に巨額の戦費を巻き上げられた“湾岸戦争トラウマ”というのがあり、このトラウマが軍事偏重観念をもたらし、イラクへの自衛隊派遣になったのだともいう。逆にブッシュは日本統治の成功体験からイラク民主化の成功を信じたのだともいう。
もし、そうであったとすれば、これらは“学びすぎた”というよりも、過去と現在、および空間性が未分化のまま固定化されてしまったわけで、ある状況下での失敗体験・成功体験にすぎないものが、状況抜きで“学ばれ”たことになる。それが宗教的なトラウマということだ。

時間性・空間性を全部含んだ上での失敗学ができてはじめて、犬の“学習”とは違った人間の“学習”という意味になる。人間は成功だけでは学べないし、また逆に下手な学び方をすると、トラウマとなって崩壊することがある。

が、技術の分野では前人未到の技術でない限り、いつも限定された範囲内で現在と格闘しているので、そういう錯誤は、まずない。ざっくり言えば、短期間に十分失敗すればいいのであって、それを否定したり、成功ばかり要求する風潮の方がどこか宗教的である。なにかのシンボルとなればなるほど、そういう宗教性によって迎えられるのだが、いつも格闘している技術者にとっては、できるだけ早く失敗が出尽くした方が向上や解決がやってくるから、それを許す寛容な雰囲気こそが豊かさなのである。

参考:失敗知識データベース
気象庁:ひまわり6号の初画像



                      (2005/2/27)

                    ライブドアのMSCB

“アメリカ型社会”と“ITベンチャー”を標榜する“ホリエモン”のやりそうなことである。

ライブドアが東証ToSTNeT-1で一気にニッポン放送株式の35%を買い付けた問題で連日議論がかまびすしいが*、私は成功(失敗)物語にも戦略論にもあまり関心がない。フジの支配権を握ろうが握れまいが、さして関心もないが、ただ、引っかかるのは、この買い付けに対し、ライブドアが総額800億円のMSCB(転換価額修正型転換社債)を発行し、それを引き受けたのがリーマン・ブラザーズだったという点である。新しいといえば新しいその点について少し書いておこう。

普通のCBでは発行時に転換価額が決定され、転換価額は固定されているのに対して、今回のMSCBというのは、発行時に決定される価格よりも株価が下がった場合、それにあわせて転換価額も下方修正されるものである。このMSCBとは市場価格より安い金額で転換することができるルールを決めた上で発行されるものなのである。ただし、MSCBには上限転換価額が決められるものも、下限転換価額が決められるものもある。今回は下がることを見越した下限転換価額が決められており、価額修正条項は、

(1)当初転換価額は450円。
(2)毎週週末にその週の平均株価の90%に転換価額を修正する。
(3)下限転換価額は157円。

というものであった。つまり、リーマンブラザーズは平均株価の90%でライブドア株に転換し、それを速攻で市場売却するだけで10%の利益が入ってくる。ライブドア株が下がれば下がるほどリーマンブラザーズの転換できる株式数は増える。市場価格より10%も安い株式が突如市場に大量に現れるようなものだから、叩き売りがくるぞ、と市場は警戒感をもつというのも、もっともだ。このMSCBは引き受け手に有利であり、経営状態が悪化したり、調達力の低い企業が資金調達する最後の手段と言われる所以でもある。

また、今回、ホリエモンは保有する株式の一部をリーマン・ブラザーズに貸借するという合意を行っている点が注目される。リーマン・ブラザーズはこの貸し株を市場で大量売却し、株価を押し下げて、転換価額の引き下げを行うことができる。また、ライブドアへの返済分を差し引いて残った転換株式数が、リーマン・ブラザーズの保有株式となる。ライブドアがすぐ潰れるようなことがないかぎり、リーマン・ブラザーズは、至れりつくせりの(自己にとっての)好条件で引き受けた---というより、そうした単一の“直接金融法”を勧めたのであろう。

さて、今回の件に関係して、ジャーナリストの中にはネットは新聞を殺すのかblogのようにメディア論を深刻に受け止める人もいるようだ。しかし、それはメディア論というより、既存のマスコミが知的能力や真実を掘り下げる能力においても、もはや力をなくしていることにある。既存メディアと融合させようとするホリエモンの中途半端なネット論とは無関係である。
しかし、ネットの力はなんといっても数の力であり、特定の人間が書いてその他大勢が読むといった配信型や通達型は必然的に衰退するだろうし、特別なメディアではない“大衆メディア社会”がくることも間違いないことだろう。
      

*ライブドア叩きには不可解なものがある。もともと東証の時間外取引ToSTNeTは、市場の乱高下を防ぐ安全弁として導入されたものだが、モラルがどうとか、いまや妙な叩き材料になり、負の評価を受けている。一貫していないのは、旧大蔵・金融庁の方である。それからもう一つの叩きの材料に、「電波は公共のものだ」とか「テレビは公共のものだ」というものがあるが、これは意味不明である。せいぜい秩序を乱してはいけない、というような道徳的な意味にしかならない。
                     (2005/2/16)

フジ側は発行株数の1.4倍もの新株予約権を発行してライブドアを撃退するという失策で、逆に追い詰められてしまった。株式を一挙に2.4倍にするというのは常識はずれで、5割増しくらいで留めておかなければならなかったのだが、法廷で勝つと思っていたのだろうか。案の定、差し止められた。今後も差し止めの結論は変わらないだろう。「敗退」後のフジ側の態度の一変は、敗戦処理の印象を与えるが、週明けにも「提携の協議」でなんらかの妥協点を探るらしい。

                     (2005/3/12)

ライブドアがニッポン放送株の過半数を制した途端、今度はフジ本体買収のニュースが飛び込んできた。レバレッジド・バイアウト(LBO)を使って、フジテレビ買収に3000億円の資金調達を検討している、という。複数の外資系金融機関などからなる融資団から、借り入れや債券・CP発行の形で資金を得る、という。ニッポン放送がフジ株の22.5%を保有しているから、ライブドアはあと30%程度取得すれば、過半数を制するという計算。フジの発行済み株式は254万8608株、時価総額は約7000億円だから、そのくらいになる。しかし、この報道をしたのは朝日新聞だけで、ホリエモンは否定している。
                     (2005/3/18)


M&A用語 意味
キラー・ビー(Killer Bees) 敵対的買収合戦において被買収企業側のアドバイザーとして戦略を練るインベストメント・バンカーのこと。
ゴールデンパラシュート(Golden Parachute) 被買収企業の経営陣や役員が買収に際して自分が解任されるあるいは退任する場合に、巨額の退職金もしくは一定期間の報酬がもらえるような雇用契約をあらかじめ会社と結ぶこと。米国ではM&Aが盛んなため、ゴールデン・パラシュートで企業から脱出する経営者も急増した。
ショーストッパー(Show Stopper) 買収防衛策の一つ。敵対的買収を仕掛けられたときに、標的企業側で買収を阻止してしまうような法的な障害を見つけたり、作り出すこと。例えば、自社に対する買収が実行されれば独占禁止法に触れてしまうように、競合するような会社を買収してしまうことなど。
ジューイッシュ・デンティスト(Jewish Dentist): PR戦術が中心となる買収防衛戦術の一つ。買収者の社会的弱点をマスコミを使って宣伝することによって、イメージ・ダウンを図ったり、買収そのものの意義を減ずるようにし向けること。
サタデー・ナイト・スペシャル(Saturday Night Special) 標的企業の全株式に対して行われる一週間のTOB。事前通告なしに株式市場の閉鎖した土曜日から始めることにより、標的企業の不意をつき、対策を講じる余裕を与えない作戦のこと。
スタッガードボード(Staggered Boards) 全取締役が一度に選出されることがないように、役員の改選任期をずらして一部分だけを選任して交代させる方法。買収の防衛策の一つ。
スコーチド・アース・ディフェンス(Scorched-earth Defense) 焦土戦術。敵対的な買収にあった場合、買収側が経営支配権を完全に取得する前に事業資産のほとんどを売却してしまい、後に残るは焦土と化したような魅力のない会社としてしまうことをいう。
ティンパラシュート(Tin Parachute) 従業員の退職時、巨額の退職金。ゴールデン・パラシュートに似たものであるが、被買収企業のより地位の低い従業員により少ない手当を支払うこと。ゴールデン・パラシュートのお裾分け。
デッドマンズ・トリガー(Dead Man’s Trigger) 買収をかけられた会社が、反対に相手の会社に対して買収をかけることで、パックマンと同じ。死に体となっているのになお相手に対して引き金が引かれている、という意味。
デュー・ディリジェンス(Due Diligence) 買収前に実施する買収対象企業に対する詳細調査。買収側の企業が、買収対象企業から提供される情報や交渉担当者の口頭による保証だけに頼ることなく、自ら及び公認会計士や弁護士などの専門家の手を借りてさまざまな角度から調査する作業。
バックエンド・ピル(Back-end Pill) ポイズン・ピルの一種で、これも買収が実行された場合、買収コストが非常に高くつくようにする防衛策。未発行の普通株式や優先株がないため、通常のポイズン・ピル策が取れない場合、標的企業側が株主に対して持株を債権もしくは現金と交換する権利を付与する。
バックマン・ディフェンス(Pack-man Defense) 買収提案の相手を逆に買収。買収を仕掛けられた企業が逆にその企業に買収を仕掛けること。
パールハーバー・ファイル(Pearl Harbor Files) 敵対的買収から身を守ろうという経営陣が、事前に奇襲攻撃への臨戦態勢を整え、行動計画を検討しておく際の行動マニュアルのこと。
ベア・ハッグ(Bear Hug) 羽交い締め。買収交渉テクニックの一つ。標的企業の取締役会に対して、指定した条件で株式を取得したいと申込み、回答を迫ること。
ホワイトナイト(White Knight) 買収をかけられた会社の経営陣が、敵対的で自分たちを追い出すおそれのある買収者よりも、友好的な別の会社に自分たちに有利な条件で買収してもらいたいと望むとき、そのような友好的な会社をホワイト・ナイトという。
ポイズンピル(Poison Pill) 買収防衛策の一つで、買収コストが高くつくことを買収者に承知させて買収を断念させようとする手段。種々のピルがあるが、買収が開始された後、プレミアム付の価格で償還を義務づけた優先株を発行したり、買収者を除く既存株主に株式を時価の半額で購入する権利を与えることなど。
レバレッジド・バイアウト(Leveraged Buyout:LBO) 買収側が自己資金をわずかしか保有していなくとも、買収対象会社の資産やキャッシュ・フローを担保にした多額の借入金により調達された買収資金をもとに、標的となる会社または会社の一部門を買収する方法を言う。借入金の返済のためには、買収後直ちに被買収会社の資産の処分や、買収側にとって不要な事業部門が売却されることがある。


ニュース:ライブドアとフジ、資本・業務提携で基本合意
ニュース:フジテレビとライブドア、ニッポン放送株譲渡も含め協議
ニュース:リーマン、ライブドア社債110億円分を普通株に転換
ニュース:SBIがフジ筆頭株主に、ホワイトナイトは否定
ニュース:リーマンがライブドア株を大量売却、資金ほぼ回収か
ニュース:フジテレビの筆頭株主にSBI、株式借り受けで3社が合意
ニュース:ライブドア、フジテレビ買収狙い3000億円調達へ
ニュース:堀江氏、ニッポン放送の社長就任を検討
ニュース:ライブドア、フジ株33・4%以上の取得検討
ニュース:ニッポン放送株、ライブドアが過半数超す 議決権ベース
ニュース:ニッポン放送、労組結成へ・ライブドア対抗鮮明に
ニュース:FCG:焦土作戦の検討表明 ライブドアとの攻防は拡大化
ニュース:「ポイズン・ピル」国内初導入 敵対的買収に対抗
ニュース:堀江氏、ニッポン放送全役員に「フジ株売却しないで」
ニュース:フジとライブドア、提携の可能性も 週明けにも協議か
ニュース:ライブドア社長、ニッポン放送の役員就任めざす
ニュース:新株予約権発行差し止めの仮処分 ライブドアの申請認める
ニュース:ニッポン放送、最短で今年7月に上場廃止も
ニュース:フジテレビ、TOBでニッポン放送株36.47%取得
ニュース:ライブドアの経営参画に反対 ニッポン放送社員が声明
ニュース:ニッポン放送株:米投資会社が2月中に全株売却
ニュース:村上ファンド「ニッポン放送の新株予約権、非常に危惧
ニュース:ライブドア社長「新株予約権、発行差し止め申請へ」
ニュース:ニッポン放送、フジテレビに大量の新株割り当て発表
ニュース:ライブドア815万株、リーマンが追加取得
ニュース:リーマン社、ライブドア株売却 借り受け当日、890万株
米国在住の研究者S氏の話─米国から見る“フジテレビ対ライブドア戦争”

                   

               特許係争・松下vsジャストシステムをめぐって


ジャストシステムの「一太郎」と「花子」に製造・販売の禁止と製品の廃棄を命じた東京地裁の判決は、多くの人に何事かと驚きをもって受け止められたのではないだろうか。そんな重大な特許があったのか?と。
報道によると、松下の特許係争点は、画面上で、「ヘルプボタンをクリック後、別の機能を実行するためのボタンを押すとその機能の説明が表示される仕組み」で、東京地裁は松下側の主帳を全面的に認めたのだという。
98年に松下が取得した特許第2803236号というのは、

特許請求の範囲
【請求項1】
アイコンの機能説明を表示させる機能を実行させる第1のアイコン、および所定の情報処理機能を実行させるための第2のアイコンを表示画面に表示させる表示手段と、前記表示手段の表示画面上に表示されたアイコンを指定する指定手段と、前記指定手段による、第1のアイコンの指定に引き続く第2のアイコンの指定に応じて、前記表示手段の表示画面上に前記第2のアイコンの機能説明を表示させる制御手段とを有することを特徴とする情報処理装置。
【請求項2】
前記制御手段は、前記指定手段による第2のアイコンの指定が、第1のアイコンの指定の直後でない場合は、前記第2のアイコンの所定の情報処理機能を実行させることを特徴とする請求項1記載の情報処理装置。
【請求項3】
データを入力する入力装置と、データを表示する表示装置とを備える装置を制御する情報処理方法であって、機能説明を表示させる機能を実行させる第1のアイコン、および所定の情報処理機能を実行させるための第2のアイコンを表示画面に表示させ、第1のアイコンの指定に引き続く第2のアイコンの指定に応じて、表示画面上に前記第2のアイコンの機能説明を表示させることを特徴とする情報処理方法。

である。
MSのソフトの中にもすでに同様の機能があるものがある。注1)それというのも、これらのGUIに関する技術は、すでに80年代に開発された公知の技術だからである。注2)機能としてもGUIのほんの一部にすぎず、アプリの根幹に関わるものでもなく、いわば付加的な一機能である。百歩譲ってたとえ特許だとしても、企業の浮沈に関わるような重要なものではなく、むしろ、詰まらない特許だ、という人が多いだろう。にもかかわらず、98年に特許は成立している。
まず第1に、その特許権成立の問題点がある。

第2の問題点は、判決がアイコンであるかないかというような本質的ではない争点に沿って機械的に下されていることである。

第3は特許権そのものについてである。特許の質にかかわらず、裁判の結果は、企業の浮沈に大きな影響を及ぼす。この係争では、ジャストシステムは控訴するようなので、確定したわけではないが、しかし、こうした特許権係争のありさまは、なにか不合理なものを感じさせもする。
松下はたとえ勝訴したとしてもなにを得るのだろうか?膨大な利益を得るのか?そんなはずはない。わずかなものだろう。つまり特許によって自社製品を拡販し、それで利益を得るというのではない。利益にならなくとも専ら他社防衛と他社攻撃の有効な手段として使えるし、使われているという現状が、不合理なものを感じさせるのだ。
そして、その場合、現状の仕組みは、特許請求範囲という局地的な機能戦にさえ勝利すれば、他社のシステム全体を無効にできる“一点突破全面展開”を許してしまう仕組みだ、ということだ。

この係争では、“天下の松下”とあろうものが実に大人気ないという見方もできるし、いや松下は”特許戦争時代”に合わせているだけだという見方もできる。(松下の本当の狙いは、ソーテック潰しだろうが、ここでは特許係争として見ておく)

悪名高いワンクリック特許に見られるように、そもそもソフトウェア特許そのものが問題点をはらんでおり、問題点の穴ぼこの土俵上で決着がつけられている、と言っていいだろう。最大の理由は、それが汎用的な情報処理装置であり、さまざまな処理ができることが特徴だから、 ある処理が特許で別の処理は特許でないという区別は、本来つけがたいという点にある。

にもかかわらず、一つのソフトウェア特許権をもっていれば、他社のシステム全体を無効にできるほどの効力を発揮できるのだから、“グローバル戦争時代”では、質はともかく、そういう武器をたくさんもっていなけらばならない。知的財産権で守られた商品開発で直接利益を得るという“正統的な王国”もあるだろうが、むしろ、王国なき潜水艦の巡航ミサイルとして活用されるわけである。巡航ミサイルをいくら生産しても利益にはならないが、リスク極大化時代の攻撃と防衛方法だ。巡航ミサイルはもっているだけでは無意味だから、当然、発射ボタンが押される、というわけである。

そういう事態こそ資本主義的なリスク極大化の歪みであって、本来、知的生産物は人類共通の財産と考える人もいるし、逆にソフトウェアといえども知的財産権は厳重に保護されなければならない、と考える人もいるだろう。だが、少なくとも、この程度の特許で常に社運さえかけて法廷で闘っていなけれならない現状は、天国と地獄の落差があまりに大きすぎて武器として肥大化した状態になっている、と考える人は多いに違いない。とくに潰しあうだけで、消費者にデメリットしかもたらさない“特許戦争”は、けっして支持されないであろう。

世界的にこうした“特許戦争”はまだまだつづくだろうが、そろそろ新たな潮流が出てきてもおかしくはない。注3)



注1)ならば、松下はなぜMSを訴えないのか、という話になるが、これは、MSとの間の“負け犬”ライセンス契約によってできない。独占禁止法違反なのだが、MSの供給を受けているパソコンメーカーはいっさいの特許請求権を放棄させられている。松下もMSに対しては手も足もでないのである。

注2)たとえばMacユーザーとして松下電器に抗議するを参照

注3)たとえばLinuxのリーナス・トーバルズは「ソフト特許は欺瞞的かつ危険で民主主義に反する」と述べている。
   GNU General Public License

   オープンソース界の大物らがソフトウェア特許を酷評
   サン、Java Enterprise Systemのオープンソース化を検討
   Sun、Solarisと1670件の特許をオープンソース化


ユーザインターフェイスについての議論は「一太郎」訴訟にみるソフトウェア特許のぶざまな現状参照。
ニュース:高裁、1審判決を破棄、松下側の請求を棄却




                       (2005/2/2)

                   樋川事件控訴審の15秒判決

回答なき司法である。桶川事件控訴審の判決は

「主文。本件控訴および付帯控訴、いずれも棄却する。以上」

の一行で終わりだったという。判決理由の説明もなく、たった15秒で終わったらしい。ほんとに、そんなことがあるのだろうか、と思うが、ここに傍聴記がある。
樋川事件についてはここに載っているが、警察の職務怠慢を問われた事件。警察の捜査など行政の不作為の認定に高いハードルを設けた従来の判例を踏襲したのだというが、唖然とする15秒判決である。

ハードルが高いというより、動かぬ証拠を突きつけないと、司法は警察など行政の非を認めようとしないが、その一方では個人犯罪については状況証拠だけで有罪とされるケースもある。例外はあるが、大体において、司法は“社会的強者”の方に味方するものであり、公権力を素朴に信用すればするほど敗北するという逆説的結果になる。この事件もそうした図式に当てはまる。

「私たちは、どこへ行ったらいいんですか」という両親の問いには回答が与えられない。ありていに言って、「そんなこと知るか」と高裁は冷たく言い放っているのである。「とにかく、警察の職務怠慢はないんだよ」と。


                   (2005/1/27)

                     正体不明の怖れ

犯人は誰か?そんな明確な白黒問題にはならない“ヌエのような全体主義社会”の門前に立っている。

いまNHKと朝日新聞が4年前の「戦争をどう裁くか」という番組の改変をめぐって、自民党の政治圧力があったかなかったで、対立し、法廷にもつれ込みそうな争いを演じている。NHKのなかからは内部告発者もでたが、NHKの上層部は「それは伝聞にすぎず、政治圧力はなかった」ですまそうという姿勢である。

マスコミに期待するところがなくなった者としては、政治圧力などというものはいわば常態であって、いまさらなにをと言いたい気もするが、興味があるのは、あったかなかったかではなく、(マスコミ一般の問題でもある)底に流れている“正体不明の怖れ”についてだ。

まず戦争犯罪については、「女性国際戦犯法廷」による“裁判”に賛成しているわけでも、それほど興味あるわけでもない、ということを言っておこう。戦後生まれが大多数になった現在からいえば、60年前の戦争については、もはや誰かを裁いた結果有罪、というような単純な判決問題に還元することはさして意味がなくなったし、全体として、歴史の真実を明らかにしていく時代に移っている。そうはっきり言った方がいいだろう。

だが、NHKは「戦争をどう裁くか」という“主体”不明の番組を作るなかで、なにを怖れあわてたのか、内容を何度も改変する事態を繰り返した。NHKのなかで徹底的な討論を行った結果改変されるというのではなく、わざわざ御用聞きに伺っては改変をした。このことは当時から報道されていたことだが、そこで正体不明なのは、その怖れの内実がまず分からない、ということだ。
単純に自民党の意向に逆らうのが怖かったのか、政治問題に波及することが怖かったのか、天皇問題に触れるのが怖かったのか、それともなにか別の恐れがあったのか。とにかくその慌てた行動自体に正体不明の“政治性”はあったが、それ以外のなにものもなかった。

直接的な政治介入によって敗北し、屈服した、というのならば、まだ救いがあるだろうが、それは政治介入以前の問題であって、たとえれば、大政翼賛的な行動様式、つまりは時の政治権力と癒着していなければ、不安で仕方がないというようなものである。
その癒着は、広がったある種の集合権力を形作るが、番組制作の現場はこうした集合的権力によって圧力をかけられている。NHK体質といえば、それまでだが、なにを怖れているのだろうか?という疑問がいつも生まれるのだ。「なにもなかった」一点張りの頑強な主帳の裏にも、なにか怖れがある。あたかも天皇の戦争責任問題のようなタブーが底にあるかのごとく・・・。
明確な“犯人”は現れず、“ヌエのような全体主義”だけが翼を広げている状況が、いまそこにある。



ニュース:トップが辞任した日英の公共放送 山科武司
ニュース:NHK特番問題:「政治に弱い」NHKに視聴者の不信感
ニュース:NHK特番問題:政治との距離、NHKはどう保つ?

ニュース:NHK特番問題:制作過程の検証 4日前から大幅修正
ニュース:国会議員への事前説明は通常業務・・・NHK


                    (2005/1/23)

                  不安定社会の危うい均衡

今年も年末である。騒がしいだけの何々ブームなどは捨象し、底のほうに静かに目を凝らすと、なにか気持ちが沈んでいくような1年であった。

停滞と解体。社会の底になにかオリのようなものが沈殿していくような感じである。たとえば、練炭のよる集団自殺、それも見知らぬ他人同士数人がネットなどでたまたま知り合い、黄泉の国に行く列車に乗るように、車の中で練炭自殺する--というような不安定で不可解な現象が起きたりした。自殺同盟というような確固たるものではなく、存在感そのものが奇妙に希薄で、車の外には漠然とした不安感だけが残っている。

漠然としたものだけではない。2004年は、従来の安定した雇用関係が完全に崩れてしまった年でもある。フリーター、引き篭もり、ニートというような話題が突然浮上したりして、その崩壊を告げた。フリーターは217万人、意欲のある失業者164万人、働くことを放棄しているニートは52万人というが、数字の当否はともかくとして、従来の安定した雇用関係の崩壊と若年層個々人の意識の中の崩壊の両面が互いに歩み寄って厚い層が形成されつつある。それだけでも社会問題なのに、その中から、ときおり、引き篭もり殺人事件などという悲惨な内部バイオレンスが現れたりした。さらに、従来の非自発的失業者層からは、刑務所に入り、安定した冷や飯にありつくために、なんの関係もない他人を殺害するというような現象も起きた。それは経済的苦境の範囲を越境して、なにか精神的な崩れを感じさせた。

こうした不気味な底流に対して、政府はまったく痛痒を感じていないのか、" アメリカ型勝ち負け社会”を目指して貧富の差をさらに拡大させる政策をとりつづけている。上のような状況も、自由労働市場の形成などといった証券取引並みの市場主義が、不況と合体し、社会の底に沈殿する層を作ってきた。総体的には、個々人の働くことの放棄はちょうど企業の雇用縮小と見合っている。そして、没落し、閉塞する経済状況つまり現実が、人々の意識(とくに若年層の意識)を変えてしまうという“古典的テーゼ”の世界を、いま見ているのである。

去年の年末、ここで、「自分の力で生きる社会へ(?)」という文章を書いたのを思い出す。事態はそれよりさらに数歩進んだ。つまり希望もなく迷い、自分を見失い、働く前に“脱出者”であることを自己肯定する層や、生きる前に“半生者”または“逃避者”であることを肯定する層を生んでいる。その上には、半パラサイト、半労働者、非正規社員、契約社員・・などが連なり、経済社会的ヒエラルヒーを形成しているかのごとくである。だが、それは必然性ではなく、ただ政策的失敗による経済縮小と働く機会の剥奪の度合いまたは共同社会の解体過程なのである。

そして共同社会の解体と現実の悲惨さは、勝ち組、負け組み、優秀、無能、意欲のありなし・・・といった個々人の自己責任概念によって正当化され、政府や政治責任の避雷針となっている。彼らは意識のありようを非難するだけなのだ。
活気ある安定した社会はまるで遥かな過去だったかのように失われつつあり、さらには精神的な不安定領域の端のほうに波及してきた。そういう危うい均衡を感じさせる2004年であった。


                              (2004年12月30日)

                            殉教者の死

“死のセラピスト”キューブラー・ロスが亡くなったそうだ。78歳だった。物理とも宇宙論とも自然科学ともやや違う話なので、ちょっと場違いになるかもしれないが、なにしろこのサイト、「知の現在」などと銘打っているので、あまり枠にはとらわれず少し触れておくことにしよう。

キューブラー・ロスといえば、『死ぬ瞬間』、『続・死ぬ瞬間』で知られているが、その仕事は非常にいいものだった。特に彼女の資質を表しているのが『人生は廻る輪のように』であり、そこにはいい面も悪い面も語られていた。その“優しさ”あふれる資質は、“死のセラピスト”としては最上のもので、それゆえに「死にゆくもの」を語ることができたのだろうが、あまりに人間の悲惨さから彼らを救出したいという思いが激しくて、ついには“死後の世界”まで考えるようになってしまった。彼女は精神科医を越えて現代における激しい一種の殉教者であったのだろう。

死とは悲惨なものだろうか。私も多くの人の死に立ち会ったが、悲惨なものが多かった。肉体は強健なのに痴呆症で精神的に崩壊していくものや、その逆に、頭脳は明晰なのに肉体が動かなくなったものなど、自然死とよべる幸福な死にはあまり出会わなかった。その多くは細胞レベルのアポトーシス論では片付けようがない、あまりに残酷なものであった。
だからこそキューブラー・ロスは、その悲惨さから患者を救いたいと切望したのだろうが、そこにはなにか祈りのようなものがあって、その祈りはいわばゲッセマネの夜とは反対であった。それは自分の救出を祈ることではなく、自己犠牲的な患者の救出への祈りであった。

けれども、残酷な死に向かって精神的に救われたとして、死は死であって、それがなんなのだろうか。私の関心からいえば、精神的にどうあろうが(いわゆる精神病は別として)、死に向かっての精神の有様(「死の恐怖」等々)よりも、医学的、生理学的に救出ができないのかという方にどうしても関心が向かってしまう。自分の死に関しても、そこで世界が終わる、だが、生きている者にとっては世界は終わらない、不思議なことだとは思うが、あまり断崖絶壁のような感じはもたない。(だから、死んだものをいつまでも覚えているというか、この人は死んだからもう著書を読まないなどということは一切なく、区別していないのである。)だが、ロスは、悲惨さからの救出に向かって断崖絶壁の内面世界にどんどん入っていった。その向かうところは、いわばあらゆるところに“無辺際の慈母的な宇宙”を築くことだったのかもしれないし、かさかさに乾いた現代の悲惨さを逆写しにしているかのようでもあった。

ともあれ、いつか、人間の死の周辺に悲惨さが凝縮しているという構造が終わるときがくれば、そのときはロスの祈りや使命が達せられたことになるに違いないだろう。

                                (2004/9/9)

                       「宇宙人としての生き方」

ちょっと前だが、書店で目に付いたので、松井孝典氏の『宇宙人としての生き方』(岩波新書)というのを読んでみて、フムフムと思った。現在は、国境を越えた「地球市民」という言い方が一部で流行っているが、これには半ば政治的色彩があり、かりに「私は地球市民です」などと言ったら、そのとたん、相手は白けてしまうことは疑いない。「それでは地球市民はオリンピックの誰を応援したんですか?」などと反論されるかもしれない。「いや、地球市民として世界中の選手を応援したんです」などと言ったら、いよいよ頭がおかしい人だと思われてしまうことも疑いない。

では地球市民を飛び越えて「宇宙人」はどうか?今、それを言ったら、お前はSFマニアか?という反応が返ってくるだろうが、松井孝典氏の本は、非SF的というか、まじめに持論を展開したものだ。「地球の上にへばりつき、人間圏の内部に閉じ、人間を絶対的な存在として全てを考える人間中心的な人が陥りがちな考え方へのアンチテーゼとして」書かれたというが、要するに宇宙人というのはもはやSF世界の中の存在ではなく、宇宙の中に生きる人間そのものだ、というのである。

うごめく虫の触覚と宇宙からの視点でもちょっと書いたが、私も、地球の上にへばりついていることが人類の本来のあり方、あるいは宿命だ、などとはまったく考えていない。たまたまそのようにして生まれたからといって、地球の上にへばりついて終焉をむかえる必要もないし、おそらくむかえないだろう。そんな舐めた存在ではなく、いい意味でも悪い意味でも、もっと怖い存在である。卑近な例で言うと、日本の宇宙開発委員会などは、この程度とか可能性のラインを引いて、まったく舐めきっているのだ(予算の制約が先立つのかもしれないが)。そう考えると、この本の大きな趣旨にはまったく異論はなく、人類は宇宙に生きるしかなかったし、これからもない。ただ、身辺、地域、職業、身分、民族、国家などにとらわれすぎてきたし、広大な宇宙に住んでいることなど知らなかったから、そういう自然認識が最後にやってきただけだ。

そうは言っても、人類が一挙に宇宙人にならないのは、われわれが経済社会的な制約の下にあるからであって、これが相当きつく人間を縛っている。先日、書店に平積みしてあったライブドア・堀江貴文の『稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方』というのを立ち読みしたら、アメリカ型社会で勝ち抜くことが人生の目的だ、みたいなことが書いてあったが、それもこの制約がいかにきついかを示している。こうした経済的な制約から解放されない限り、一足飛びに「宇宙人として云々」などと発言したらSFマニアのタワゴトと勘違いされてしまう。それには、いわば人類の前史が終わることが必要なのである。

ただ、各論になると、松井孝典氏の考えには異論があって、私とは相当違う。「要素還元主義が破綻した」というような考えは非常に通俗的であって、肯定できないが、それは惑星科学とかアストロバイオロジーといった“総合学問”のせいかもしれないが、きわめて実利的なイメージであった(笑)。いや、実利的であっても、なんであっても人類は宇宙人としては滅びるわけにはいかないのかもしれないし、そういうこともぼちぼち考えなければいけない時代に突入したと言うべきかもしれない。

                              (2004/9/2)

                          時代がかった世界観?

他愛も無い話である。先日、何かの拍子で月の話になり、月は地球から年々遠ざかっている、それがどうして分かったかというと、月にレーザーを飛ばし、直接距離を測ったんです、という話をした。アポロ11号が月にレーザー反射鏡(LRRR(Laser Ranging Retro-Reflector))を置いてきたので、それにレーザー光を反射させて距離を測ったんですよ、と。
すると、相手は素人の女性だったので、「えっ!月に反射鏡を置いてきたんですか!」と驚いている。「へぇ〜、いつ、そんなことをしたんですか?」
「いや、だからアポロ11号のときですよ」
アポロ11号というのは単に人間が着陸した歴史的瞬間だったとしか認識していないのであった。そのとき6台のLRRRを置いてきたので、それを使って測定したところ、年に3.8cmの割合で、月が遠ざかっていることが分かった。それは、地球の自転の減速による角運動量が月に持っていかれているいるのだ、と。この測定は日本の国立天文台堂平観測所でもおこなっていた。いまでもどこかで行っているはずですよ、と。
そういう話をしたら、「どうして、そういうことを子供たちに教えないんでしょうねぇ」と、また驚いていた。「そういう話をすれば、子供たちの興味は湧くのに」                                                                      在りし日の堂平の月レーザー測距システム
「さあね」
昔、私が堂平にその月レーザー測距システムを見学しにいったとき、わざわざルビーレーザーを飛ばしてくれた。パルスが飛ぶ瞬間、バシーン!というようなすごい音がして、ギョッとしたものだった。注1)
「子供の興味が・・・」
また、言った。その女性はよほど子供の教育に関心があるらしく、「子供の興味が・・」ばかり言っている。サイエンスとはなにか?それは、水金地火木土・・・なんて覚えることじゃないですよなどと、お説教をしたら、また「そうですよねぇ」と感心する。                                                              

最近、山本義隆の『磁気と重力の発見』(みすず)というのを一部だけ読んだが、確かにそれは歴史の再現にはなっているだろうと思ったが、あまり感心しなかった。サイエンスが古代には哲学や宗教思想の一部であって、近代まで魔術と切り離せなかった。それは人間のあらゆる面に渡る思想の一部であって、思想史として全体を掴むべきだ、といった主帳があるのか、スコラ哲学にまで分け入って、延々と説いていくそのボリューム感とエネルギーはすさまじいが、これがサイエンスかと問われると、ぜんぜんそんな気はしないのであった。

そしていったい、これは何だろうと思った。歴史学か?世界観史か?思想史か?科学史か?大人すら興味が湧かないのに子供に興味が湧くはずはないだろうと思わざるをえないのだが、そういうのを高級だというのなら、そういう時代がかった高級さとは疎遠でいたほうがいい、とまたしても思うのであった。注2) 宇宙論だって、古代は宗教思想であり、ギリシャ神話や紀記にあるような天地創造神話でしかなかった。しかし、それから延々と説き起こして現代の宇宙論にたどり着くことが重要だとはけっして思わないし、確かにそれは歴史的人間の営みだったかもしれないけれども、そんな道にわけいって丁寧に世界観の変遷を構成することはサイエンスとは別のものだ。
「大人の興味が・・」さっきの女性ではないが、そう言いたくなる。古い教養主義や世界観は必要がないし、シュレディンガー方程式を理解するのにシュレディンガーの『わが世界観』を理解しなくてはならないとは誰も思わないであろう。そんな世界観に左右されないのがサイエンスなのである。

注1)堂平観測所は2000年末で閉鎖されていたが、リニューアルして、また活動を開始するようだ。
注2)著者には「解析力学」といった高級な本もあり、けっして、そういうものをけなしているわけではないですよ。念のため(笑)
                                  (2004/7/22)

                        イッてる政治状況

はじめに、愚劣な世論の煽り記事を掲げておこう。

撃ちてし止まむ
受けて見よこの手榴弾


米英撃砕の突撃路はいま開かれようとしている。彼らが呼号する鉄と火薬の防御陣がいかに固く長くとも、われらは征く。鉄火の嵐を衝いて、皇軍勇士は断じてゆくのだ!!幾たりかの戦友が倒れて行った。〃大元帥陛下万歳〃を奉唱して笑いながら死んでいった……。今こそ受けよ、この恨み、この肉弾!この一塊、この一塊の手榴弾に、戦友のそして一億の恨みがこもっているのだ。敵の生胆を、このロで、この爪で挟ってやるのだ!広×数万キロの戦線に、総進撃の喚声が、怒濤のようにどよもし、どよもす。戦友の屍を踏み越えて、皇軍勇士は突撃する。
                                                    (朝日新聞1943年2月28日朝刊)


こんなイッている時代は過去のものだろうと思っていたら、いやいや、そうでもないぞ、進歩していないな、相当イカレてきているぞ、と思わせられる昨今の政治状況である。

日本の“ネオ・コンサーバティブ”が「戦争ができるフツーの国になりたい」とか「平和ボケ日本」などと言い出したのは10年ほど前だろうが、それから「公が、公が、公が・・」というような公儀万歳の発言が続き、森の「神の国」や小泉の「予期できぬ靖国参拝」を経て、かなりイカレた時代になってきた。10年前、自民党は「専守防衛」と「戸締り論」だったが、今や「多国籍軍に積極的に参加」と「集団的自衛権容認」だそうで、その小泉自民党によると「憲法改正、第9条改正」、「自衛隊法改正」、「教育基本法改正」で「戦争ができるフツーの国」になりたいらしい。

30年代とそんなに変わらないねぇという感触すらする。彼らの胸中には、総進撃の喚声が、怒濤のように、どよもしているのだろうか?! 今こそ受けよ、この恨み、この肉弾!日本のネオコンたちは誰に肉弾をぶつける積もりで、「戦争ができる国」を望んでいるのかさっぱり分からないが、ひょっとして破れかぶれで、彼らが言う「反日分子」に対して「恨みと肉弾」をぶつける積もりなのだろうか?!そんなことすら言いたくなる状況だ。

この“軍事的進軍”にはなんの論理もなく、ただ情緒的な雰囲気、漠然とした空気がすべてであることが特徴である。それはいわば時の勢いみたいなものであり、後で考えると、実に馬鹿げたことだったとなるのだが、そのときはすでに時遅かったということになる。

自民党の頭の中は1930年代と大して違わなさそうだが、世界情勢としては30・40年代と今日は大いに違い、領土拡張・併合の帝国主義戦争と革命の時代は去った。冷戦期の過渡的形態を経て、その後起きているのは地理的遠隔を問わない一種のイデオロギー戦争のようなもので、戦争の形態としては最後の形態だともいえる。現今のブッシュ“帝国”などは、報復以外にプロテスタント十字軍的な使命感すらあったようだが、しかし、地球上のすべての国が同じ価値観と政治形態を持つ、というような平らな世界は当分やってこないし、また、無理やりやってくる必要もない。そんなものに一々戦争を起こしていたら、戦争だらけになってしまうが、イラク戦争では一国だけでもやるというブッシュ“帝国”が“先制攻撃”し、軍事力では圧倒したが、政治や統治に失敗し、混乱をもたらした。そしてネオ・コンサーバティブの“民主主義のドミノ理論”は潰え、“国際社会”からも孤立した。
軍事力が足らなかったから失敗したと、ネオコンですら言えなかった。彼らは超大国による支配を夢見ていたのかもしれないが、そんな時代ではない。今後“国際社会”はそうした“軍事独善”を食い止める方向に働くだろうし、また、超ブッシュ主義が“国際社会”の主流となることもありえないのである。

ところが、日本の保守政治家だけは不思議なことに「戦争ができるフツーの国」を目指しているようである。「国際社会への貢献」を錦の御旗にしているが、ブッシュ・アメリカの後押しをもらっているためか、「国際社会に名誉ある地位を占める国」から転落し、「フツーの国」になることを嬉しがっているような不思議な風景である。
そうでなくても、「君が代、日の丸、愛国心教育、教育基本法改正」だとかこの何年かの動きを見ると、少なくとも彼らは、国家や公や愛国心を重んじる北朝鮮みたいな全体主義を目指しているようだ。国家や公や愛国心が重視される時代は、上から押さえつけることばかり考えている不幸な時代であることはいうまでもないが、ここ10数年の不況期を経て、森・小泉政権ではかなり政治的におかしくなっている。“不況と混迷の時代の法則”通りに、軍事期待と精神主義の時代に舞い戻っているのだ。この国では“軍事への期待”と“精神主義の興隆”はペアなのである。

いやはや、時代錯誤というか、かなりイッている政治状況になってきたものだと思わざるをえない。
だが、苦しい状況では国民はカリスマ性のある政治家を望むとはいっても、このままおかしくなりつづけるとも思えない。どこかで反発力が働くだろうが、さて、どこで反発力が働くのだろうか?戦前の“無責任の体系”時代と同じく、日本のオールド・コンサーバティブとネオ・コンサーバティブは新しいことを言っても、根は古く、「既成事実の積み上げこそ政治の要諦」だと思っているような古いタイプなのである。


参考:自民党の憲法改正案(全文)が明らかにを読むと、
         ・天皇の祭祀等の行為を公的行為と位置づける明文の規定を置くべきである。
         ・戦力の保持を明記すること
         ・個別的・集団的自衛権の行使に関する規定を盛り込むべきである。
         ・文民条項(現憲法66条2項)は、削除すべきである。
というような、かなりイカレたことが書かれている。なかでも、最後の文民条項(憲法66条2項)は、「内閣総理大臣その他の国務大臣は,文民でなければならない」というもので、戦後の文民統治の基本であるが、その削除は再び「軍人内閣」に道を開くことを意味している。もちろん、軍隊や軍人が存在するという前提で、その改正案が書かれている。
また、全般として、「改正憲法」は
         ・日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない
         ・法的な側面ばかりではなく、国民の行為規範として機能するものでなければならない
などという“基本思想”が書かれている。法と道徳を混ぜてミックスし、憲法を国民の道徳律・規範としても機能させようというのであるから、その時代錯誤なイカレ方は救い難いほどである。(そもそも「親に孝、国に忠」といった儒教道徳的規範が“日本の伝統”だと思い込んでいるのが無知すぎるのだが・・)


                                (2004/7/4)

                        抜き打ち年金改悪

国会終盤に「年金法改正法案」の強行採決した自公与党の抜き打ち的、騙まし討ち的な行動には尋常ではない必死さがあったが、採決後には与党にそれまでにはない安堵が広がった。これで自分たちの利権を守り議員年金には手をつけず、国民年金・厚生年金では国民を騙し終えたという安堵であった。その改悪(「構造改革」というらしい)の内容を質問されると、しどろもどろで「私にそんなことを訊くのか」と居直った小泉は、強行採決後さっさと退席してしまった。

今回の「改正」は過去の「年金改正」の歴史のなかでも「国家的詐欺」といわれるぐらい、その悪法の誉れが高いという。第1に、これまでは、保険料を値上げするときは、まがりなりにも国会での審議が必要だったが、これからは国会審議なしで自動的にすすめられる仕組みを作ってしまったことである。毎年、一言も言わなくてもオートマティックに保険料が上がっていく。その第2は、これまたオートマティックに年金支給額を減額していく秘密兵器--「マクロ経済スライド」を作り上げた。そして「物価スライド」は廃止である。

この二つの自動的柱からなるのが今回の改悪で、巨額の年金積立金が毎年減っていくことに恐怖を覚えた厚生労働官僚が考えたものだ(それだから賦課方式だと言い張るのだが)。聞くところによると与党の政治家どもは、碌にその内容も知らないという不勉強ぶりだという。彼らにとっての利害・議員年金ではないから、詳細を知っている官僚が太鼓判を押し、「百年はもつ」とか大見得を切っていればいいのであって、自らは詳しく知る必要性も感じないということらしい。

また、消費税を上げて財源に、とか主帳した野党民主党もどうかしている。今、内容を議論する時間はないが、とにかく、国民に負担を集中させればさせるほど、やった!と安堵と内心の満足感を感じる政治家どもの跋扈にはあきれ返るばかりで、こと内政に関しては、こんな「改革」ばかりならば政治家不要論を唱えてもいいくらいなものだろう。(付け加えておくと、財源が、財源が・・という財源論者とは私は付き合わないことにしている。)

一方、マスコミはどうかというと、「年金改悪という言い方はやめてくれ〜」とテレビのディレクターたちは、今、叫んでいるのだという。自民党からの抗議がきた場合恐怖に陥るらしく、亀のように首を縮めてビクビクしているのだそうだ。

注)「年金の掛け金を直接持ってきて運営すれば、年金を払うのは先のことだから、今のうち、どんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行困るのではないかという声もあったけれども、そんなことは問題ではない。将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ」(1987年、内々での年金官僚・花澤武夫の発言)
そういうわけで賦課式にされてしまった


ニュース:衆参47人に地方議会年金、引退後は国会議員年金も
ニュース:年金保険料 施設流用二百二十二億円
ニュース:年金改革法、条文ミス 上乗せ年金支給の根拠「消える」

                                (2004/6/18)

                      「フツーの子が起こした」殺害事件

うぜーんだよ、あのクラスは。云々。
「わ〜!」佐世保の小6同級生殺害少女が書き込んでいたとかいう言葉をテレビで聞いて、女房はびっくりしていた。「おお、こわ」
恐いとは言っても、使われていた言葉自体は今のガキならよく使っている言葉で、仰天するほどではないのである。しかし、佐世保の同級生殺害事件そのものはどうだろうか?
マスコミ報道によると、@フツーの女の子が起こした事件で、Aインターネットの掲示板の書き込みやチャットつまりはサイバー空間が対立の原因になったのだという。今回はいままで決まり文句だった「凶悪」という言葉は使われなかった。それがフツーの子だったから、かえって衝撃的な事件なのだ---と。
これ以下はない底の浅いマスコミや識者のコメントである。

まったく冗談ではない。何度も被害少女の首を深く切った後に、揺り動かして動かないことを確認してから部屋を出る、などという行為が「フツーの小6の女の子」にできるというのだろうか?血まみれになって帰ってくるというような行為が、フツーの子にもできるというのだろうか?加害少女は以前にもカッターナイフで別の同級生を脅かしていた。明らかに異常性を秘めた事件であって、外からは一見「フツーの女の子」に見えるだけのことである。「小6の女の子にだって、深刻な人間関係の葛藤があるのだ」と言ったとしても、である。

2番目のサイバースペース云々も底の浅い報道で、そんなものは実際に面と向かった時の対立に比べたら比較にならない。多くの小学生が仲間内だけのサイバー空間を作っていたとしても、だ。
そんなことよりもむしろ、小6のガキがけっして「千と千尋の・・」などにではなく、「バトル・ロワイアル」に心酔していたという精神の有様の方を重視すべきだろう。それはクラスという“囚人のジレンマ殺人ゲーム”のように読まれることも可能だろうし、なんとでも想定可能な“空想空間”だから・・・。その空間では親や家族は“疎外”されている。または親や家族から“疎外”されている。(また現実そのものからも“疎外”されている。)

こうした事件については、調べもせずいい加減なことを書きたくないのだが、あまりにも底の浅いマスコミ報道にあきれてしまった。マスコミだけの問題ではないが、こうした少年少女殺人事件は、法的制限からも、いつも深層が明らかにされることなく、いつの間にか表層で“行き過ぎて”しまうことに、なにか偽善的なものを感じる。それは、事件家族も含めて閉じた法的関係者以外の他人はなにも考えなくていいと言われているのとほぼ同義だ。

                             (2004/6/5)

[追記](書いた責任上)「借り物の言葉」ということについてひとこと
マスコミも軌道修正しつつある。毎日新聞3/8に「女児HP分析」と称して、「HPには他人に認めてもらいたいという強い願望を感じる」という趣旨の「専門家の分析」が載っていた。そんなことに別に異論はないが、気になったことがあるので、一言追記しておく。それは、女児の言葉を、生の言葉(詩に現れているという)と借り物の言葉(創作などに現れているという)を分けて、生の言葉の方に女児の内面の真実があると看做していることである。つまりは、よくある典型的な「分析」である。
この際、明確にするために、非常に乱暴に単純化して言っておく。
日常会話を除いて、小6の子供に「借り物でない言葉」などはない。子供の書いたものはすべて借り物の言葉である。大人でさえ、借り物の言葉で書く人間がほとんどで、新聞の投書欄や社会的発言(「命の大切さ」等等いくらでもある)は借り物の言葉の陳列場である。
だが、問題は借り物の言葉だからといって、子供の場合とくに、それが「嘘」であって「真実」ではない、ということにはならないことである。借り物の言葉には伝染性がある。いかに陳腐な定型句であろうが、奇怪な呪術語であろうが、ある条件の下では、子供の(大人でも)内面を支配することすらあるということ。大人でも観念語やイデオロギー語、特殊宗教語などは、その典型である。それを忘れてはいけないのである。

                             (2004/6/9)

[追記]上記とは反対に、キレる子供の脳には特徴?1万人追跡調査へなどという記事があったが、なにか事件があると、個体の脳器官に問題があるのではないかというような「唯脳論」もまたよく出てくるが、そうした生物学的短絡思考も支持できない。人間を動物として研究することを問題視するのではなく、短絡的思考を否定するだけであるが、なぜそうした短絡思考が繰り返されるのか理解しがたい。昔、おとなしい飼犬を散々いじめる実験をやったら、そのおとなしい犬はついに"キレる犬”になってしまったが、犬の脳には別段異変は現れなかった。その後、また、元のおとなしい犬に戻ったのだった(笑)。ナチスの優生学やスターリンの病棟を挙げるまでもなく、学問研究とその結果であるかのように見えながら、実は政治・イデオロギーや時の時代思潮にすぎないということは、よくあることである。単なる「研究」なら、まあやってくれ、と突き放しておけばいい。

                             (2004/6/30)

《資料》御手洗怜美さんの父恭二さんが代理人を通じて公表した手記(部分)  出典:死亡小6の父が手記

 さっちゃん。今どこにいるんだ。母さんには、もう会えたかい。どこで遊んでいるんだい。
 さっちゃん。さとみ。思い出さなきゃ、泣かなきゃ、とすると、喉仏が飛び出しそうになる。お腹の中で熱いボールがゴロゴロ回る。気がついたら歯をかみしめている。言葉がうまくしゃべれなくなる。何も考えられなくなる。

 もう嫌だ。母さんが死んだ後も、父さんはおかしくなったけれど。それ以上おかしくなるのか。
 あの日。さっちゃんを学校に送りだした時の言葉が最後だったね。洗濯物を洗濯機から取り出していた父さんの横を、風のように走っていった、さっちゃん。顔は見てないけど、確か、左手に給食当番が着る服を入れた白い袋を持っていたのは覚えている。

 「体操服は要らないのか」
 「イラナーイ」
 「忘れ物ないなー」
 「ナーイ」
 うちの、いつもの、朝のやりとりだったね。

 母さんがいなくなった寂しさで、何かの拍子に落ち込む父さんは、弱音を吐いてばかりだった。
 「ポジティブじゃなきゃ駄目よ、父さん」
 「くよくよしたって仕方ないじゃない」
 何度言われたことか。
 それと、家事をしないことに爆発した。ひどい父さんだな。許してくれ。

 家の中には、さっちゃん愛用のマグカップ、ご飯とおつゆの茶碗、箸、他にもたくさん、ある。でも、さっちゃんはいない。
 ふと我に返ると、時間が過ぎている。俺は今、一体何をしているんだ、としばらく考え込む。いつもなら今日の晩飯何にしようか、と考えているはずなのに、何もしていない。ニコニコしながら「今日の晩御飯なあに」と聞いてくるさっちゃんは、いない。




                                 (2004/6/7)

                       いやはや庶民たち

小泉訪朝の結果については、書く気がしない。会談を打ち切られて、どこかポカーンとした表情で金正日を見送る光景が浮かぶ。(それに私はこのところ、すっかり体調を崩している。)
ただ報道番組を見ていてふと疑念が浮かんできたのは、この人が「国交正常化」なるものをまじめに強調していた瞬間であった。帰国した直後の拉致被害者家族への説明会にも、拉致とはまったく関係のない「国交正常化」の意義なるものを語っているのを見て、この人は北朝鮮という国がどういう国なのか本当は分かっていないのではないか、という疑念を禁じえなかった。
「反共」を標榜している(?)自民党自体もひょっとしたら分かっていないのではないか?そんな疑念すら湧いてくるが、詳しく語らないので、それ以上は検証のしようがない。

分かっていないということに関しては、一部の一般庶民の反応もそうであるらしい。有田芳生の今夜もほろ酔いから2行だけ引用する。そこに「北朝鮮は1年7か月もよく育ててくれたよ。大したもんだ。北朝鮮にいたほうが幸せだな」などという庶民が登場する。「うちの息子や娘を見ていると日本はダメだなと思うんだよ」。

いやはやだが、確かにこれも一部庶民の声である。日本はだめだというのが今の日本のムードだが、息子や娘がだめなのは、自分の親父としてのだめさ加減であって、そこに自省がまったく働いていない。むしろ、親父がだめでも北朝鮮なら国家が立派に子供を育ててくれるというわけである。

ロシアのアネクドートというか一部ロシア庶民の本音にこんなものがある。

「スターリン時代は良かった!なにも考えずにすんだ!正しいスターリンに従っていればすべてがうまくいったのだ!」

それに比べて今のロシアときたら!自分でなにもかも考えなければならないし、考えてもうまくいかないのだ!というわけである。



                                   (2004/5/25)

参考:空白の10分間
ニュース:首相、北朝鮮との国交正常化「2年以内に実現したい」



                      イラクでの人質事件に関して

イラクはいまや大いなる荒地になる気配だ。

サラヤ・ムジャヒディンというのは最近結成された武装集団らしく、旧イラク軍の武器をもっているところをみると、スンニ派との関係が深いだろうと推測されるが、もっと雑然とした組織なのかもしれない。もっとも弱い民間人を人質にとり、占領統治軍の分断と追放を図ろうとしたものだろうが、“禁じ手”が無差別的に展開されている有様は、意気軒昂としていても無残である。「イラクで起こっていることはテロではなくレジスタンスなのだ」と言う人もいる。もちろんテロリストだから潰せばいいというような単純素朴な事件ではなく、イラク戦争の政治文脈の中で生起している事態ではあるが、それにしても行為としては無差別誘拐であって、荒れた政治状況というしかないだろう。

一方、米軍のイラク戦争と占領にも正当性はなく、圧倒的な武力を持ちながらも民衆からは“侵略者”として見られ、いまや武装勢力や宗教勢力との戦いで泥沼の様相を見せている。いわゆるネオコンの混乱した行く末が見えるようで、イラクは混沌とした戦争状態になる兆候が見える。独裁政権からの解放を謳いながら、軍事独裁になってしまえばそこで終わりだからだ。そして米軍の占領政策の一部分をソフトな形で担っているのが日本の「復興人道支援」で、彼らから見れば占領軍の一部でしかないのだから、この事件は“始まり”でしかないだろうと思われる。戦争と復興人道支援を分けて考えるという小泉内閣のきわどい政策は一気に吹き飛ばされてしまったが、イラクの武装グループに一筋の良心が残っていれば、それへの警告として作用しうる。ゲリラ的戦いで混沌としたイラクはいまやドイツ・フランスなどが主帳している「国連主導の復興」方式すら難しい状態で、それらの丸ごとの否定へ向かっているようである。

ところで国内では、東京でデモが行われる一方では、“人質”の一人高遠さんのサイトが非難・攻撃に晒され、掲示板を閉鎖するというようなことがあったそうである。また「2チャンネル」などでは、人質になった3人に対し「自業自得。死ね、死ね」というような書き込みをする心貧しい連中がなぜか「愛国者」気取りで闊歩しているようだ。それというのも“人質家族”の政治的発言が気に入らないということらしいが、心貧しい「愛国者」連中に言わせれば、国民の中にこうした敵がウヨウヨいるから死ねばいい、「敵は死ね!」それが自己責任だそうである。最近はモラルハザードというか、荒れた精神をさらけ出している連中が目立ち、こちらも荒廃した状態だ。

                               

[追記]アルジャジーラは武装ゲループの人質解放声明を伝えた。スンニ派の指導者の説得に、犯人グループが応じたためだという。声明には「米国は広島や長崎に原子爆弾を落とし、多くの人を殺害したように、ファルージャでも多くのイラク国民を殺し、破壊の限りを尽くした。ファルージャでは、米国は禁止された兵器を用いている。我々は外国の友好的な市民を殺すつもりはないと全世界に知らせたい。なぜなら、我々はイスラム宗教者委員会が我々に殺害をとどまるよう求めたことを今晩の報道や特別な情報源から知ったからだ。」とある。
この感情は多くのイラク人の感情と共通している。 まったく他律的に、ひとまず小泉政権は危機を脱したが、米占領軍の一部を担うようなこの内閣の姿勢ではイラク情勢の悪化を促すだけで、まったく駄目である。
                                   (2004/4/11)

[追記]サラヤ・ムジャヒディンなる武装グループに拉致されていた郡山総一郎さん、今井紀明さん、高遠菜穂子さんの3人が8日ぶりに「イスラム聖職者協会」を仲介して解放された。同協会のムハンマド・ファイジ師は、サラヤ・ムジャヒディンの声明を受け取ったことを明らかにした。その声明は「日本人と世界の人々へ。日本の市民が行ったデモと、アラーの名前を書いた横断幕を掲げられているのを知った。人質の家族の気持ちにも共感した。自衛隊の撤退を強く求め、とどまることを主張し続ける日本政府の政策を拒否するという道義的な立場に立つ日本人に共感する。我々は人質3人の解放を決断した。」というものだった。
クベイシ・モスクで「イスラム聖職者協会」が武装グループから人質を受け取り、そこから日本大使館に引き渡された。

解放されるだろうとは判断していたが、やはりほっとする結果だ。なぜ武装グループの解放声明が出てからすぐに解放されなかったのか、ファルージャの状況が許さなかったのかは不明だが、その間、日本国内の反応を注視していたことが声明から伺われる。この間、イタリア人の人質が一人殺され、明暗が分かれている。それから見ると、彼らは、的確な政治判断をしていることになる。イタリアの場合はあまりにも米占領軍に近く、まるで傭兵であるかのごとくで、かつ人質になったイタリア人たちは米軍に協力していることから、こうした差異が出ていると思われるからだ。解放された3人はそれとは逆の立場でイラクに入っていた。
テレビのコメンテーターたちの中には「日本人人質の価値」を強調する人が多かったが、そうした取引価値を基準にしているならば解放されるはずはなく、いまだ人質のままだろう。聖職者協会などにはNGOを通じて金が支払われたらしいが、この解放は政治的にすれすれのセーフというか、かなり高度な政治判断による解放というべきだろう。(と同時に、国家と宗教が完全には分離できていないこの地域での聖職者の権威というものに、モノクロ写真のような感じを覚えることも事実だが。)
新たに発生したジャーナリスト2人の場合は武装グループの様相が異なるようである。

それにしてもブッシュ政権はヨルダン川西岸のユダヤ人入植地の存続を容認する考えを表明したり、その中東政策はまた紛争の種を撒いている。
                                  (2004/4/16)

[追記]アブグレイブでアパッチの墜落現場を取材していて拉致されていたフリージャーナリスト2人が、アブグレイブ近辺で、突然解放された。武装グループとの仲介にあたったのはやはりイラク聖職者協会のクベイシ師、バグダッド市内のモスクで日本大使館に引き渡された。2人は何箇所かを移動させられたが、解放に当たって、やはり前に解放された3人の場合と同様の趣旨の声明が渡された。2人は比較的丁寧に扱われたという。

さて、今回の事件を契機に、自公与党からは、邦人保護という政府の基本的責務を免除しようとする意図としか聞こえない自己責任論が噴出したり、逆に渡航を禁止しようという渡航規制法をつくるべきだといった声が出てきた。
自己責任論がいわば脳裏にしか存在しないバラバラな個人による自由主義というか空虚な自己決定論から出てきているものだとすれば、他方の渡航規制法案は全体主義体制志向であり、両者はベクトルの方向が逆であるのに、それが同じ与党から出てくるところが奇怪である。だが、いずれも、政府の責務を軽くしようとする意図から出てきているところは共通しており、全部、個人の責任に解消しようとするか、国家の政策に従わず渡航する国民は保護を受ける権利はなく、選別的に保護すると主帳しているかの違いである。

今回の人質事件は、治安の悪い渡航先で日本人も狙われたなどという確率事象ではなく、れっきとした政治的原因のある事件である。相手が武装集団であるにしろ、民衆であるにしろ、伝統的に「親日的」である中東において、ブッシュ政権にもみ手をするあまり、日本人がイラク人(のかなりの部分)から敵視されるような事態をつくり、国民感情レベルでの良好な関係にわざわざ穴をあけたのは誰なのか?そこのところを、とんと忘れているようである。「他個責任」にするのなら政治家になるな。

                                   (2004/4/18)

[追記]フィリピン人運転手が人質に取られ、武装勢力から撤退を求められていたフィリピン政府は、イラク駐留部隊を撤退させることを決定した。フィリピンの駐留軍は50名ほどで、すでに段階的に撤退を始めていたため、現在は20名ほどしか残っていないが、これで完全に撤退することになる。フィリピンの場合は、外国への出稼ぎ労働者が多く、出稼ぎ労働者はフィリピン経済に欠かせない存在であるため、日本とはその点でやや事情が異なるが、しかしそれでも日本と同様、アメリカの同盟国である。同盟国でありながらも「テロに屈するな!」などという面子にこだわらないクールな対応をしたことが注目される。
日本は、政府のいう「復興人道支援」なら、なおさら国家の面子ではなく、「支援」の内容で判断すべきであるはずなのだが、なぜか、駐留にこだわった「テロに屈するな!日米一体路線」を貫いており、その「一歩も退くな」的硬直性が、逆に「人道支援」なるものの虚飾性を語っている。国際的少数派になる所以である。

                                   (2004/7/19)

ニュース:比人運転を解放 UAE大使館に保護
ニュース:国際協力も「本来任務」…政府自衛隊法改正案提出へ
ニュース:前防衛庁長官が大馬鹿発言=「多国籍軍指揮下入りは常識」
自民党の中谷元・前防衛庁長官は、自衛隊のイラク多国籍軍への参加について『多国籍軍の指揮下に入らないというのは、日本では常識であっても、世界の非常識だ』と大馬鹿発言をした。(2004/6/23)
ニュース:イラク・イスラム聖職者協会、国民大会議への参加拒否
ニュース:余録:韓国人人質
ニュース:韓国企業、実利求め危険背に進出 イラク人質殺害
ニュース:韓国人人質、殺害される 米軍が遺体発見
ニュース:ついに「2ch」並みの政治家出現!人質は「反日的分子」 柏村参院議員が相次ぎ放言  柏村武昭のホームページ
ニュース:「陸自利益にならず」51% イラク地元住民
ニュース:「日本人は人質に冷たい視線」 米メディア 「お上に盾突き」非難浴びる
ニュース:欧米では帰還した人質は英雄なのに 米紙が過熱する「自己責任」論議に驚き
ニュース:仏紙ルモンド、人質事件で自己責任問う声に皮肉

参考:「平和望む心通じた」人質解放で奔走のキデル・ディアさん語る
参考:心労の家族に心ない中傷 留守電にまで「死ね」
参考:Iraq group targets occupation nationals(アルジャジーラ)
参考:Italian hostage killed(アルジャジーラ)
参考:拘束現場ビデオ(アルジャジーラ)
参考:邦人誘拐事件に関する声明テキスト分析
参考:ストリートチルドレンのケアをしている高遠菜穂子さん

                               

                       尖閣諸島への暴れん坊

中国の「保釣連合会」なる“愛国団体”が上陸を繰り返している尖閣諸島。ケ小平時代の中国とはすっかり様変わりして、最近の中国政府はこうした中国ナショナリズム高揚運動を側面から支持し、日本刺激もいとわない姿勢に転じている。中国政府は1992年、尖閣諸島を領海法上の中国領土に編入し、さらに去年は中国民間人から尖閣諸島借地申請を受け付けているから、事実上、これは官民合同の運動といっていいだろう。逮捕された保釣連合会のメンバーは「中国の領土だから上陸は当然」と主帳しつづけているようだし、中国政府は「即時・無条件の釈放」を求めている。メンバーの中には「愛国者同盟ネット」を主宰している人物もいるようだが、現在の中国では「愛国」はとりもなおさず“正義の旗印”になる(注1)(ビアスの『悪魔の辞典』でも読みたまえ、と言いたいくらいなものであるが)。

さて尖閣諸島の領有権問題については書くまでもないだろう。と思っていると、ふと、田中宇の国際ニュース解説-世界はどう動いているかが目に付き、そこに次のような趣旨のことが書いてあって、改めて意外に思った。

日清戦争に勝った日本は、1895(明28)年に中国の清朝から台湾とともに釣魚台を譲り受け、沖縄県に編入した。・・日本が釣魚台を領有したのは、清朝に台湾を割譲させたからで、釣魚台は台湾の一部として割譲させた。だから、歴史的な経緯からみると、台湾の領有は日本の敗戦によって終わったのだから、台湾に付随する釣魚台も同時に返還すべきだった。

アジア主義者の見解は必然的にこうなるのだろうか?だが、これは歴史的経過を誤って捉えているようだ。日清戦争が終わり、下関条約が結ばれたのは1895(明28)年4月である。もちろん下関条約には尖閣諸島(釣魚台)についてはなにも触れられていない。一方、明治政府が尖閣諸島を無主地であることを確認し、沖縄県八重山郡に編入したのは目が外に向いていた日清戦争のさなか1895年1月のことであり、台湾の付属の島として清国から割譲させたわけではない。

尖閣諸島はどの国も領有を主張していない無主の地だった。というか、領土がここまでであるというような明白な境界線意識はなかった時代であり、領土境界はかなり漠然としていた。当時は、清国にとって台湾ですら属地ではあっても“化外の地”だったので(注2)、日本政府が“編入”しても、そんな無人の島など話題にもならなかったのは自然の成り行きだった。もっとも、その”編入”は近代国家としての“編入”であって、それら島々がそれまで知られていなかったとか、利用されていなかったとかいうことではまったくない。大体がいまごろ「台湾を割譲させた」などと言っている意識が、明治政府同様古いのである。

本当はこういう島は、そこを活動の舞台にしている住民や漁民のものだ、と原則論を言いたいところだが、尖閣諸島の場合は歴史的経過からいまも沖縄に属する。(注3)このことは原則論とも矛盾しないだろう。この件については、自民党から共産党まで意見が一致しているまれな問題(?)であり、歴史学者でも反対論は亡くなった井上清くらいであろう。(注4)


(注1)尖閣諸島(釣魚島)に上陸したとして逮捕された馮錦華容疑者(33)の妻、張慧芸さんは、夫を即時釈放しない場合は、日本政府を相手取り、「誘拐行為」に対して訴訟を起こす方針を示唆した。(時事通信)
(注2)いわゆる「台湾出兵」のきっかけとなった沖縄漁民殺害事件に関して、清国政府は明治政府に対して台湾には主権が及んでいないとさえ回答している。それを文字通りに信じてはいけないが、清国にとって“化外の地”という認識であった。
(注3)清朝の官吏傳雲竜は、日清戦争以前に日本で「遊歴日本図経」を書き上げ、1889年(明治22年)に総理衙門に提出している。彼はこのなかで尖閣諸島を琉球諸島の一つとしている。これは彼の個人的見解ではなくて、台湾出兵の後に清朝側でも確認済みとなっていた可能性が高い。
(注4)井上清『「尖閣」列島−釣魚諸島の史的解明』:領土境界というものが明清の時代から明確に決まっているという前提で書かれている。著者はこれらの諸島と中国との関わりは深く、沖縄との関係は薄いと書いているが、これは誤りである。また、著者は林子平の『三国通覧図説』「付図」を論拠の一つとしているが、もしその論理を採るならば、同「付図」では台湾は清領とは独立した「台湾」となっているので、台湾を中国領とする現代中国政府こそ真っ先に批判される対象になるはずである。だが、著者はそれについてはなにも言及していない。

(参考)尖閣諸島問題


                              (2004/3/25)

[追記]沖縄県警は島の構造物に対する損壊があったことから、通常の刑事手続きを取る方針だったが、急遽断念し、犯人を入管に引き渡した。7人は入管からただちに上海に送還された。首相官邸から「日中関係に悪影響を与えないように大局的に判断しなければいけないとして関係部署に指示」があり、政治判断が優先された。(各紙報道)
いつものことだが、「法律にのっとり、厳正に対処する」もへったくれもないという現状がまた明らかになった。(2004/3/27)

琉球新報:「尖閣は日本の領土」 遭難救助の中国政府感謝状に明記



                   MSの独占禁止法違反問題について

この件はかなり知られていることであり、書くまでもないと思っていたら、有名な「がんばれ!!ゲイツ君」サイトを今読んだら、知らなかったと書いてあったので驚いたくらいである。
あまり書くと、あくどいMSよりも、そんなあくどいMSに屈服してきた日本のIT企業のお粗末さが見えてしまうので書きたくない話の一つなのだが、アメリカ企業を至高と考えているらしい竹中平蔵のようなマヌケが日本にもたくさんいるらしいので、ひとことだけ書いておくことにする。
それは、アメリカといえども公平な自由競争を妨害したり、政治力・利権その他の力によって勝者になった企業は山のようにあるが、公平な競争を堂々と勝ち抜いて勝者になっている見本とすべき企業の方はそれほど多くはないということである。逆にいえば、そういう中では、MSが飛びぬけて悪質なわけではないということだ。

日本の企業の多くは、そういうあくどさで市場を支配する以前の状態であって、今まで1社たりとも世界市場を制覇するために不法な強制力を行使したことはないだろう。というより、賛否は別にして、できなかったのであり、これからもできないであろう。

とにかくこうした問題とくに経済システムの問題は、勝者の建前にすぎない「市場原理」をそのまま信じて賛美していれば解決するというような簡単なものではないし、多くの問題を含んでいることなのであって、また企業の勝ち負けなどというものは、その世界のルールを変えれば、一変するものだ。

                                 (2004/3/8)

                       『予感』の海

2ヶ月ほど前には「景気回復の兆候が見えた」と言い、「さあ消費税増税だ!」と欣喜雀躍していた自民党は、最近なぜか増税を言わなくなった。彼らの希望的観測に狂いが出始めたのか、またまた学歴詐称だとかつまらない問題にうつつをぬかしているばかりで、長い不況を「先送り」してきた。ところが今日「昨年10-12月期の実質成長率年率換算7.0%!」という速報が出て、またぞろ「さあ景気回復だ!増税だ!」と同じ議論が蒸し返され、同じように「腰折れ」する可能性が出てきた。小泉内閣は無能といってよいくらいで、外交で点を稼ぐことくらいしかできないのに、その外交でも茶坊主にすぎないことが露呈し、肝心の経済政策では茫然自失の状態で、自然治癒力を待つばかりであった。

このまま景気回復するという観測はどうだろうか?もちろん希望にすぎない。今は名目成長率が重要なのだが、「実質成長率年率換算7.0%!」などとごまかしているようではだめである。昨年通期で0・2%の微増にすぎないし、GDPデフレーターがやたら拡大しているのである。
彼らに言わせれば、景気刺激策も公共投資も金融政策も無力だそうで、ただ思考停止状態のまま「構造改革」とお題目を反復しているのが精一杯だそうだ。そして、中国を中心とするアジアの需要とアメリカの景気回復過程からくる外需要因に望みを託し、円高介入に励んでいる。円高介入が悪いわけではないが、いわば「本土決戦」に敗れつつあるのに「絶対防衛圏」を設定しがんばっているのである。
そのほかになにをやったか?
なにも!
いや、お題目の反復以外にも、毎年靖国神社にお参りし、繁栄を祈願しているではないか!
それでも最悪期は脱したから、あとは、さあ景気回復だと繰り返す時期を待っているわけである。

さて、このような状況では人々の批判精神は鋭くなるかと思うと逆であるらしく、仕事がなくなったとたん欝状態に陥ったり、諦めの境地に入ったり、スローライフと称して退化したり、あるいは「精神世界」なるものに閉じこもったりする人々がかなり多いようだ。不況などというものは不可抗力でも自然現象でもなく、経済政策の失敗からくるものであるということは30年代の世界恐慌における経済政策の失敗を見てみれば明白なことなのであるが、それを究明しようという方向ではなく、逆になんとかして自分の「生き方」で処理しようとする内向的、精神生活的な態度が露出してくるという馬鹿げた状況になっている。それでは批判精神の欠如どころか、まるで自己処罰的な犠牲羊の精神ではないか?

エコノミストはどうだろうか。最近、森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』(岩波)という本の帯をみてあきれ返ってしまったのだが、かつて『なぜ日本は「成功」したか?』という本を書いたのはいったい誰だったか?
彼は自ら告白していた。「このテーマについて執筆を進めているあいだ、私は非常に悲観的にならざるをえなかった-−17年前『なぜ日本は「成功」したか』を記した著者が、いま、なぜ日本没落を予想せざるをえないのか。かなり高いレベルの生活水準を持つ、国際的にはあまり重要でない国、それが著者の見る21世紀半ばの日本のイメージである」

ここにあるのは経済学者の精神でもなければ、社会科学者の精神でもなく、言ってみれば社会全体の欝状態の反映である。かつては躁の状態であり、それはアメリカを追い越す昇り竜のような状態だった!そして今は途上国・中国からも哀れまれる没落の予感がただよっているのである。つまりは得体の知れない日本全体の空気のようなものであり、なにか悪霊に憑かれたような悪い予感である。そういう予感によって書かされているのだから、没落はいまや日本の運命となるしかない。
かくてこの経済学者は運命論者となって深い予感の海を沈んでいくわけである。

一方のマスコミはどうか。日本から牛丼が消えた!とか面白おかしく騒いでいるマスコミなんぞ話しにならない、まるで駄目である。マスコミの批判精神などという言葉があるが、いまや"糞バエ”精神しかないのだから、彼らの批判精神などに期待するだけ無駄であろう。表層の空気のなかをネタを求めてコバンザメのように泳いでいる。
彼らはこれでもジャーナリストかと思うほど何も分かっていない。「日本が大赤字で財政破綻する!」とか「財政破綻を防ぐためには増税はやむを得ない。やはり構造改革だ」とか年増の耳学問のような愚かなことを言ってきたが、それなら、去年からの為替介入のための巨額資金の流出によって今ごろ日本は財政破綻していなければならない。
どうして財政破綻しないのか?自分の愚かさを完結させるためには、「財政破綻が必定の為替介入は一切やめるべきだ!」と強硬に主帳すべきであろう。
だが、このコバンザメはキョロキョロするムード以外なにも持ってはおらず、泳ぐ空気と新しいネタしか必要ないのである。

                                (2004/2/18)

                 政治づいたドンキホーテの猪突猛進

奥田経団連がまたまた暴走をはじめた。「政党の政策評価によって企業政治献金を再開する」のだという。 その「政党評価」とやらを見ると、自民党はA,B、民主党はB,C、社民・公明・共産は「評価外」だそうで、その評価にしたがって献金のあっせんをするのだという。

10年前、政党助成金制度がなんのためにできたのか?政治活動が献金なしでもできるようにするには税金から政党助成金を出す必要がある、という謳い文句だったのではないのか?そんな過去の経緯はお構いなし、とにかく、しゃにむに影響力行使をしようというドンキホーテ的猪突猛進である。

「政策評価」ってなんだ?奥田が言ってきたことは、法人税引き下げ、所得税率累進性の廃止、消費税毎年引き上げ、失業手当引き下げ、ベアなし、春闘なし、賃下げ・・・等々、国民生活の向上に役に立たないことばかり、要するに国民の生活水準を引き下げて企業利益を上げようという誤った愚策ばかりである。そんな愚かな「政策で評価」され、献金されたら、日本経済は大いに迷惑する。

誤った観念でなりふり構わず影響力を行使したいって?経団連という組織の長になったら、この有様だ。それにしても所詮は商売人の成り上がりでしかない分際で、何様と思っているのだろうか?

また、奥田は連合との懇談会で「教育費や過大な生命保険加入などの家計の無駄を見直すべきだ」と「家計のリストラ」を主張したそうだ。
余計なお世話だが、しかし、売り言葉に買い言葉ではなく、人の家計まで首を突っ込んでいく姿勢だとすると、もはや正気の沙汰ではない。

                                 (2004/1/29)

                     日本の航空機産業は離陸するか

最近、友人から「面白いぞ」と薦められて半ば強制的に読まされた(?)のが、前間孝則『国産旅客機が世界の空を飛ぶ日』(講談社)という本である。激烈な世界の競争が生々しく書かれている前半は一気に読んでしまった。後半は日本の航空機産業の未来について書かれているのだが、ここは日本の現状をそのまま反映して、いかにも迫力不足にならざるをえないが、著者の熱意は伝わってきた。

いま世界の航空機産業は転機にある。先進国で航空機の王者として君臨してきたボーイング社がもたもたして、超大型機の開発をスタートさせて勢いづくエアバスに形勢を逆転されつつある。すでに報じられているように年間出荷ではエアバスがボーイングを大きく上回り、さらに将来の方向を打ち出せないボーイングをあと数年で決定的に蹴落とそうという勢いにある。ボーイングはB747以降マイナーチェンジを繰り返し、デリバティブで勝負してきただけで、革新的な技術もコンセプトも打ち出していない。一方、エアバス社はボーイング社の最後の砦であった超大型機分野でA380を開発し、ボーイング社に敗者の烙印を押そうとしている。

どうしてこんなことになったのだろうか?それは一言でいえる問題でもなく、本を読んでもらうしかないが、ここで言っておきたいのは、この戦いが一航空機産業における企業の消長の問題ではないということである。GPSに対抗する欧州のガリレオ計画しかり、携帯電話の方式を巡る米欧の戦いしかり、あらゆる先進分野における欧州対アメリカの熱い戦いの現われだということである。これはいわば冷戦終了後の新たな戦線なのであって、いまや新たに中国も加わろうとしている形勢にある。(注) そうした大きな視点から世界の動向を把握すべきであって、航空機産業はその象徴ではあっても、多くの人が考えるような一産業分野の企業の経営問題などではない。
                 
こうした分野は小賢しい経営学の等式などあっという間に吹き飛んでしまうような“仁義なき戦い”の分野であり、“大いなる夢”の分野でもあって、そもそも、ライト兄弟の実験からして経営損益などに従属してはいなかった。それは荒々しくはあっても人間の可能性の夢、将来の可能性の全体だった。それがどうして企業の経営問題などという極小的な問題に還元されるだろうか?

航空機分野に絞って、この本から仁義なき戦いの例を挙げよう。
かつてボーイングはエアバスをGATT違反だと訴えたことがある。
エアバスは開発費の大半が欧州の各国政府から出ており、利益が上がらなければ返済の必要がなかったし、さらには税制面でも優遇措置がとられ、一般工業製品とは明らかに別格扱いされていたからである。ところがこの提訴に対して、エアバスはボーイングこそGATT違反だと逆襲する戦略に出た。ボーイングはアメリカ政府から巨額の防衛予算を受け、民間航空機の研究開発をまかなっている、それこそGATT違反だ、というのであった。この逆襲戦略によって、泥沼の戦いは結局手打ちに終わったが、「自由で公平な競争」などといいだせば、両者共に足元に火がつくような問題があった。

アメリカの場合は「産軍複合体」などと言われて絶えず非難を受けていたが、しかし、防衛部門における利益がなければ民間航空機一本ではやっていけなかったし、また技術的にも“軍民複合”した方が効率が良いのである。だが、エアバスのように政府から無償の補助金などは受けてはおらず、その点では自由競争の原則下にあった。ところが、その自由競争の原則が世界の航空機需要の減退とあいまってボーイングを経営問題の原点に回帰させ、最大の弱点にしてしまった。それが1ボーイングの問題ではなく、アメリカ全体の問題になってくるのは時間の問題であって、この点では原則などないのだ。
一方のエアバスは欧州連合のコンソーシアムであり、連合政府への依存度はボーイングより遥かに高い。株式会社になったのはつい2001年であって、それまで溜まった巨額の赤字すら問題にされず、コスト割れ販売もいとわず、欧州の航空各社のバックアップを受け、ひたすら拡大路線を走ってきた。エアバスはいわばコンコルドの亜音速版なのであったが、違いはコンコルドと違って世界に受け入れられたという点であった。製造工程の世界各国へのシェアリングをモットーにしながらも、欧州連合の強い指揮下にあることになんら違いはないのだ。“偉大な欧州の復活”というドゴール以来の夢想は、自由競争原則のおだやかな無視の上に戦う新たな戦場を意味していたのだが、仁義なき戦いによって夢想はようやくこの分野でも実現に近づいた。

ところで、日本の航空機産業の離陸という戦後日本の“悲願”はどうなるだろうか?
残念ながら、今までのところ、この点では日本は、鳴かず飛ばずである。巨大な軍事産業のバックアップがあるわけでもなく、強力な政府のバックアップがあるわけでもない、と言うかまったくないと言った方が現実に近いし、また国内に広大なマーケットを抱えているわけでもない。YS11は意外なほど好評で、海外にも輸出されたが、採算性を重視する官僚によって突然打ち切りになり、それ以降沈黙状態に入った。また、この分野の重企業は保守的で冒険をするほどの野心もなく、大赤字を出すリスクを引き受けるくらいなら、なにもしない方がましだ、と考えてきた。つまりは日本は経済原則に縛られた弱点の全面開花なのであった。政治利権の分野は別にして日本ほど経済原則に忠実な国はないのであって、唯一の強みはボーイングなどの下請けをして培ってきた構造系の技術のみである。そして構造系にしても上のような世界の動きに“下請けとしてどうすればいいのか”翻弄されてきたのが実情である。
航空機に限らず、実際に造らない限り技術も進歩しないのであって、金縛りにあっているだけでは世界を飛ぶジェットエンジンの完成など夢のまた夢である。また、日本に世界に伍する展望をもった政治家が出てきて、先端分野でのジリ貧の形勢を一気に変える可能性は、そのまた夢である。

ところが最近、ようやく民間からこれまでとは違った動きが出てきた。ホンダが小型飛行機を米国で開発し、“長年の願望”であった参戦を果たそうとしている。またトヨタも遠からず参戦する勢いであり、従来の重企業では、MHIが小型旅客機の開発をスタートさせ、IHIは初の民間用小型ジェットエンジンの開発に乗り出した。FHIは米メーカーと提携し、小型ジェット機の開発・販売を行うと発表した。いずれもターゲットはボーイングやエアバスと衝突する中大型機ではなく、アメリカなどで市場が大幅に伸びている小型機の分野である。
この分野は今後マーケットがどれほど伸びるか未知数だが、リージョナル航空網の発達とともに、今は富裕層だけの夢である自家用機をやがて世界に普及させるかもしれない可能性をもった分野であり、一気に時代が激変するかもしれない分野なのである。自由競争の原理も働きやすい。ここへきて、経済原則に忠実な日本にも、ようやくおずおずとした出番が巡ってくるかもしれない。


                         (2004/01/10)

(注)日刊工業新聞(2004/3/23)
「中国が2018年までに、大型航空機の独自開発・生産を目指すことが明らかになった。中国初の試みで、米ボーイング社と欧州のエアバスが二分する航空機市場に将来、中国の国産機が参入することになる。中国航空工業第一集団公司の劉高倬・総経理(社長)が英字紙「チャイナ・デイリー」に語った。
劉総経理によると、中国の航空業界は今後も急速な発展が見込まれ、2022年までに1400機の大型旅客機が必要となる。中国はこれまで、大型旅客機をすべて輸入しているが、これまでと同様、1400機すべてを輸入した場合、調達コストは少なくとも計1000億ドル(約10兆7000億円)に達するという。
 このため、中国科学技術省の強い意向もあって、これまで総重量100トン以下の小型航空機のほか、戦闘機や爆撃機などの軍用機を生産してきた同公司が、100トン以上の大型旅客機の製造に挑戦することになった。」


ニュース:国産ジェット、70―90席に・三菱重、今年度中に事業化
ニュース:エアバス、世界最大のジャンボ機完成 総2階建て550人乗り
ニュース:米ボーイング:特別損失630億円計上
ニュース:米政府高官、エアバス補助金の撤廃を要求

参考:欧米2大航空機メーカー、日本市場巡り火花

                             自分の力で生きる社会へ(?)

はや今年も年末である。振り返ってみると、2003年はなにか崩れかかった廃屋を見るような気分で、個人的には暗い思いはないけれども、社会全体が荒れてきた印象が残る。その象徴が次から次へと報じられる犯罪事件で、ショベルカーによるATM強奪、「おれおれ詐欺」、保険金殺人、ピッキング、キャッシュカード偽造、戸籍売買、偽造請求書送付、痴呆老人殺人、少年少女犯罪、老人犯罪・・と上げていったら切りがないほどで、ある雑誌には「もう、むちゃくちゃだ〜!」と書いてあった。一方では、16万円だかを出す出さないでビルを爆破する名古屋軽急便事件のようにかつては考えられなかったようなつつましい(?)事件や、老人による詐欺事件などという新現象も起きた。犯罪も日常化し、身近に迫った感じである。

政治レベルでは、「共生社会の創造」とかいうスローガンがあり、まるで過去の日本は「共生社会」ではなかったかのような言説がばら撒かれているが、事態はそれとは逆であって、ますます「共生」しがたい社会になってきている。愚劣すぎて失笑してしまう事件もある一方、犯罪をしようがとにかく自分の力で生き抜かなければならないという切迫感のようなものがある事件もあり、事態は「共生社会の解体」なのである。

どんな事件が起きても驚かず、所詮他人のことだ、俺とは関係ない、勝手にやらかせ!と思うようになった段階で、この「共生社会の解体」は完成する。自分が嘆いたって事態は変わらない、もちろん倫理・道徳がどうとか言っても事態は変わらない、とにかく自分の力で生きなくてはならないのだ。そういう思想が普及したが、しかし、自分の力とはなにか?と考えてみると、はなはだ頼りなく、資格や特技などはその“力”のうちに入らない。人を動かし、すぐ現金化されてこそ力だ、ということになると、勢い生き馬の目を抜いたり、弱点を突くことになる。つまりはカタギではない怪しげな街金キリトリ屋や一発屋の方が「自分には力がある」と信じるような状況である。

極端に言えば、民衆、サラリーマン、市民の終りだろうか。この中では攻撃も自己防衛の一種なのだ。特に長い不況で、乾いた、生きるのに難しい時代になった、そんな印象が残る2003年であった。

                              (2003/12/28)

                    国際社会の茶坊主は役にたつか?

茶坊主は役にたつだろうか?

このところテレビニュースは2人の外交官葬儀と自衛隊派遣決定のニュースばかりだが、死亡外交官の葬儀の模様はどこかの国葬のようで違和感があったし、小泉内閣の派遣決定にはさらにひどい違和感がある。霧の向こうに向かって、「国際社会への貢献」と「イラク復興人道支援」という2つの合言葉を連呼しても、そんな態のいい言葉では説明になっていないと思うばかりである。
"国際社会”は別に日本にイラクへの自衛隊派遣を要求していないし、“復興人道支援”ならイラク人政権ができた段階でゆっくりすればいいからである。それこそ企業がやればいいことだし、「戦争をしに行くのではない」とはっきり断言するのならば、なおさらである。

アメリカの、いやブッシュ政権のご機嫌取りをすることが「国益」に繋がるというイエスマンは役にたつだろうか?
一般的に言って、イエスマンは大抵どの組織でも役にたたないばかりではなく、かえって事態を悪くするものである。会社組織の中では会社を駄目にするし、政治の世界では事大主義に陥って身動きできなくなる。ブッシュ政権の前途も怪しいのに、それこそ「国際社会」では軽々しい存在として信用を失うか、あるいは哀れみを受ける存在になるほかはないだろう。
「テロに屈するな」と時代の合言葉を叫んでも、いったい誰がテロ攻撃を受けたのかと逆に問いたいばかりだ。アメリカが受けたのか?それならアメリカに任せておけばよい。いや、日本も受けたと言うならば、それは米ORHAへの派遣要員だったからだと言うほかはないだろう。2人の外交官には同情するが、外から見ればあからさまな日本の米支援要員に見えるのだ。小泉政権は自ら敵をつくり、敵に屈しないと言っているのだから、“派兵”は“テロ”を受ける潜在的資格があるというものだ。米占領下のイラクへ行くのである。

そんなことよりも、もっとやるべきことはあるだろう。だが、茶坊主政権に一体なにをやりたいのか、と正面から問うても、真摯な返事は返ってこない、それが茶坊主の宿命だからだ。唯一はっきりしているのは、この小泉政権がなぜか、なし崩し的に「憲法改正」をしたがっているということだけである。
                                (2003/12/11)



(追記)日本の外交姿勢については「船橋洋一の世界ブリーフィング」にこんな話が載っていたので引用しておく。
                 ----------------------------------------------------
このほど東京で開かれた日本ASEAN特別首脳会議に随員として来日したASEANのベテラン外交官であるC氏は私にこんなふうに言った。
「中国を落とせば、日本は落ちる。日本を落とせば、韓国は落ちる」
もともとはASEAN域内国だけに適用する条約だったが、ASEANは98年、それを域外国、なかでもアジアの主要国である中国、日本、インド、韓国などにも開放することとし、それらの国々に加盟を呼びかけた。その前年のアジア経済危機に見舞われ、これらの国々との協力関係の大切さを身をもって痛感したことが背景にある。
当初、ASEANがいちばん期待したのは日本だった。日本は中国、インドと違って国境を接していない。中国は、ラオス、ベトナム、ミャンマーとASEAN10カ国のうち3カ国までが国境を接している。どれほど中国が微笑外交で臨もうが、重圧を感じざるを得ない。海もまた南シナ海をめぐる領海紛争がくすぶっている。
インドとは、ミャンマーがASEANに加盟したことで1600キロに及ぶ国境を共有することになった。しかも、インドは言うまでもなくインド洋をにらんでいる。
この両国に比べて日本は、過去の歴史はともかく、いまは取っつきやすい。ところが、日本はまったく関心を示さなかった。
そうこうしている間に昨年、中国がTAC加盟を早々と決めた。今年、全国人民代表大会が批准した。続いて、インドも加盟を決定した。日本だけが残った。
その後もウロウロ迷走したあげく、今回の日本ASEAN特別首脳会議で、日本は加盟を表明した。中国に遅れること1年以上である。
ただ、ASEAN側はこの間、日本が動くのは、中国の後追いをするときであることを知った。C氏の発言はそうした経験則を踏まえてのことだ。
「韓国の加盟はどうなりそうですか」と私が尋ねたら、C氏は「韓国は日本がどうするか、じっと見守っている。ようやく日本が加盟を決めたことで韓国も加盟するだろう」と答えた。
「中国を落とせば、日本は落ちる。日本が落ちれば、韓国は落ちる」

         http://www3.asahi.com/opendoors/span/syukan/briefing/index.html

まおイラク自衛隊派遣にどれだけ費用がかかるかは、gendai.netに一体どれだけの血税が砂漠の水と消えるのかという記事がある。


                     果てしなきガキ時代から離れて

先日たまたまNHKスペシャル『学校は変わるか---学力NO.1に学べ』というのを見はじめたら、つい最後まで見てしまった。その番組はいわゆる教育問題、学力低下問題を扱っていたのだが、興味があったのはフィンランドが10年前にかなり急進的な教育改革を行い、それが見事に成功し、いまやダントツで世界の学力NO.1の国になった、その有様の紹介があったからである。

それによると、かつてのフィンランドは日本の文部省教育と同じように上から下へ、国家から教育現場への「指導」により成り立っていた。しかし、新しい時代に対する認識たとえばベンチャー企業が輩出してこなければフィンランドの将来はないというような時代を迎え、古いシステムを根本から変えた。
それは第1に、従来の官僚型上意下達のシステムから現場への完全な権限委譲であり、現場に教育のあり方、具体的なカリキュラムなどを考えさせるシステムである。この権限委譲によって学校・現場教師自身に責任感を持たせ、創意工夫させた。現場教師は今度は生徒に考えさせる教育内容を考えるのである。
第2に、その結果をチェックするための客観的なデータによる検証システムである。そのために毎年、全国一律の学力テストを行い、その結果によって基礎学力、応用学力の全国的な進展度・問題点を分析評価するシステムとした。
第3に、情報公開と参加型のシステムである。学校の教育内容は情報公開され、父母がそれに意見を述べ参加できる仕組みとし、相互に問題があれば、現場自身によってただちに変更できるシステムとした。

概略、こんな内容であったが、現場教師が研修を行っている風景など興味深かった。日本はまだまだここまで行っておらず、明治以来の国家教育を引きずっている。番組では経済界、地方自治体、現場教師、教育専門家などが出てきて日本のあり方を議論していたが、文部科学省の役人が自己保身的な紋きり型意見を言っていた以外は、おおむね好意的であった。
日本で教育問題というと、日の丸・君が代問題、「愛国心教育」の問題とか、じつに下らない議論ばかりが横行し、うんざりだが、こういう実のある議論をしてほしいものだと思った。ついでに言っておけば、つまらない「愛国心教育」など不要である。

さて、学校教育の公式論ではなく、私の教育に対する原点イメージのようなものを書かないと片手落ちだろう。私の教育システムのイメージは学校教育にはなく、むしろ近代ヨーロッパ貴族の個人教師のようなものを理想としている。数学ならこの数学教師、英語ならこの英語教師というように選んで教育を受けられる個別マンツーマン・システムのようなものであり、生徒の知的興味と深化にいくらでも合わせられる高度な“教師”による教育である。
これなら、果てしないガキの遊び時代から青年期の学問へと連続的につなげられ、教育という名に値するのではないか、と思うのである。そんな贅沢なシステムなど実現しないだろうが、平凡な教育を受けた者として一度はそういう贅沢をしたかったという後悔が先に立つ(笑)。

または研究サークルのようなものであり、その分野に興味があるもの同士が集まって発表し、議論し、研究する--教師はそれを手助けし、指導する、そんなイメージである。

振り返ってみると、ガキ時代は田舎だったのでガキ仲間と遊び呆けるのが楽しくてたまらず、いつまでもガキでいたかったくらいだった。牛神に抱かれながら日が暮れるまで果てしなく遊び呆けることこそガキの天職であった。小学校に入っても走り回る原野が職場であったが、しばらくすると、メカに凝り始め、エンジンの内部構造を幾度も描いたり、『子供の科学』を読んで不思議な世界に惹きつけられたりした。その頃雑誌の発刊日が待ち遠しくてたまらず、その日になると、小さな本屋に駆け込んだものであった。が、やがてその時代が終わると、今度はラジオ製作の時代に入り、これも本屋へ行って雑誌やら本やらを買ってきて独学し、パーツを集めて組み立てた。まるで魔力に取り憑かれたように、われを忘れて製作に熱中するのだから不思議なものである。共振周波数が1/√LCなどという公式もその頃覚えたが、中学1年のときにはじめて子供心に独創的な(?)回路を考えて雑誌に投稿したりした。・・・・

・・・・・そんな話を書き始めたらきりがない。大事なことは子供時代の興味には教師も遊び仲間も応えてくれず、雑誌や本が子供の私の真の教師だったことである。それから、ずっとそうだった、私は学校に通いながら、興味ある分野はいつも“独学”であった!その輝かしい世界と学校で習うくすんだ世界とはいつも水と油のように溶け込まないのであった。

この種の体験を経た人は五万といるに違いない。これでうまくいくのだろうか?
私の場合はノーである。たいていの分野では青年期には世界水準に達していることが要求されるが---果てしなきガキ時代、つまらない学校教育、独学、通学による知的興味の不燃焼、そして凡才の出来上がり---なのである。いや、そうでない人もいるだろうが、平均的にはそうなりやすいだろう。そんなレベルよりも遥かに高い水準を達成するものであってほしい。

いまや、否応なく半生近くを教育を受ける学生として、あるいは学問を志す研究者の卵として、すごすような時代になっている。そう考えると、誰でもが大学教育も含めて「学ぶこと、応用すること、学問することはわくわくする遊び、あるいは難しいが走りがいのある原野だ」というようなものになる方法があったら、という思いはいまだに消えない。こんな原初的なイメージは所詮、教育システムという枠をはずれた話なのかもしれないが。
                                   (2003/11/04)

                   うごめく虫の触覚と宇宙からの視点

中国の神船5号は無事帰還したが、それを契機として日本の宇宙開発の方向について巷のあちこちで論議されているようで、焦点は日本も有人飛行をやるべきかどうかということのようである。ここで改めてそういった議論をしようとは思わないし、この微小派サイトでしたところでなんの影響力もない。

ただ、ここでは直接どうこうという問題ではなく、少しだけ、宇宙開発ということについて感想風に書きとめておきたい。
その1点は技術の発展というものが自動的な過程ではなく、目的意識とそれへの集中度によって左右されるということだ。身近でいえば日本の宇宙開発の予算規模が“経済大国”としては非常に小さいということであり、これについてはノンフィクション・ライターの松浦晋也氏が「日本宇宙予算は600億円近く削減、長期間アメリカに依存へ」という記事を書いているので、それを読まれたい。Jaxaが生まれた背景も分かるだろう。世の中には技術というものが経済活動やそれに投ずる予算規模とは無関係に発展したり、あるいは逆に衰退すると勘違いしている頭脳決定論的な"純粋技術論者”がいるようである。賛否はどうあれ、航空宇宙のような多額の投資を必要な分野は、民間に任せておけば発展するというような簡単なものではないということ、そのことを十分認識しておく必要がある。

2点目は、そもそも宇宙開発などというものがなんの役に立つか、そんな無駄なことにお金を使うより福祉など生活に密着したものにお金を使うべきである、という広く行き渡った考えについてである。(我が家などは、てっきりこうした考えに賛成なのかと思ったら、女房は断固反対だという。)これは生活者としてはもっともな“知恵”であり、分かりやすい考えである。しかし、こういった観点に立った人達が地球環境を考えねばならないとか地球の砂漠化を食い止めるために云々といった大きなことを問題にするのはなぜだろうか?生活といっても地域や身の回りのことを考えていればすむ時代ではないからだ。私の身近には「人間は地球に這う小さな虫なのである。小さな虫の視点から虫の触覚で考えるのが本来のあり方なのだ」といった人がいる。その人に言わせれば、だいたい宇宙などということを考えること自体が地に這う虫としては不遜なのであり、もっと近距離の触覚で生きればいいのだという。しかし、なぜかその人はやがて人間は地球を破壊してしまうのではないかという超ペシミスティックな思想の持ち主で絶えず「人間のサバイバル」を唱えていた。

これはこれで徹底した考えのようであるが、私はそうした考えを取らない。誰でも生活者である限りは虫の触覚をもって地面をうごめいてはいるだろうが、それで終わるほど人間は単純ではなく、もっととんでもないものだろうと思われる。地をうごめき殺し合いながら同時に空からの視点、宇宙からの視点をも持ちうるし、ひょっとしたら極悪の神にもなりうるが理性の神にもなりうるものかもしれない。科学の発展についてはいうまでもない。
いずれにしても未来には予測できないことが待っているに違いなく、人間の未来あるいは終焉のためには誰でも「地を這う虫の触覚」と同時に「宇宙の視点」を持たざるを得ない時代--遠い未来ではあるが、そういう時代がやってくることも間違いのないことなのである。
                              (2003/10/24)

                      韓国科学技術衛星の怪

韓国の「科学技術院」は初の科学技術衛星1号を9/26、ロシアのCOSMOS-3Mロケットで打ち上げた。106Kgの小型実験衛星。KOSMOS-3の射場は、北緯62度48分、東経40度6分にあるバレンツ海側のプリセツクで、軍事衛星の射場として使われてきた基地である。ロシア、ナイジェリア、トルコ、イギリス、韓国、合計6基の衛星を搭載し、打ち上げ費用は安いらしいが、打ち上げ、および衛星分離は成功した。
しかし、分離後、ノミナル軌道を元にして科学技術衛星1号と通信を試みたが、応答はなかった。その後も応答なし。
                              
ところが、さらにその後、9/30になって「人工衛星研究センター」は11週目で交信に成功した、これから運用に入る、と発表した。原因は不明。
                               (2003/09/30)

                    パラダイム転換は起きたか

カオス、フラクタル、ファジー、ニューラル・ネットワーク、複雑系といった新しい概念が流行しはじめたのは10年ほど前からだろうが、あれはどうなったのだろうか。それなりの結果は出ているとは思うが、どうしても書きたくなるような画期的な成果はないようである。が、流行しはじめた当初の熱気はすごいものであった。
「L2空間なんてものではなくてですね」という話から始まって、ついに「これは、西欧的文化に対する東洋的文化の挑戦なんです」などというマニフェストを掲げる“東洋的”ファジー学者もいた。そうかと思うと、「近代科学の要素還元主義は終焉し、これからは全体包括主義にパラダイム転換するのです」と称する複雑系研究者もいた。それらは真面目に“パラダイム転換”を信じている人々かまたは宣伝家であった。一方では「なに簡単な理由ですよ。これであと10年は食っていける。」といって、メシの種ができたことを喜んでいた本音のメシ学者もいた。

また非ノイマン型コンピュータの明るい未来にニューラル・ネットワークを高々と掲げていた技術者もいた。けれども、その“学習するニューラル・ネットワーク”はきわめて簡単なものであり、ノイマン型でシミュレートできても、逆にノイマン型を包括できないものであることは明らかであった。

サンタフェ研究所ができたときは大変な騒ぎだった。数年前マレー・ゲルマンが『クォークとジャガー たゆみなく進化する複雑系』という本を出したときには、それを読んだが、あのゲルマンにしてと思ったものの、その方面の内容には特に感心しなかった。
カオスについては力学系なのでかなり知っているが、古典系はともかくとして、量子カオスについては明瞭な進展はなかったようである。

当初の熱気だけは知っているが、それらが今はどうなっているのか、一括りにするのもおかしいが、“パラダイム転換”は起きたのか?そう問いかけたくなる。そんな大盛況ぶりだった。
                              (2003/08/10)

                   地域通貨は資本主義を超える!?

自治体、NPO、商店街が発行する地域通貨が増えているそうで、たとえば大和市「LOVES」、秋田「まごころマネー」、富山「夢たまご」とかいう名前で振興しているそうだ。地域振興の手段だと思えば、特にいうことはないが、ただここで触れておきたいのは、地域通貨を世界大に「理論化」する人々の言説である。
たとえば、NAM運動をやっている柄谷行人がそうだ。彼らの言説によると、地域通貨は「自由な個人のアソシエーション」をつくる運動であり、「資本主義を超えるメディア」となりうるもので、それによれば、資本主義を超える運動を労働運動や政党にではなく、「消費者の自律的なアソシエーション」に求めようとする“可能なるコミュニズム”の帰結がこのNAM(地域通貨運動)なのだそうである。ある意味では、これを反グローバリズム、地域主義の具体的な現われとも受け取ることができるが、彼らはそうではないという。

その主張を引いておこう。
剰余価値がなくなれば、資本の運動は停止する。しかし、交換は停止しない。交換の綱目は拡大するが、資本は発生しない。それが労働者−消費者の協同組合的アソシエーションです。この運動を資本は弾圧できない。なにしろ、消費者なのだから。国家はそれに対して課税できない。利潤がないのだから。国家は本来、共同体を上から支配する暴力的な寄生物です。」(柄谷行人「可能なるコミュニズム」)
そして柄谷は「剰余価値を無化する闘争」が協同組合的アソシエーションであり、地域通貨運動だというのである。

利子も利潤も生まない等価交換としての地域通貨。そこに「資本主義を超える」契機がある。−−−こうした主張は、だが、非常におかしなものだ。「利子も利潤も生まない等価交換としての通貨」というのは、一見、「搾取のない」きれいなものに見えるが、通貨としては機能しない擬似通貨、または通貨以前の交換手段でしかない。なぜなら一人前の通貨なら、それを投資すれば利潤や利子を生むが、この「等価交換としての通貨」はそもそも投資ができないもの、または投資を禁止されたものだからである。あるいは資本になることを禁止された消費専用交換券といってもよい。

柄谷たちは自律した消費者の運動という視点から過大評価しているのだろうが、“地域通貨”という名の「物神」哲学の創造にとらわれている。通貨という「物」が「搾取」や「階級」を生むのではないし、それから「剰余価値」を差し引いた地域通貨をいくら“創造”してみても、機能の退行や消費の囲い込み以外なにごとも生まれない。そういう発想とは逆の方向、たとえば将来形としてのエレクトリック・マネー ---それは「物」としては電気信号でしかない---を考えてみれば、すぐ分かることだ。哲学的(?)饒舌が多くなればなるほど、それはなにかトーテム・ポールのように見えてくる。
                                    (2003/08/01)

                       セレブなあなた

ときおりネットワーク資本主義やらサイバー資本主義やらを強調する人たち、ニュー・エコノミーだとかオールド・エコノミーとかいう曖昧な概念をさりげなく使って、サイバー社会やらヴァーチャル経済やらを度外れに強調する人たち―――彼らはなにを言いたいのだろうと思うことがある。

事例を挙げて申し訳ないが、先日もネットを見ていたら、ニュー・エコノミー派(?)の「池田信夫のドット・コミュニズム」を賞賛しているサイトにでくわし、またかと思った。商売にやっているのだろうと思えば別に言及するほどのことはないのだが、まあ冗談半分の事例として書き留めておくことにしよう。

個人的な話から入ると、池田信夫とは7,8年ほど前に、NIFTYフォーラムの中で論争したことがある。彼はどこだか忘れたが大学の教授だかということで、ゲーム理論だとかグラフ理論だとか新しい(?)“理論”を盛んに強調していたが、それはいいとして、問題だったのは、その頃流行したグローバル・スタンダード論の普及者だったことであった。なかでも「リストラでスリム化」論の信奉者であり、日本経済の失敗は無駄な社員を抱える非効率な企業体質にあり、無駄な社員を徹底的にそぎ落とすことが経済の緊急命題だというような主張をしていたのであった。

その内容は、当時、日経などがジャーナリスティックに書いていたことを多少高級にしていっていたにすぎないが、その軽薄なアメリカン・グローバル・スタンダード論に、さすがの私もキレてしまった。自ら経済学者と称するなら、そういう軽薄な風潮を正さなければならないのに、流行していたサプライサイド派の愚にもつかない主張を新しそうにみせただけのものだったからである。そうは言っても頭が悪いということではなく、俗に言えば頭はいいのであった。
詳細は省略するが、その非常に強い自尊心がこもった論理にもかかわらず、結局、彼は捨て科白を言ってフォーラムから消えてしまった、というのがその結末だった。

 まあ、そんな個人的な論争など、どうでもいいことだ。
が、この種のセンスのジャーナリズム“経済学者”は多い。セレブな○○、ウィナーであるあなた、だとかいう新語を生み出す流行屋商売人となにが違うのか、と思うのである。違うといえば、彼の場合は、自分で語っていたのだが、かつて「大学マルクス経済学の亡霊」の只中でそれを学び、その硬直性に深く失望したらしいという体験だけだろう。その反動もあって、読者に「あなたがたの頭は古いのだ」ということを常に言いたいらしく、技術論を社会論に直結させる傾向がある。そういう人は多いようだが、それだけなら、「IT技術を知らないサラリーマンはリストラの対象だ」みたいなことを言って、なにかを言った気になっているマスコミと変わりないだろう。

情報技術によって古い資本主義は死滅し、新たな経済構造に移行したのか?そう思うのなら、ちゃんとした言説を展開すればよろしい。またセレブとホームレスが同居する”豊かな”貧困社会が好ましいスタンダードだと主張したいのなら、ちゃんと根拠を書かなくてはならないだろう。中途半端な技術論で世の中が新しくなることはないのだから。

                                   (2003/07/20)
 
                  北九州市で出土した口分田の木簡

場違いな気もするが、地味な歴史遺物出土のニュースを取り上げておこう。
読売の記事によると、北九州市で口分田の紛争を調停したときの木簡が出土したそうである。それによると、奈良時代後半から平安時代初めごろ(8世紀後半〜9世紀初頭)に書かれたものとみられる「口分田」の文字が記されている。奈良市の平城京・長屋王邸宅跡近くで見つかった口分田の木簡に続いて2例目だという。

「木簡の表に「戸主秦部□口分田□」「□□田二段」、裏には「月廿九日郡圖生(ずしょう)刑部(おさかべの)忍國(おしくに)」「□□生調勝男(つきのかつお)」と読みとれる文字跡が浮き出ている。当時、朝廷の指示で、一帯を管轄していた企救(きく)郡の下級官吏2人(刑部忍國、調勝男)が、口分田を巡る争いを調停。世帯主の秦部という人物の占有を認めた内容とみている。平城京跡から出土した木簡は、大和の国の郡司が提出した口分田に関する申請書だった。市教委は『当時は、班田収授の法による支配が崩れかけていた時代だが、奈良の都から遠く離れた九州の地で、地元の郡による支配が機能していたことが分かる』という」

口分田はいうまでもなく、班田収授法の下に実施された土地制度で、唐の均田制にならい、戸籍をもとに6年ごとに班田し、6歳以上の男女に与えたもので、男子には2段、女子には1段120歩を与え、死後は国家に返還させたといわれる。しかし、唐の均田制とは根本的に違った側面があったともいう。というのは、唐では調庸を負担する自由民の成年男子に対して、その反対給付として口分田を支給するのが大原則であったが、日本の班田収授法では,調庸などの成人男子の人頭税とは無関係に、老幼男女を問わず、また賤民をも含めて口分田を班給したというのである。

班田収授法の成立年代についての論争があり、大化年代とも飛鳥浄御原令で制定ともいわれる。

もうひとつ論争というか、見解の違いがあったのは、大和政権の勢力範囲に関してであり、近年はその成立年代を遅く、勢力範囲を狭く見る見解がかなり見られた。これには天皇制に関する政治意識が絡んでいたようであるが、それによると、班田収授法や口分田はせいぜい畿内で実施されたにすぎず、地方にはそうした権力は及ばなかったというのであった。東北以北は確かにそうなのだが、こうした見解はあまりにも政治にとらわれており、今回の発見で覆されたといえる。

それともうひとつ、口分田は戸に直接支給されたのだろうか、あるいは郡とか郷とかに任されていたのだろうか、という問題がある。教科書ではあたかも戸や個人を直接管理していたかのように書かれているが、大和政権が直接全国の戸籍をつくるはずはないとすれば、それは今の地方自治体と同じように、郡とか郷の権力代理人がつくり、中央政権は、口分田もそういう大まかな単位で「管理」していたのではないか、という問題である。中央が戸に収授、口分田を管理していたのなら、「企救郡の下級官吏2人」が紛争を調停するわけはないのである。



                              (2003/02/07)

                     中朝の“脱北者狩り”問題

RENKは“脱北者”の扱いに対する中朝秘密警察の議定書を入手し、近くHPに公開するという。北朝鮮の刑法47条では、人民が許可なく国境を越えることは死刑相当の重罪ということになっているから、この「犯罪人引き渡し条約」は事実上、"脱北者処刑条約”となってしまっている。中国はそれを肯定しているわけである。

現在、北朝鮮当局は国内で脱北者の摘発に血道をあげている。中国当局は国内で「難民狩り」と「NGO狩り」に熱をあげている。おかげで、中朝国境はいま、「地雷なき38度線」と化している。このような中朝共同作戦での北朝鮮難民狩りの法的根拠になっているのが同議定書である。同議定書が締結されたのは1986年である。その4年前には、中国政府は「難民条約」を批准している。同議定書の暴露を機会に、中国政府が血塗られた同議定書を破棄し、暴君・金正日と手を切って、難民条約に基づいて北朝鮮難民を保護するよう訴える。(RENK声明)

また、今回の脱北に協力したNGO北朝鮮難民救援基金は、「関与」の範囲について述べ、「週刊新潮」と「ニュースステーション」の報道のあり方に対して批判している。

いずれにしてもこうした“脱北者”問題は、政府間レベルでは、手も足も出ない問題である。日本政府や外務省が中国政府を批判するなどということは金輪際ありえないことだし、そもそも政治亡命すら認めたくないのだから、問題が沈静化するまで沈黙するしかない。「日本国籍の人は人道的見地から・・」とかいうくらいが精々だろうし、中国もそれくらいは認めるかもしれない。
                                                  (2003/01/22)

                 誰もが貧しくなる道を説く退嬰的伝道師

世の中には視野の狭い驚くべき人もいるもので、「消費税率を04年から毎年1%ずつ上げ、16%まで上げる」という「構想」なるものをぶち上げた経団連会長・奥田碩という人もそれである。本人は大真面目に財政再建から景気回復などと考えているのかもしれないが、ここまで来ると筋金入りの財政主義者で、財務省向きのリゴリストだが、まあ言わせておけばいいと思っていた。
そうしたら、今日の新聞朝刊を読んで、これとは違う意味で、またまたうんざりしてしまった。共通しているのは、誰もが貧しくなる道を説いていることである。それで、まあいいやで済ませないで、いちいち記録しておくことにしよう。

デフレと向き合おう---さらば成長至上主義」記事は朝日新聞編集委員・村田泰夫という人であった。

「『デフレ退治に政策手段を総動員せよ』の大合唱である。財政支出で需要不足をまかなえというならまだしも、インフレ目標を掲げて紙幣を刷りまくれという勇ましい主張すら見かける。底流には成長至上主義がある。だが・・・・・これまでのような成長は見込めない。デフレと向き合い、成長しなくても豊かさを実感できる社会へと、経済の仕組みを大本から変える正真正銘の構造改革が必要なのではないか」
「国民は、GDPの数字を追い求める成長至上政策にむなしさを抱き始めている」
そう言って「成長至上主義」から決別し、デフレと向き合う社会」にしようというのである。

「成長を前提にしなくても、豊かさを分かち合える社会はつくれる。競争をあおる経済学ではなく、協力と分配を重視する優しい経済学によって、安心と連帯のきずなも手にできる」
「協力と分配を重視する優しい経済学」とはいったいなんだろうか。ワークシェアリングのようなイメージだろうか。
「ゼロ成長や低い成長率でも、停滞した社会や耐乏生活を意味しない。風力発電や太陽電池の普及は、石油消費量の減少を招き、GDPを押し下げるかもしれない。だが、国民生活の利便性や快適性は損なわない」
これも意味不明の曖昧な文章だが、エコロジー中心の社会になればGDPが下がってもかえって豊かになる、ということらしい。
そういう風にゼロ成長でも、デフレでも価値観を転換すれば、豊かな社会がつくれるのだから、「小泉首相は、成長に代わる価値観を国民に示すべきではないか」そう結んで終わる。

朝日新聞はかつて高度成長の時代に「くたばれ! GNP」という特集を組んだ。80年代には「消え去れ!偏差値」といい続け、奇妙な「ゆとりの教育」の始まりを準備した。(この点は他の新聞も同じだったが)。とにかく、GDPとか偏差値とかいった数字に対するアレルギーがあり、「成長主義」は数字を追いかけているだけだというのである。むなしい(?!)数字など追いかけないで、清貧的価値観、あるいは環境主義的価値観に転換を図れば、そこに豊かな花園があるということらしいのだ。

これが天下の“クオリティペーパー”の編集委員の書くことだろうか、とため息が出てくる。私には、まるで中学生の作文にしか見えないし、優秀な中学生より劣るかもしれないと思えるくらいだ。

豊かさを求める人々は当然ながら多いが、GDP至上主義などというものはない。なによりもバカらしいのは、ゼロ成長でも、マイナス成長でも、なにか価値観の転換をはかれば、豊かな社会が実現できる道があるかのようなバラ色の幻想をばら撒いていることである。エコロジー中心の価値観に転換しようが、どういう価値観に転換しようが、ゼロはゼロ、マイナスはマイナスであって、そんな愚かな現状を肯定してしまえば、所得低下、失業増大、犯罪多発、年金削減等々の暗い結果は避けられない。それを放置し、価値観で逃げようとするのは、坊主的な「清貧の思想」でなければ、詐欺的な一種の反動宗教でしかない。

個人的な価値観ならば、どうぞご自由にで済ませられるが、現状肯定と退嬰的価値観の普及宣伝ではどうしようもない。「さらば、作文家」と、こちらから言いたいくらいだ。誰もが貧しくなる道を説く伝道師たちよ、と。
                                               (2003/1/16 )

            
 超常野郎のフライト

「木村剛の講演会に行ってきた。テレビでは大人しいが講演会ではウォー、ウォーと吼えるみたいだったぞ。すごかった」
年末に、ある知人が興奮気味にそう言った。「ふ〜ん、で、どんなこと言っていたんだ」と訊くと、「不良銀行の退場というようなこと」
ふん、またかと思ったが、それ以上は言わなかった。言うと、ものすごい反感が返ってきて面倒なことになりそうだったからである。この知人の目はギラギラとして、木村剛の熱烈なファンになっていたことは表情からあきらかだった。

2002年の異常事件の一つは、この“金融プロ”の突然の“急フライト”だろうが、これがなぜ急にマスコミにフライトし始めたのか私にはさっぱり分からない。突然、ニュース23、ニュースステーションなどから脚光を浴び、小泉政権からお呼びがかかり、お陰で商売のコンサル業は大繁盛、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いだそうである。

木村剛の『キャピタル・フライト』は立ち読みしただけで分かる本である。日本のアルゼンチン化とかいうトンデモない本なのだが、時の勢いで、この種の国家破綻論が大うけなのだ。対外債務の増大と固定相場制という状況の下に破綻したアルゼンチンと一緒くたにするような議論は、まともな人からは相手にされないのだが、この知人のように一般からはヤンヤの喝采なのである。

一種の超常現象だろう。その背景には、銀行、金融機関に対する一般の根強い反感があって、それが木村剛に拍手を送らせるという事情がある。それに異論を述べると、「お前は銀行員か」などというとんでもない反感が噴出してくる昨今の状況で、銀行に問題がないわけではないが、不況の張本人扱いというか標的にされている。「資本家・大財閥に天誅を!」と叫んだ昭和初期の右翼的雰囲気ともどこか通じるところがあって、共通しているのは、いずれもたいした根拠はなくて、周りの大きな雰囲気に取り込まれているということ。違っているのは、昭和初期の資本家・大財閥が一族で「ユダヤのように」儲けて日本を独占していると思われていたのに対し、今日の銀行が儲けなさすぎて日本経済の「巨大なブラックホール」になったと思われていることだ。

退場!ゾンビ企業は退場せよ!とか、なんでも退場コール一色の2002年だったが、私にはミクロを標的にする実にバカばかしい1年で、興ざめだった。それを見て政府がほくそえんでいるのではないかと思えたほどだ。2003年は、どんな興ざめの超常現象が起きるだろうか。
                       (2003/01/02)

          
アポロなんかなかったという世代

<根強い「月着陸はうそ」の説 NASAも対応に苦慮>(CNN Online)
「人類は月に着陸していなかった」「アポロからの中継は、実は米西部のスタジオで撮影されたでっち上げ」――30年前から一部でささやかれてきた説が、昨年以来米国内で新たな広がりを見せている。これまで通り取り合わないのがいいのか、正面から反論すべきかと、米航空宇宙局(NASA)も対応を決めかねているようだ。
「でっち上げ説」の大筋は、旧ソ連との宇宙開発競争で苦戦し、あせった米政府が、勝ったと見せかけるために偽物の月着陸シーンを流し続けていた――というもの。昨年2月、米FOXテレビがゴールデンタイムの特別番組で取り上げたのをきっかけに、あらためて勢いがついた。インターネット上で議論が巻き起こり、生徒に質問された教師がNASAに問い合わせるケースも急増した。

膨大な予算を使って西部のスタジオで撮影したんでしょうかね(^^。ひそひそインターネット情報がまことしやかにアポロを知らない世代を中心に広まっているらしく、一場の笑話で終わらないところが、なんとも・・・。

と、思ったら、日本でも例のコンノ・ケンイチ氏がまたまたやってくれました。『NASAアポロ計画の巨大真相』というすごい(?)本なんで、ぱらぱらめくって見たら、さすがでした。
「アポロ計画には隠された本当のミッションがあった。それは月面ET基地の有人偵察という軍事目的だったのである!」
さすが、すばらしい真相です(?!)が、ブームに悪乗りしているだけなのかな、この人。

ネットで人気者らしい「反米政治評論家」の副島隆彦も「評論家・言論人としての生命を賭けて」笑劇陣営に加わり、『人類の月面着陸は無かったろう論』という本を出版しましたねぇ。こちらは評論家生命がかかっていると豪語しました。覚えときましょ(笑)。
   

       
竹中経財相「デフレ厳しい、克服は2005年度に延期」(日経)

日経(12/6)によると、竹中経済財政・金融担当相は次のような発言をした。

竹中経済財政・金融担当相は5日の経済財政諮問会議後の記者会見で、2003年度中としていたデフレ克服の時期に関して「予想よりデフレ進行が厳しい。2004年度までの集中調整期間を終えた以降」と述べた。年内にまとめる中期経済財政展望で、デフレ克服の目標を2005年度に延期する考えを示唆した形だ。
財務省の武藤敏郎次官も同日の記者会見で「今年度の経済見通し策定時は2003年度をデフレ脱却の年だとしていたが、最近はそういかないのではないかとみている」と語り、デフレが長期化するとの認識を示した。税収に関しては「2003年度税収も試算値よりかなり下振れする可能性が大きい」と指摘。来年度予算編成でも景気低迷による税収不振の影響が避けられないとの見方を明らかにした。

2003年を目標としていたが「予想よりも厳しい」のでまた延期したという趣旨であるが、どうしようもない感じである。予想が甘かったなどという問題ではなく、小泉・竹中・塩川の三羽烏は、国債30兆円枠等々のデフレ政策をとっていたのだからデフレ克服などできるはずはない。いわば先見的に明らかなことである。不況を深め、得意の"プライマリーバランス”を悪化させた結果、最近では、増税論議にしわ寄せしようという動きになっているのだから、あきれ果てる。その結果がどうなるかも、はじめから明らかというもの。
また、11/10付けの日経記事には、こうある。

小泉純一郎首相が5日の経済財政諮問会議で、全国民共通の基礎年金向けの国庫負担割合を引き上げる財源を確保するために、消費税率の引き上げ論議も必要との認識を示していたことが10日公表の議事要旨で明らかになった。年金制度は2004年に抜本改革の予定で、年明け以降、年金の財源を巡る増税議論が活発になる可能性がある。

今の政府はどうしてこうもおかしな人の集まりなのか、一種の改革宗教家(カトリック(自民)の腐敗にたいするプロテスタントという“改革宗教家”)の集まりなのか。私には、この内閣がプロテスタントだとしても、なぜ支持されるのか不可解である。迷走政策と言われているが、国民生活に直接影響する迷走で日本経済が疲弊していく姿をみるのは、つらいことだ。
                        (2002/12/11)

                 中国共産党第16回党大会の報道から

今回、中国(共産党)は「改革開放」に代わって「いくらかゆとりのある社会(小康社会)」という標語を前面に掲げた。経済重視である。相変わらず「中国の特色ある社会主義」という大前提には変わりがないが、共産党一党支配とほぼ同義語であるこの言葉の中身と目標を変えている。ハイテクや情報産業を重視した発展を掲げていること、「西部大開発」が掲げられていること、国営企業の「多種多様な所有制」への移行が唱えられていること、などである。また、党規約から、「共産党宣言」の記述を削除した。
「人民日報」を要約したものを記しておく。

(一)工業化を実現することは、依然としてわが国の現代化の過程における困難に満ちた歴史的任務である。情報化はわが国が工業化と現代化の実現を加速するうえでの必然的な選択である。ハイテク産業を導きとし、サービス業が全面的に発展する産業の枠組みを形成することである。情報産業を優先的に発展させ、経済および社会の分野で情報技術を幅広く応用しなければならない。
知的財産権保護の制度をさらに充実させなければならない。

(二)農村経済を全面的に繁栄させ、小都市化の進展を加速すること。都市農村における経済・社会の発展を統一的に企画し、現代農業を建設し、農村経済を発展させ、農民の収入を増やすことは、いくらかゆとりのある社会を全面的に築き上げる上での重要な課題である。

(三)西部大開発を積極的に推し進め、地域経済のバランスのとれた発展を促すこと。西部大開発戦略の実施は、全国の発展という大局にかかわることであり、民族の団結と辺疆地域の安定にかかわることである。

(四)生産力を解放し、発展させるという要請にもとづいて、公有制を主体とし、多種多様な所有制の経済がともに発展をとげるという基本的経済制度を堅持し、それをさらに充実させる。
投資主体の多元化を実行するが、重要な企業に対しては国が株を支配する。現代企業制度の要求に基づいて、国有大・中型企業に対し引き続き規範化した公司制への改革をおこない、コーポレート・ガバナンス構造を完全なものにする。

(五)現代市場体系を健全にし、マクロ規制を強化し、完全なものにすること。資源の配置における市場の基礎的な役割をよりいっそう大きな度合いにおいて発揮させ、統一的で開放した、競争のある、秩序だった現代市場体系を健全にする。資本市場の改革開放と安定的な発展を推し進める。
 金利の市場化を目指す改革を穏当に推進し、金融の資源配分を最適化し、金融の監督・管理を強化し、金融リスクを防ぎ止め、解消し、金融がよりよく経済と社会の発展に奉仕するようにする。

(六)分配制度の改革を深化させ、社会保障体系を健全にすること。

(七)「国外からの導入」と「海外進出」を結びつけることを堅持し、全面的に対外開放のレベルアップをはかること。経済のグローバル化WTO加盟後の新しい状況に即応し、より大きな範囲、より広い分野とより高い段階において国際経済・技術協力と競争に参与し、国内外の二つの市場を十分に利用し、資源の配分を最適化させ、発展のスペースを広げ、開放を通じて改革と発展を促す。

(八)あらゆる方策を講じて就業の機会をさらに創出し、絶えず人民の生活を改善すること。

なお、 新常務委員9人は全員が理科系出身、最大勢力は「名門」清華大学出身者で、胡錦涛以下、呉邦国、黄菊、呉官正氏の4人だという。

                                          (2002/11/19)

                       「週刊金曜日」にあきれる

「週刊金曜日」などというマイナーな週刊誌は、読んだことがない人の方が圧倒的に多いと思うが、そのニュースを聞いて、ちょっと唖然とした。
曽我ひとみさんの家族--夫の元米軍兵士チャールズ・ロバート・ジェンキンス氏、長女美花さん、二女ブリンダさんの3人に対する「週刊金曜日」のインタビュー記事と、それを曽我さんに突きつけた「週金」編集者の行動だった。その雑誌を見せ付けられた曽我さんは激しく泣いたという。
内容は、一言で言えば、北朝鮮に対する日本の「約束違反」を非難し、早く曽我さんに北朝鮮に帰ってくるようにことを呼びかけたものだった。印象で言えば、筋書き通りで、新しい情報はなにもない。「家族の声」というよりも、北朝鮮政府の意向に沿った政治的呼びかけにしか聞こえなかった。

「週金」は本多勝一・筑紫哲也・佐高信・椎名誠・落合恵子が編集委員をしている週刊誌だが、この際、書いておくと、私はこの「週金」があまり好きでない。というのは、ここは、『買ってはいけない』というような杜撰で非科学的な「警告本」を出して商売したり、科学に無知な本多勝一のような人が「東洋医学」(注1)のすばらしさを異常に褒め称えたりするので、わたしにはなにかトンデモ人たちの集まりとさえ思えたからである。ときどき立ち読みするだけで、疑似科学のよき材料になるような気がしたものだ。

が、今はそれは別として、本題に戻ろう。「週金」の元朝日新聞社論説委員 黒川 宣之 は言った。「われわれは情報を提供しているのだ」と。また、その編集者の一人である筑紫哲也の今日の“多事争論”を注意して聞いていた。すると、「週金」問題に触れ、湾岸戦争時のCNN報道記者の例を挙げて、「週金」の「報道の自由」を擁護していた。「カメラを回し続けるのが職業報道人の役目だ」と。

で、あらら、と思ったのである。この筑紫哲也の湾岸戦争職業報道人論は、まったく本質が違うものを混同していた。CNN記者と決定的に違うのは、これが湾岸戦争のような国家と国家との衝突を取材したものではないということである。この拉致事件は北朝鮮が個人や家族に対して働いた犯罪であり、「週金」の家族に対するインタビュー結果も、北朝鮮国家犯罪の未解決問題を、国家犯罪としてではなく、曽我さん個人にしわ寄せする問題として扱っている。北朝鮮という国家に対しては毛ほどの取材も切り込みもされていないのである。その結果が、何の責任もない曽我さん個人を苦しめ泣かせる、という事態になった。

外れた歯車は、とんでもない無自覚に似ている。報道の自由の擁護?そういう大それたことをいうなら、雨と降る弾丸をかいくぐって身の危険も顧みず、「週金」がなにか決死の取材したことがあるだろうか?なにもないだろう。「坂本弁護士事件はオウムではない」とか「電磁波が人体を云々」(注2)というようなトンデモ記事ばかりで目立つ週刊誌なのだ。今度のインタビューにおいても、北朝鮮政府に許可された安全地帯からなされており、しかも北朝鮮のメッセージをそのまま発信したにすぎない。拉致事件の背景について、その真相について、「カメラを回した」か?否である。北朝鮮潜入取材でもしたのか?否である。

彼らはなんについて「カメラを回した」のか?3人以外は、なんにも。
なにか新しい情報が提供されたか?予定稿のメッセージ以外は、なんにも。
言ってみれば、「カメラを回してくれ」と頼まれて回しただけにすぎない。しかも、問題の本質を家族問題にすりかえて・・・・・・。そうして被害者をまた深刻な被害者にしてしまった。仮に私がジャーナリストだったら、そっとしておくか、偶然家族と平壌であったとしても、「ご家族と会いましたが皆お元気でした」と個人的に伝えるだけしかしないだろう。北朝鮮という国家問題に対しては書くだろうが・・・。
それを報道の自由一般の問題に“格上げ”して恥じないところが出鱈目なのだ。それなら批判する言論の自由があり、圧倒的に批判派が多いという事実を突きつけられたら、どうするのか。彼らはどんな報道もすべて情報提供だから正義で、あとは読む側のメディアリテラシーの問題と思っているかもしれない(そういう振りをしている)が、現代のトンデモ小集団だなぁ、という印象は、強まるばかり。(注3)

(注1)本多勝一『はるかなる東洋医学へ』
(注2)「送電線や家庭電化製品から出ている500ミリガウス以下の 50Hz/60Hzの変動磁場が健康に影響を及ぼす」
   「携帯電話などから出る1.5GHz, 1Wのマイクロ波の電波が健康に影響を及ぼす」 など
(注3)週刊金曜日は、朝鮮戦争はアメリカ軍の侵略によるものという立場に立って、今回その“横暴”を取材に行ったらしい。

                                      (2002/11/15)

*週刊金曜日の増刷分が書店にむやみに並んでいる。「報道の自由」の名によって商売する、その姿勢がはっきり形になった。
  -------------------------------------------------------------------------------------------------------
(資料1)拉致問題に対する、いわゆる「左派」や「市民左翼」の対応はおおむね駄目だけれど、駄目例として日本共産党について、牧太郎の「ここだけの話」から引用しておこう。

生きている「理由」

兵本達吉さん。64歳。日本共産党所属参院議員の元秘書。親しい友人の一人である。ロッキード事件の最中、現職の判事補が当時の三木首相に「検事総長」の名前をかたってニセ電話をかけた。判事補は三木首相から「田中角栄を逮捕せよ!」という言質を取り「三木は指揮権を発動した」とニセ情報を流すつもりだった。世論を錯乱させる典型的な情報犯罪である。

この事件を取材するうちに、僕は調査能力抜群の兵本さんと出会った。「共産主義こそ正義」と信ずる彼は党の爆弾質問の「材料」を手に入れるために走り回っていた。

その彼が98年、党から除名された。原因は「拉致事件」だった。
以前から拉致事件を調査していた彼は、北朝鮮から亡命した工作員が「新潟で行方不明になっている少女が北朝鮮にいる」と話しているのをキャッチした。めぐみさんのご両親を探し出し「娘さんは生きています」を伝えたのは、兵本さんである。

彼は真相解明にのめり込んだ。外務省、警察、韓国大使館に独自な人脈を築いて「真相」に肉薄する。
98年、彼は党の最高幹部から「調査はホドホドにしろ」と言われた。党は北朝鮮と微妙な関係にあった。彼は命令を無視した。党より真相が大事だった。
警察のスパイだ、と査問され、彼は党を除名された。             (以下略)
                                                   (毎日新聞9/24夕刊)
   ------------------------------------------------------------------------------------------------------
(資料2)
日本に脱出してきた北朝鮮元工作員青山健煕氏に対する読売の取材記事より
 
 
――どのように北朝鮮を脱出したか。
「工作員当時の94年から準備していた。私だけでなく、9万3000人の大半が逃げだそうとしていた」
 
――北朝鮮帰還事業で帰った人たちのことか。
「そうだ。だれもあんな地獄にいたくない。帰還者は、ごく少数の特権階級扱いの『特胞』、日本の在日朝鮮人からの仕送りが十分にある『在胞』、時折仕送りがある『帰胞』、日本からの仕送りがない『貧胞』の4つに分かれる。3割を占める『貧胞』の人たちはみな1995年前後に飢え死にしている。特権階級を除く残りの6割も長生きはしていない」
 ――約1800人の日本人妻たちは?
「4分の1ぐらい生きていればいい方だ。親の反対を押し切って在日朝鮮人と結婚し、仕送りが受けられない人が多かったからだ。栄養失調の衰弱死、そして病死。薬も売っていない。寒いと道ばたで凍死する。泥棒が横行してこんなことわざが生まれた。『自分以外は泥棒と思え。いや違う。自分も泥棒と思え』」
 
――脱出ルートは?
「密輸者に金を渡し、北朝鮮と中国を隔てる豆満江の浅瀬を渡った。その後、日本大使館に電話を入れ、書記官のA氏に『北朝鮮のミサイル基地の資料を持っている』と話した。極秘の基地や核開発などの資料を渡した」
 
――何度会ったか。
「5回。『生活費です』と言われ、毎回のように中国のお金で1万元から1万5000元(当時のレートで約16万円から約24万円)を受け取った」
 
――“工作”の成果は。
「中国当局に日本のハイテク技術を持ち込み、外貨稼ぎをして北朝鮮に送金した。ハイテク部品はもちろん、設計図や製作・仕様説明書などを持ち出すと法律に引っかかる。だから、長年そうしたところで働き、退職した日本人を観光名目で中国に集めた。そして音波探知機や自動照準器などの生産技術の移転を目指し、中国に資金を出させた」
 
――入国の方法は?
「偽造パスポートを日本大使館のA氏に見せ、北京から全日空機に乗るように指示された。成田には外務省職員が待っていた」
 
――脱北者の中には日本人妻もいる。
「最近も会ったが、日本語を40年近く使っていないような人が多い。しかも、日本語の再教育や職業斡旋、生活補助金もない。みんなわずかな収入の中から、北朝鮮に残してきた家族に仕送りしなくてはいけない。私も向こうに親族が40人以上。身元がばれればみんな殺されてしまう。だから声が出せない。政府はそうした人々を捨て去っている。あまりに冷たい」
                                         (読売新聞2002/11/21)

                                              
帰国事業なるものは、1959年〜1989年まで総計約93000人、その内、日本人妻は1830人が“帰国”した。第1船は1959年、新潟港から、北朝鮮清津に向かって出航した。60年代前半がピークで、その後は帰国者が激減した。帰国者はその後、ほとんど音信不通になり、死亡したと見られる。
  ------------------------------------------------------------------------------------------------------
(資料3)11月6日 ニュースステーション

(蓮池)「私あの、久米さんのご意見というのは、あのー、視聴者の方に、大きな影響を与えると思いますんで、ぜひ久米さんの口から、あのー、日本人を返せ、家族を返せ、8人の真相解明をせよと、声高々に言っていただきたいと、いうふうにお願いしたいと思っていますんで、よろしくお願いします。」

(久米)「あのー、あちこちの番組でそのそうおっしゃっているようで、えーと、やっぱり世論の後押しがないと・・・ウン。」

(蓮池)「はい。ですから日本・・・日本国民が拉致されたわけですから、日本のメディアがこれを訴えずして誰が訴えるんだという、私はそういう気持ちがありますので、それを書いたからといって、なんら偏向報道でもなんでもないわけですから、それはやはりメディアの方も、よく考えていただいて、てき(ぜひ?)日本人を返せと、原状復帰せよと、いうことを声高々に訴えていただいというふうに私は、思っております。」

(渡辺)「まだもどかしいぐらいに足りないという部分がありますか?」

(蓮池)「はいあの、あまりに客観的な報道をされてるところが多いと思いますので、やはりぜひ、これは本当に、偏向報道でもな・・くどいようですけど、偏向報道でもなんでもないと思うんですね。自国民を、自国民が守るのは当たり前の話ですから、やはり日本の国のメディアってことであれば、わが国民を帰せって言うことは当然だと思うんですね。ですからそういうことを、ぜひメディアの方も、あの、配慮いただいて、ぜひあの、主張していただきたいなというふうに考えております。」

(久米)「ま、あとでやりますけどあの、アメリカの選挙で、中間選挙で、ま、共和党がかなりの勝利を収めたわけですけどね、まあこういうご時世なんで、もしこれがアメリカでこういうことが起きて北朝鮮がアメリカ国民を拉致した場合、アメリカ軍は北朝鮮に上陸することはまず間違いないと思うんですよね。そこまでなぜ日本はやらないのかって言うふうにお考えなんだと思います。わかりました。ありがとうございました。」

??アメリカ軍の上陸??最後の発言は意味不明。
  ------------------------------------------------------------------------------------------------------
(資料4)北朝鮮当局の卑劣な謀略を糾弾する(救う会、被害者家族連絡会)

本日発売の「週刊金曜日」は曽我ひとみさんの家族のインタビューを掲載し、ひとみさんに北朝鮮に戻ることを求めるメッセージを伝えさせている。さらに同誌編集部員が昨日朝、警備の隙をついてひとみさんの家に入り、その内容を知らせている。ひとみさんはこれにショックを受け、この日の予定をキャンセルしてしまった。今回「週刊金曜日」のインタビュー及び曽我ひとみさんへの接触はまさに暴挙と言わざるをえない。

言うまでもなくジェンキンス氏らのインタビューは、北朝鮮の意図を代弁させるものである。ジェンキンス氏は「私は三七年間自由でした」と言っているが、曽我ひとみさんが自らの存在すら家族に知らせることができなかった北朝鮮で自由などということはあり得ない。しかもジェンキンス氏は文章を予め書いて持ってきており、自由な意志を表現しているとは到底思えない。

「週刊金曜日」はまさに北朝鮮当局の走狗となったと言っても過言ではないのだが、それでもジェンキンス氏はインタビューの中で、北朝鮮に行った理由について「言いたくありません」と言っている。これは本人が、自分の意志で北朝鮮に行ったのではないという、精一杯の主張であるともとれる。その意味で私たちはジェンキンス氏や二人のお子さんを絶対に救出しなければならないとあらためて確信した。

今回の「週刊金曜日」のインタビュー及び曽我さんへの接触は当然厳しく糾弾されるべきことだが、これはキム・ヘギョンさんのインタビューと同様北朝鮮の情報戦・謀略戦の一環であり、被害者の家族を自らの代弁者とするという卑劣さには強い憤りを禁じざるをえない。

訪朝時における小泉総理の姿勢が金正日に拉致を認めさせ、謝罪させた。そしてそれがひと月後には5人を帰国させることへとつながった。北朝鮮を動かすには断固とした姿勢が必要不可欠である。北朝鮮がこのような卑劣な謀略を行うのであれば日本政府は厳格なる対抗措置、すなわち北朝鮮船舶の入港禁止や朝銀への公的資金導入停止、日本国内における北朝鮮の各種非合法活動の徹底的な摘発などを行うべきである。

私たちは拉致被害者の家族を人質にとり、未だ多数の被害者を隠し、さらに韓国人など多数の拉致を行い、在日朝鮮人帰国者及びその日本人家族の人権を蹂躙し、また2000万自国民をも世界最悪の人権状況のなかにおいている北朝鮮金正日体制を絶対に許さない。この卑劣な謀略に勝利するため、国民各位のご協力を切にお願いする次第である。

平成14年11月15日
北朝鮮による拉致被害者家族連絡会
代表 横田 滋
北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
 会長 佐藤勝巳
  ------------------------------------------------------------------------------------------------------
(資料5)週刊金曜日2002年11月22日号「編集長・幹治の部屋」

「11月15日号の編集を終えた12日から、22日号の編集を終えた18日までの1週間は、私たち『週刊金曜日』にかかわるものにとって、長く記憶に残る1週間になることでしょう。15日号に掲載した「曽我ひとみさんの家族とのインタビュー」が、私たちの予想をはるかに超える反響を巻き起こし、その対応に追われたのです。          (中略)
1週間の体験を通じて痛感したのは、この国から自由な言論を許す雰囲気がなくなりつつあることです。流される報道はもっぱら政府の方針にそったものが大部分で、それに反する報道をすると、激しいバッシングが起こるのです。これでは、戦前の全体主義の時代に逆戻りしかねません。そうした時代に戻さないためにも、反省すべきところは反省しつつ、きちんと筋の通った対応をしていく覚悟です。」(週刊金曜日2002年11月22日号「編集長・幹治の部屋」)http://www.kinyobi.co.jp/KTools/hensyu_pt?v=vol437

週刊金曜日編集部は、大部分の人が「国策に反した」から怒っているのではないということを、まったく理解していないようだ。「全体主義」勢力が自分たちを攻撃しているとかたくなに信じているところが、何ともはや。
   
-------------------------------------------------------------------------------------------
(資料6) 11月29日有田芳生『酔醒漫録』

北朝鮮に入っている共同通信とTBSに対し、当局は蓮池さんの子どもたちへの インタビューを提案してきた。それを断られた北朝鮮側は、こんどはNHKに打診。
NHKは北朝鮮に取材に行くことも断ったという。
   -------------------------------------------------------------------------------------------
(資料7)朝日、毎日 2003/3/9
北朝鮮による拉致被害者の蓮池薫さん(45)=新潟県柏崎市=が昨年、帰国前に両親にあてたビデオレターで「北朝鮮に来て下さい」と言ったのは、北朝鮮側からそう言うように指導されていたためだと分かった。「救う会」の西岡力副会長が9日、柏崎市での講演などで明らかにした。

                     “総転職”の時代

              「日本には転向という話はない、ただ転職があるだけである。」

この名言を吐いた人物の名は思い出せないが、確かに思い当たるところがあって、現在は「新自由主義」だかなんだか知らないが、第3の“転向”時代であるらしく、「グローバルスタンダード」だのと叫んでいたかと思うと、「もはや国有化やむなし」だとか、もうひどいブレが言論界を支配している。政治思想の世界でも同様で、昨日まで「日朝国交樹立を歓迎」していたかと思うと、今日は「北朝鮮の罠にはまるな」とか言い出して、“言論界”は見ていられない惨状である。

一般庶民の生活上の転職ならば、好きなだけ転職すればいいが、“言論界”の転向、転職となると、まるで軽薄そのもので、時代の先取りという"コンセプト”のもと、時流に合わせて前言を覆しているのだから、流行と視聴率を追いかける”糞バエ記者”となんら変わりない。

第1の転向時代と呼べるのは、暗い昭和初期のなだれのような転向時代であった。佐野・鍋山の“転向”に象徴されるような日共やその周辺“左翼”の転向は、実は幹部の部分的な話ではなく、いわば集団的総転向というか、雪崩現象のようなものであった。本人にとっては軽薄などというようなことではなかったかもしれないが、弾圧に屈したというよりも"総転職”という方が当たっている面があった。生半な正統的弾圧史観では、なかなか読み取れないずるさと深さが伴っていた。もちろん、正統的解釈を許す人も、少数はいた。

第2の転向時代は、敗戦後の民主主義への総転向の時代で、これはいわゆる"進歩的文化人”が突如出現した時代であり、よく言われているから、書くまでもないだろう。しかし、この"転職”は「1億玉砕」に敗れ、混乱し、貧困であったとはいえ、気分的には明るい時代の産物であった。
そして今が、再び暗い第3の総転職の時代というわけである。

時代を経るごとに、靄のように軽くなっているが、必ずしも問題自体が軽くなったというわけではなく、未来が見えない分だけ混迷を深めている感がする。戦後の思想がなにを築いてきたかは知らないが、この状況は単に「ナショナリズムがはびこった」などという問題で片付かないことは確かであり、個々人の生活上の転職も伴った長いトンネルの始まりかもしれない。方向感覚もない政治家やハエを先頭にして、せっせと地下へのトンネルを掘っているからである。

*「テーミス」2002年11月号に「朝日新聞が始めた社論大転換の波紋」というのがある。真偽のほどは知らないが、今の状況の一端らしい。
                                                  (2002/10/31)

                     十月の殺戮

恐怖はわたしの属性である
わたしのゆたかな血液のなかには
あらゆるものを殺戮する時がながれ 十月の
つめたい空にふるえている
あたらしい飢えがある

田村隆一の「十月の詩」だが、この季節はどうも恐怖と結びついているらしい。場違いなところで引用して申し訳ないが、今年の十月は海外で爆破テロ事件が相次いでいる。去年はニューヨークだったが、今年の「十月の殺戮」は東南アジアが多い。まったく詩的ではなく、散文的な話であるが、以下の事件の「恐怖の属性」をもつ散文的、世俗的な「わたし」とは、十月ではなく、「イスラム過激派」または「アルカイダ」と言われている。決め付けが安易すぎると思うが、列挙すると、

1.イエメン南部ムカラ沖で起きたフランスの大型タンカー爆発事件で、アラブ各紙はイエメンのイスラム過激派「ムデン・アブヤン・イスラム軍」が犯行声明を出したと報じた。声明では、「本来の標的は米フリゲート艦だった」としている。しかし声明を仲介したイスラム過激派精神指導者は、このイスラム過激派には単独で攻撃する能力はなく、アルカイダと共同作戦の可能性が高いと語った。このタンカーを調査した仏米の専門家は、爆発個所の鉄板が内側に曲がっていたこと、明らかにタンカーのものとは違う破片が見つかったことで、この爆発がテロによって外部から起こされたと断定した。

2.インドネシアのバリ島で、外国人観光客が集まるディスコ前で、車に積んだと思われる爆弾が爆発して、187人が死亡、300人以上が負傷した。同時刻に同島の米国名誉領事館近くで爆発もあり、インドネシア警察当局は連続テロとして捜査を開始した。インドネシアにはイスラム過激派「ジェマ・イスラミア」がおり、アルカイダの訓練キャンプで軍事訓練を受けたといわれている。

3.フィリピン南部ミンダナオ島サンボアンガ市の繁華街のデパートで、時限爆弾が爆発、約30分後に、隣接する別のデパートで時限爆弾が爆発した。買い物客、警備員ら6人が死亡、約150人が負傷した。このほか繁華街の4カ所で計五つの爆弾が見つかったが、警察が処理した。警察と国軍は、オサマ・ビンラディン氏率いるテロ組織「アルカイダ」との関連が指摘されているイスラム過激派組織「アブサヤフ」の犯行の可能性が高いとみて調べを進めている。

4.マニラ首都圏ケソン市のエドサ通りで走行中の路線バスが爆発した。少なくとも乗客2人が死亡、約20人が重軽傷を負い、病院に運ばれた。国家警察は爆弾テロと断定、犯行の手口が2000年12月、首都圏5カ所で発生した路線バスや高架式の軽快鉄道駅などの爆破事件に極めて類似しているため、アルカイダに関連するアジアの過激派地下組織「ジェマア・イスラミア(JI)」の関与を追及している。

いずれにしてもこれらの事件で「十月の殺戮」は、物質的飢えから来たものではないが、なにか「あたらしい飢え」に似たものがあるようだ。
一方、北朝鮮の核開発に関連して、にわかに軍事評論家の間では、アメリカの北朝鮮攻撃説が出てきたが、こんな今更の話で急に矛先を変えることはまず考えられない。

十月の空は青の恐怖になってもいいが、血の色のない青く澄んだ季節の方がよい。慌てて付け足しておくと、むろん上に引用した田村隆一の詩は、爆破テロなんぞとは決して関係なく、名状しがたいあの戦争の死者の記憶と硬く結びついている。それはいつか奪回すべき死者の“果ての映像”のようである。

                             十月はわたしの帝国だ
                     わたしの死せる軍隊は雨のふるあらゆる都市を占領する
                   わたしの死せる哨戒機は行方不明になった心の上空を旋回する
                      わたしの死せる民衆は死にゆくもののために署名する
                                                                    (2002/10/19)

                      影の人民と威容の国家

ロシア革命が起こる前の帝政ロシアというのは、農奴や地主や工場労働者の上に貴族化したツァー一族が聳えている実に奇妙な社会で、経済社会だけを見ると、ある程度の資本主義的な発展はあったものの、政治構造は神聖ツァーリ王朝とでも呼ぶべきものだった。クレムリンのような寺院の林立が、中世の権威を象徴しており、ツァーはその上に絶対王政的でもあり、半蒙古的でもある双頭の鷲の衣装をかぶっていた。

このことは、当時のツァー周辺の記録を読んでみればよく分かる。彼らの意識はまるで中世だった。ところが、これに反旗を翻したレーニンやボルシェビキは、ロシアにただ近代的資本主義だけを見ようとし、その古色蒼然とした中世的な政治構造は論理としては捨象ないし無視し、歴史段階としては継承強化した。実際は、「民主主義革命」を経るという2段階革命論だったのだが、その「民主主義」の欠如したボルシェビキがいきなり権力を奪取した。その結果として、近代が抜け落ちた現代イデオロギーは、試行錯誤の末経済は発展させたものの、「収容所群島」に書かれたようなさらに暗くて深い権力構造をつくってしまった。

その抜け落ちの延長でもある北朝鮮をみると、この北朝鮮社会はアジア的古代王朝に暗いスターリニズム亜流を重ね合わせた負の遺産で作られたような社会である。このような暗い社会を地上から消すために歴史があったといっていいほどなのに、皮肉にも歴史はこの地域に「収容所半島」を残した。"抗日パルチザン金日正”という虚像を利用した一人物がソ連の軍事力を背景に権力の玉座に着き、67年からの粛清によって絶対的権力を握った。その人物の94年の死後、奇妙な儀式が執り行われ、息子が、民族的伝統を引き継いで2世権力者となった。

朝鮮戦争は、中国・ソ連のバックで”解放戦争”という名ののもと、直接武力で"南朝鮮”を打倒併合しようとしたものであったが、アメリカ軍の介入で失敗に終わった。この武力打倒併合路線の挫折の後に出てくるのが、韓国を内部から打倒するという戦略で、拉致は、その末端戦術に属するのだろう。ちょうど金正日が親の庇護の下、権力の中枢に出てきた頃である。(平壌の「日本村」には40人ほど日本人がいるらしい。)

内部から見ると、北朝鮮は51段階の身分制(階級制)社会らしい。金とその取り巻きが、無理に細分化、差別化した階級制を作ったのだが、人民には知らされておらず、逮捕されてはじめて自分の「成分」(階級)を知ることになるのだという。官憲に「お前は成分が悪い」と言われ、身震いするはめになるというのだが、それは単に全体主義で、秘密警察管理社会というだけではなく、人間が家畜の値段表のようなものをぶら下げて歩いている社会なのだ。大部分の人は単に労働者や農民と思っており、その値段表あるいは国家利用価値表を知らず、知らぬまま国家管理されている。

士農工商非人エタといった身分制すら現代のわれわれは、到底許容することはできないのに、この国では、被統治者は王朝権力者から一方的に価値付けられた機密値段表にしたがって無意識に動かされている。究極の国家管理体制のもとに"解放人民”は差別化されたいわば王朝奴隷として管理されている、法は事実上、金正日の恣意にゆだねられている。労働党の党大会すら開かれておらず、しかも経済はガタガタでいつも"人民"の上に飢えが忍び寄っている。国家だけが外面の威容を誇っていたが、全体がいわば暗く深い井戸であり、主役であるはずの人民はそこに映った悲惨な影でしかないかのようである。

(このような国家が根本から消滅しなくては、なにが歴史の進歩だというのだろうか?いうまでもないことである。そしてズブズブの現状国家肯定派になっている新聞の“良識派”や"進歩派”は、管理と弾圧に満ちたチャウシェスク“王朝”でも支持し続けた"反動”とどう違うのか?ここはルーマニアよりもずっと悲惨だが、“核抜き”でありさえすれば、「緊張緩和のために」(?)支持するというおざなりな感覚は理解しがたいのである)
                                           (2002/10/01)
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(追記)拉致問題掲示板:北朝鮮拉致問題掲示板
    拉致問題についての政党特に社民党の対応については、
       yahoo掲示板:社民党事務所へ電話抗議しました
       社民党の対応:「拉致事件は考え出された」論文、社民党がHPから削除社民が拉致事件否定論文をHPから削除

                   北朝鮮「国交正常化」問題の「空気」

北朝鮮・金正日と小泉(敬称略)との会談の結果が発表され、マスコミ報道はこのイシューで埋め尽くされた感があったので、この問題について、一言書いておくことにする。
訪朝が決定した瞬間から、マスコミはこれを「歴史的訪朝」だといって期待感を表明してきた。なにを期待したのか分からないが、玉虫色の得体の知れない期待感が虹の様に日本列島と朝鮮半島の北にかかったかのようであった。

そして結果がこれである。マスコミは急に犠牲者の悲惨な結末に思いをはせたかのように沈痛な表情に変わった。以前は拉致問題など瑣末な問題で、アジアの平和こそ重要だといわんばかりの論調であったが、ここへ来て急にその論調を変えたのであった。その急変は驚くほどであったが、いまや対北朝鮮強硬論すら出てくる有様である。結局なにが問題だったのかといえば、視点の定まらない当初のふんわりした「正常化」期待論だった。

そして今でもなにが言いたいのか、よく分からないのである。

そもそも拉致問題の解決が最優先課題で、その事実を金正日が認め、事実確認されたことが「画期的だ」というならば、拉致被害者家族の人たちが涙声で訴えたように、結果は失望してしかるべきものだった。事実問題としては金独裁王朝の体質が改めて公式に確認されたというにすぎないし、金正日が認めようが認めまいが、国家犯罪を犯す国であることは周知の事実である。もちろん、認めた以上、現政権は、北朝鮮に対して真相究明と責任追及を求める義務を負っているが、戻ってこない被害者家族たちの嘆きだけは取り残される。やはり遅すぎたのか、と。
ならば、この問題を放置しつづけた歴代内閣と拉致問題に関し過去冷淡な扱いをしてきたマスコミの責任をどうするのか、と問われなければならなくなるだろう。(日経のよると、拉致はおそらく60人に上るという)

いや、人権問題などは二の次で、敵対する両国の「正常化」の端緒がひらけたことが「画期的だ」というならば、そんな国家間関係がなんなのだと言わなければならないし、またもし過去の植民地支配の清算が最重要課題だったし、その端緒が開けたことが「画期的だ」と言うならば、こんな独裁王朝に経済協力することが「過去の清算」なのか、と問わなければならないだろう。なぜなら北朝鮮の庶民にとっても、金政権の延命は好ましいことではないことは、容易に推定できるからだ。彼らはいまや中国への「難民」ラッシュを起こしているのである。
(そして、窮地に追い込まれた金政権の打開策が、この7月からの「経済改革」と今回の日朝会談なのである。)

またもし、東北アジアの平和に寄与すると言うならば、そういう国際論者風のあなた方が想定するような戦争などはありようがない、現実を直視せよ、と言うほかはないだろう。
またもし、大量破壊兵器の拡散が・・・・・もういいだろう。マスコミで模範解答のように言われてきたことがさっぱり分からなかったが、もはや、そういう論議も冷めたらしいから。
----いまは錯綜した過去からきた得体の知れない期待感が去り、ひんやりとした冷たい空気が流れているばかり。



                                               (2002/9/17)

                       奇跡」の沈黙

雑記帳だから、毛色が違うことを書いてもいいだろう。本屋で、日木流奈『ひとが否定されないルール』というのを立ち読みした。私は見ていないが、NHKスペシャル「奇跡の詩人・11歳・脳障害児のメッセージ」の原作。講談社やNHKのプロデューサーが本当に「奇跡」だと思ったのか、商魂で作ったのか知らないが、話題になったのだという。

母親には奇跡が必要なのだろうか?
言うまでもなく、奇跡とは奇跡を信じたい人だけに宿るもので、信じる人にはどんなすばらしい奇跡も"起きる”が、信じない人にはなにも“起き”ない。一読すれば分かるが、原稿は母親が書いたものか、母親が書いて編集者が手直ししたものか、そのどちらかで、その本のなかでは、流奈君は影も形もなく、最初から最後まで不在のままである。たとえ2000冊の哲学書を読んだのだとしても、母親の共同幻想のなかで、11才の息子は死んでいる。息子の言葉がまったく聞こえてこないさまは、痛ましいばかりである。
そこにいるのに、いない息子の長い沈黙。だが息子が書いた詩集だけが増えていく。

個々人の行動をどうこう言っても仕方がない。根本的な治療がまだない、ということが真の問題なのだ。その余は宗教でしかないのである。

                     構造主義者たち


フランソワ・ドッズ『構造主義の歴史』(上下)は、構造主義者たちとのインタビューをもとに歴史的背景を再構成したもので、ミシェル・フーコーが、ソ連の粛清に涙を流したとか、そんなエピソードがたくさんあって、フランス研究家や社会学者には、たまらない本であろう。一方、そういう哲学分野やフランス文化には関心がない人には、まったく無価値な本である。構造主義には人間(主体という表現が使われる)が出てこない。システムがすべだ。そのわりに機能主義である。一種の機械論のようである。ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』には、機械という言葉がやたらと出てくる。もう一つは、いかがわしさが立ち込めているという点だ。独創的な表現であろうとするあまり、リゾームだのなんだのという言葉を発明し、その言葉と共に行き過ぎる。つまりは言葉であり、文学なのである。だから長々しい記述は、言葉に埋められており、論理性が欠如している。一字一句を追う読み方をしても無駄である。全体でなにを言おうとしているのか掴むしか方法はない。それを掴んだとして、なんの役にも立たない。そういうものなのである。なぜなら瞬間の閃きがすべてだからだ。

と、書いてきて、構造主義者には、それとは別に、もう一派あることに気が付いた。それは、レヴィ・ストロースやジャック・ラカンのような現在数学応用派である。彼らは、トポロジーや群論を社会科学に応用することで、その新鮮さをアピールしてきた。彼らは、読者を狐につままれたような気分にさせるか、絶賛させるか、インチキだと思わせるかの、どれかだ。応用的発想としては面白いが、それをゆめゆめ本気にしてはいけない。知的な遊びである。むろん、彼らは本気なのだが。


                    時代と戦うということ

1年ほど前に朝日新聞の科学誌「サイアス」休刊問題があったことは誰でもご存知であろう。「休刊」とは名ばかりで事実上「廃刊」であった。なぜ廃刊になったかというと、言うまでもなく単独では採算が取れなくなったからであった。以前から、朝日新聞は、この採算性問題で全社的に合理化策を打ち出しつつあり、赤字部門は容赦なく切り捨てるという合理化策を推進する人物が、取締り役になるという状況にあり、この廃刊問題は、だから社内人事問題もからんでいた。本業の新聞部門の黒字を当てにして、赤字出版部門を抱えることは、もはや朝日といえども時代が許さない、というのが合理化派の経済感覚であった。
で、「サイアス」が黒字ならば問題はなかったのだが、読者層の減少で年々赤字が溜まっていたため、「朝日グラフ」と同様の憂き目にあったことは、すで周知であろう。立花隆氏がインターネットで「廃刊」見直しの著名運動を行い、錚々たる人達が署名に加わったが、すでにとき遅く、署名の効果はもはやなんの効力もなかったということも。

同情するなら金をくれ!
どこかで聞いたような文句が幅を効かす状況の中で、署名した多数の大学教員教育関係者たちを中心とする運動は、なんの効力もなく、あっけなく総敗北したのであった。
実は私も、このとき、朝日新聞の取締役会宛のメールを送ったのだが、なんの返事もなかった。1部外者の抗議やただの言葉など、1円の経済的援助にもならなかったから、無視されるのが当然であったのかもしれない。
だが、このときから、私は朝日新聞社に対する態度を変更せざるをえなくなった。「当社は科学を軽視するものではありません」などという言い訳はなんの役にも立たない。むろん、このことは1朝日問題ではなく、現代という大衆状況に対し、どう対処するかという基本的な問題であって、採算性がブルドーザーのように淘汰していく問題である。だから、私は朝日だけを特に非難しようとは思わない。

しかし、である。新聞社が1企業にすぎないことは誰でも分かっている。が、経済がそのすべてを支配するというのならば、新聞社の社会的主帳や論説などになんの意味があろうか? ただ、朝日という1企業が利益を得ればよしとし、反対は悪とする。それだけの主帳しか出てこないはずである。だが、彼らはそう主張しているか?そうではないのだ!
それは「サンケイ」などというインチキ新聞と同じ2枚舌でしかない。マスコミという「公器」といえども、経済には勝てない、という裏の事情があるって? バカなことを言うんじゃない!それなら、経済原則の従って本業もろとも総撤退すればいいじゃないか、ということになる。廃業できないものあってこそ、主義・主張があるのではないのか?

“ワープする宇宙”
“テポドン2号”

自民党の統一教会への祝電事件
ライブドア、強制捜査から逮捕へ

フジvsライブドアの和解

「ベルリンの至宝展」でのほんのひと時
ダ・ヴィンチ・コードとニュートン
「歴史認識」という大火---竹島問題
ベーテ死去
失敗とトラウマ
ライブドアのMSCB
特許係争・松下vsジャストシステムをめぐって

樋川事件控訴審の15秒判決
正体不明の怖れ
不安定社会の危うい均衡

殉教者の死
「宇宙人としての生き方」
時代がかった世界観?
イッてる政治状況
抜き打ち年金改悪
「フツーの子が起こした」殺害事件
いやはや庶民たち
イラクでの人質事件に関して
尖閣諸島への暴れん坊
MSの独占禁止法違反問題について
『予感』の海
政治づいたドンキホーテの猪突猛進
日本の航空機産業は離陸するか
自分の力で生きる社会へ(?)
国際社会の茶坊主は役にたつか?
果てしなきガキ時代から離れて
うごめく虫の触覚と宇宙からの視点
韓国科学技術衛星の怪
パラダイム転換は起きたか
地域通貨は資本主義を超える!?
セレブなあなた
北九州市で出土した口分田の木簡
中朝の“脱北者狩り”問題
誰もが貧しくなる道を説く退嬰的伝道師
超常野郎のフライト
アポロなんかなかったという世代
竹中経財相「デフレ厳しい、克服は2005年度に延期」
中国共産党第16回党大会の報道から
「週刊金曜日」にあきれる
“総転職”の時代
十月の殺戮
影の人民と威容の国家
北朝鮮「国交正常化」問題の「空気」
「奇跡」の沈黙
構造主義者たち
時代と戦うということ
言迷語明