第32回                     スピンの相対論 トーマス才差


ファインマンは「ファインマン物理学」のどこかで、スピンがどの軸から測定しても|+>であるか|->であるかの2状態しかないことを説明した後、「いくら不思議に思っても諸君の理解はこれ以上けっして進まないのである!」と言っていたような気がする。
それこそは究極の理解かもしれないが(!?)、ファインマンはこう付け加えるのを忘れた。スピンを3次元ベクトルに似せて考える限り、と。

量子力学で出てくるスピンというのは、もっとも簡単な2状態系でありながら、意外と分かりにくいものだ、そう思う人は多いのではなかろうか。それはスピノールに古典的な対応物がないためかも知れないし、あるいは通常、量子力学の教科書がスピンについてはさらりと流すことが多いせいかも知れない。また、あるいは単に十分理解していないせいかも知れない。

そこでこれから2、3回このスピンについて書こうと思うのだが、その第1回として表題のような古典的なスピンの相対論について書いてみよう。ここではスピンをこまの自転のように考え、どんなことが出てくるかを見てみることにする。
(googleの日本語でトーマス才差を検索してみたらヒット数0であったから書くことにした(^^;))

ニュートン力学では、トルクが働かなければスピンのような角運動量は保存されるから、自転軸は慣性系に対して不動である。たとえばスピン衛星がスピカの方向を向いていて、地球その他の天体からトルクが働かなければ、いつまでたってもスピカの方向を向いている。

これを原子に当てはめると、原子核の周りをまわる電子のスピンは、原子核からトルクが働かなければ、いつまでもスピン軸が一定である、ということになる。
数式でも、電子のようなスピン1/2の量子は次の(1)のような固有の磁気モーメントをもっていて、
           
外部の磁場があると、
           

のような相互作用エネルギーHをもって相互作用する
が、実験室系で見ると、原子核を回る電子では磁場は0であるからこの相互作用は0であり、スピン軸は一定方向という結論に変わりがないようにみえる。

ところが、相対論で考えると、事情は変わってくる。相対論では、古典的なスピン衛星でもミクロな原子核を回る電子でも、加速度運動している限りそうはいかない、トルクが働かなくてもスピン軸は不動ではないのだ。
なんだって?と言う人がいるかもしれないが、今回はこれが主題なのである。

スピンとは粒子に固定した粒子の静止系で考えて、これこれの方向にどれだけというような概念である。これをS'系とすれば、これは実験室系(S系と呼ぼう)を粒子の速度vでローレンツ変換すれば得られる。ところで、粒子が加速度運動しているとき、時刻tでのS'系の座標軸は、Δt時間が経過した後のS'系座標軸と平行でなくてはならない。そうでなければ、S'系自体が回転していることになってしまうからである。このtとt+Δtとの座標の関係もローレンツ変換で得られる。粒子の静止系S'の座標軸とは無限小時間たったとき、相互に平行な軸をもつ座標系として定義されるのである。

ところで、そうすると、S'系の座標軸はいつでもS系の座標軸と平行になっているのだろうか?
これはガリレイ変換で考えるならば、粒子が加速度運動していようが、平行なのは当たり前のことである。ところが、相対論ではそうはならないのだ。

これを調べるには、時刻tでS系からS'系にローレンツ変換し、Δtで速度Δvが増えたとして更にローレンツ変換したものが、実験室系からの一発のローレンツ変換によって表されるかを調べればよい。ここでローレンツ変換と呼んだのは、ポアンカレー群のうち純粋ローレンツ変換と呼ばれる非回転性変換であり、通常ブーストと呼ばれるものである(以後、ブーストと呼ぶことにする)。

g=(1,-1,-1,-1)で表すと、ブーストLは一般に

                  (3)  
                      
と表される。Iは単位行列、小さな○は直積で3×3の行列である。ブーストの特徴は対称行列になることである。

ここで粒子は時刻tでx軸方向にvで運動しているものとし、Δtでy軸方向にΔv増分したものとしよう。これはブーストを2回つづければ得られるから、(3)の行列を2回掛ければよいのである。すると結果は次のようになる。ただし、Δvは微小だとし、2次以上は無視する。

               (4) 
               
この結果を見ると、対称行列になっておらず、これが1回のブースト変換では表せない変換であることが分かる。z軸周りの回転が現われている。

もし、この粒子が1回のブーストで表されるとすると、S系とS’系の座標軸はいつも平行であるが、実際にはそうでないことが分かる。ちなみに、粒子はx軸にv、次にy軸にΔvであるから、1回のブーストで考えると、粒子はS系に対して=(v、Δv/γ',0)で動いている。γ'はy軸の速度に対するものである。そこで(v、Δv/γ',0)の1回のブースト変換を考えてやると、

             (5)
             
となって対称行列になる。これは(4)と一致しない。行列のxy成分のところが違うのだ。
そこで、(4)は1回のブースト(5)と何かの軸回転行列Rの積として表せないかとやってみると、
                    (6)
         

とすると、ぴったりLΔvL=RLv+Δvとなることが分かる。

こうして違う方向への2回の(多数回でも)ブーストは1回のブーストと回転行列の積に還元されることが分かる。つまりは粒子に固定した粒子静止系S'は実験室系Sに対して、なにもトルクが働いていなくても回転しているのだ。どれだけ回転しているかといえば、(6)をΔtで割った

                    (7)
                     
である。ただしベクトル形式で書いた。aは粒子の瞬間加速度である。この回転は粒子が原子核の周りを回っているような場合、才差運動となるが、はじめてこれが気づかれたのはようやく1927年になってからであった。それはスピン−軌道相互相互作用に関連して気づかれたのだが、トーマス才差と呼ばれている。トルクが働いていなくてもスピン軸は不動ではない、と言った理由は、これである。

この回転はむろんS系からみた粒子静止系S'軸の回転であり、S'で考えれば、なにもトルクが働いていなければ、加速度運動していてもスピンは不動のままである。

もっと形式を整えよう。一般にスピンのような角運動量は積の順序によっており、演算子は交換しない。
                          (8)
        
であるが、同じようにスピノールに働くブースト演算子kiを考えると、その交換関係は
        
                         (9)
        
となる。この関係は方向の異なるブーストを2回行うと、回転が現われることを示しているのである。ここでsiなどはスピノール回転の生成元であり、kiなどは純粋ローレンツ変換の生成元である。

さて原子核を回る電子の場合、冒頭で言ったことはこの座標系の回転(トーマス才差)の他にも間違いがあることを指摘しておこう。それは---実験室系で磁場がないとしても---速度で運動している電子は、粒子静止系では相対論的効果として磁場が現われ、電子はそれを感じるということである。「実験室系で見ると、原子核を回る電子では磁場は0であるからこの相互作用は0」などと考えることは、とんでもない間違いなのである。実際、に垂直な電場をとすれば、磁場は

                       (10)
           
だけ現われる。これを(2)に代入した分の相互作用エネルギーが働き、これが"トルク"となる。したがって、この場合、S'系でみてもスピンは不動ではないのだ。これは粒子の瞬間静止系で考えたものであるが、γを掛ければ、実験室系でみた相互作用エネルギーとなる。

そうすると、結局、原子核を回る電子では、スピンは以上の才差とトルクの効果を考えればよい。その古典的な運動方程式はどうなるかといえば、スピンをSとすると、

                  (11)
          
となる。どこか見慣れた方程式であるような気がする。この結果は、単純に(10)を(2)に代入したトルクが働くとした場合の1/2になっているのである。

これに対応した相互作用エネルギーHI

                   (12)
          
であり、これも見れば分かるように(10)を(2)に代入したものの1/2になっている。(この因子1/2はトーマス因子と呼ばれる。)

こうして出てきた結果は、二つの相対論的効果によるのだが、このHIがスピン−軌道相互作用エネルギーであり、このエネルギーによる原子エネルー準位の分裂を微細構造とよんでいる。

微細構造は、シュレディンガー方程式にスピンを持ち込んだパウリ方程式からは出てこない。当初、クローニッヒなどはアルカリ・スペクトルの二重構造や異常磁気モーメントを説明しようとして、(10)を(2)に代入したものを相互作用エネルギーと考えたが、どうしても2倍になってしまい、実験と合わなかった。その因子1/2を古典論で導き出したのがトーマスであった(注)が、それは相対論がミクロな系であれ、マクロ系であれ、成り立つという証拠であった。

そして、その翌年「相対論と量子論の結合」によって生まれたのが、ディラックの方程式であった。

(12)の結果は、ディラック方程式を使えば自動的に出てくる。だから、微細構造を示すには上に述べたような余計な議論は不要である(しかしなぜそうなるかは、ディラック方程式から導き出す過程では、よく分からないだろう)。

シュレディンガー方程式では、たとえば水素原子のエネルギー準位はn2に縮退しているが、ディラックの相対論的方程式を使えば、今度はエネルギーは主量子数nだけではなく、全角運動量jにも依存し、この縮退が解ける。スピン角運動量単独では保存されないが、全角運動量は保存される。だが、クーロン場では、同じnとjをもつl=j+1/2、l=j-1/2の二つの準位は依然として縮退している。磁気量子数mに関するこの縮退は磁場をかければ、完全に解ける。


しかし、こうしてみると、量子のスピンもある程度古典論に対応していることが分かる。それは磁場中のスピン演算子の運動を表すハイゼンベルク方程式が、古典論に対応しているのと同様、(12)のようなハミルトニアンを与えれば、ハイゼンベルク方程式として(11)が出るからである。また(9)の非可換関係は、スピノールにたいする演算子で成り立つばかりではなく、(プランク定数を除けば)普通の4元ベクトルに対するブーストの生成元でも成り立つのである。
他方、地球を回る光ジャイロのような古典系の相対論的効果については、座標回転の話は依然としてそのまま当てはまる。ただ一つ欠けているのは、一般相対論による効果である。

さて最後に、もう一つ冒頭で言ったことの粗雑さを訂正して、この話は終わりとしよう。それは、原子核を回る電子では、実験室系でみれば磁場はないとしたことである。実際には、原子核は磁気モーメントをもっており、それが電子の磁気モーメントと相互作用する。原子核の磁気モーメントに起因するエネルギー準位の分裂は非常に小さく、スピン−軌道相互作用のエネルギー準位の分裂の約10-3倍くらいである。この小さな分裂は超微細構造と呼ばれているが、原子核の磁気モーメントを調べる手段となっている。



(注)これは、名著・朝永『スピンはめぐる』に詳しく書かれている

さて【嫌味な問題】ディラック方程式を知っている人は、そのディラック・ハミルトニアンを使って近似し、ハイゼンベルク方程式から、演算子方程式としての(11)を導き出せ。