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■磐余の里
はじめまして、磐余の里を案内するキャラクターのトビ(鵄)くんです。
長髄彦の軍を成敗する時に神武天皇(磐余彦)の弓の先にとまり金色の煌きを発したといわれるトビくんで〜す。さて磐余の里( いわれのさと )は桜井市の南西部一帯の古き地名であり「日本書紀」や「古事記」、「万葉集」などに数多く登場し、十二代もの宮都が置かれた「国のまほろば」の地、人々の心のふるさとです。神山「三輪山」の麓に開かれた日本最古の市場「海柘榴市(つばいち)」は山の辺の道をはじめ、磐余邑を中心に六ッの古道があります。この古道が交差する交通の要衝でした。また神武天皇伝説では八十梟師(ヤソタケル)征討軍の集結地といわれています。この近辺では神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)が決
戦した所でもあるんだよ。道中に楽しめる所があれば、チョコット寄り道するゾ。それでは日本最古の歴史をもつ磐余の里へいざ出発!万葉集にたびたび登場する地名や旧跡が次から次へとあらわれ訪れる人を神話や古代ロマンの世界へいざなってくれるところです。
■磐余の里の横穴式石室
磐余の里には、約八百個所の遺跡が登録されていますが、その大半は四世紀〜七世紀にかけて作られた古墳です。古墳の中でも特に多いのが、五世紀の後半から七世紀にかけて作られた横穴式石室境です。それまで築造されていた竪穴式石室が、天井から大石で蓋をするために一人しか埋葬できなかったのに対し、横穴式石室は横から出入りができるため、多ぜいの人が埋葬できる特色を持っています。この画期的な葬法は、中国の葬法が朝鮮半島を
経由して持ち込まれたもので、またたく問に豪族たちに取り入れられました。七世紀に入ると、朝廷の重臣たちは、巨大な石室境を作り競い合いました。阿部丘陵や栗原の谷にみられます。七世紀の中頃になると、榛原石をレンガ積みの手法で築き上げた碕榔増とよばれる石室が、浅古や忍阪・栗原の谷に作られ、やがて火葬にとって変わられて、石室は作られなくなってしまったそうです。
■磐余の里(大和桜井)の六古道 磐余道の石碑■北緯34度29分07.1秒■東経135度49分47.8秒
磐余道 (いわれのみち)
 古くから桜井から飛鳥を経て紀州へと至る道として開け、大化の改新ゆかりの道でもある。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)創建の山田寺跡、安倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)創建の安倍寺跡、蘇我氏討伐の舞台となった伝飛鳥板蓋宮跡など数々の人物・史実のたどることができる道です。(写真 山田寺跡の近くにある磐余道の碑)
山の辺の道 (やまのべのみち)
 古来、大和は国の発祥地といわれ人々は日々、三輪山から山裾の道を歩き往来し、山の辺の道が形づくられました。万葉歌人の歌碑が多数残り、田園景観の美しさを眺めながら、有名な社寺や古墳を巡ることができる道です。
多武峯街道 (とうのみねかいどう)
 大化の改新で、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏討伐を話し合ったといわれている談山神社のある多武峯を越える道で、戦国時代には豊臣秀吉が吉野統制の道として、また江戸時代には吉野の桜見物の人々でにぎわった道です。
伊勢街道 (いせかいどう)
 大和と伊勢を結び、伊勢からは「初瀬街道」、大和からは「伊勢街道」と呼ばれていました。神社仏閣への参拝で人々が行き交った街道です。特に江戸末期の伊勢参拝では、老若男女でにぎわった道であり、庶民の信仰や文化により支えられた道です。 
忍坂街道 (おっさかかいどう)
 初代天皇とされるの神武天皇ゆかりの道です。日向から瀬戸内海を東進し、難波から南に迂回した神武天皇は熊野・吉野の山中を越え宇陀から忍坂へと至り大和平定を成就した道といわれ歴史的に有名な道です。
大和長寿道 (やまとちょうじゅみち)
 藤原京では、朝、東に向かって一日の叡智燃えるを祈り、夕方、西に向かって一日の長寿延命を祈るならわしがあったといわれ東西に位置する安倍文殊院と無量山おふさ観音を結ぶルートは、長寿延命祈願の地として、全国から「ぼけ封じ」の参拝者を集めてきました。
■磐余の里 『外山区・宗像会館』 
磐余の里(桜井市)の外山(とび)。外山区集会所 『宗像会館(むなかたかいかん)』 より、発信しています。外山区の歴史とこれからの外山区のお話です。
外山区集会所 『宗像会館』 は大和平野東南の扇状地に位置し、水豊で緑美しく、縄文・弥生・古墳文化の遺跡が点在し、特に初代天皇である、神武天皇が即位された折、鳥見山霊畤にて大嘗祭が行われた等、いわば日本国の曙の土地であります。このようにすばらしい外山区の歴史を、より多くの方々に知って頂きたい、また、外山区にお住まいの方々にも今一度、外山区の歴史の原点に立ち返り、そのすばらしさを再認識して頂きたい、そして、外山区の歴史やこの土地そのもの、また、外山区を愛する気持ちも含め、今まで以上のものを
外山区 『宗像会館正面玄関』
次世代に受け継いで頂きたいとの想いから、この度「外山区今昔物語」と銘打ちまして、ホームページを開設する運びとなりました。このホームページは、外山区の歴史紹介のほか、現在の外山区の様子等もご覧頂けます。多くの方々とのコミュニケーションの場として活用頂き、そして、そこから見えてくるこれからの外山区を考え、見いだすきっかけとしてご利用頂ければ幸いと存じます。
問い=〒633-0007奈良県桜井市外山870 宗像会館 0744−49−2221
■磐余の里『森とふれあう市民の会』
森とふれあう市民の会とは…
日本の歴史や文化のルーツにも深く関わる桜井市の鎮守の森。鎮守の森が大小二百余もある桜井は鎮守の森の宝庫でもあります。本会は、みんなで歴史を秘めた鎮守の森を巡りその道々の里山で自然の面白さや不思議さを再発見し、市内の自然や歴史により親しみを感じていただくこと、そしてそこでの感動や学びを生活の中に生かしながら鎮守の森を守り、子孫に伝え残すことを目指しています。
問い=桜井市三輪354【JR三輪駅向かい三輪座内】 (0744-49-3818)
■磐余の里『NPO法人山野草の里づくりの会』
山野草の里(桜井市三谷)は奈良県の北中部、大和高原の一角に位置し、桜井市の北東部、大和川の上流に位置します。山野草の里は丘陵地形で谷は水田、取り巻く山には杉・桧が植えられていますが、広葉樹林も残っており、多くの山野草が残っています。また、ほたる・とんぼ・どじょう・さわがに・たがめ等の生物も多く生存しています。この自然の里地・里山保全を目指して活動されています。
■戒重春日神社(かいじゅかすがじんじゃ)【訳語田幸玉宮跡伝承地】(おさださきたまのみやでんしょうち)
■北緯34度35分50.1秒■東経135度50分16.9秒 幸玉宮跡 戎重春日神社
■北緯34度30分18.7秒■東経135度49分57.9秒 吉備池廃寺跡(百済大寺)
訳語田幸玉宮跡伝承地の春日神社吉備池廃寺跡・百済大寺(くだらおおでら)
戒重春日神社周辺は西阿が1341年に開住城を築き楠木正成なきあとの南朝を守る重要な基地であったそ
うです。また第二九代欽明天皇が磯城島金刺宮(しきしまのかねさしのみや)で崩御した。翌572年4月3日仏
教をめぐり物部と蘇我が争っていた時代、第二皇子である淳中倉太珠敷(ヌナクラノフトタマシキ)皇子が第三
十代敏達天皇として即位しました。この敏達天皇の都であったと伝承されています。この宮は後に悲劇の英雄
である大津皇子の邸宅となり持統天皇による刑の宣告を受けたところでもある。敏達天皇四年(575年)天皇は
卜部(ウラベ)に命じて訳語田(おさだ)にある海部王(アマノオオキミ)の家地と糸井王(イトイノオオキミ)の家
地を占わせました。占いは吉となり、そこに新しい宮を営んだといわれます。この宮の名を幸玉宮(さきたま
のみや)である。また古事記に他田宮(おさだのみや)とあるように春日神社は古くは他田宮(長田宮)とよば
れていました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■桜の井(さくらのい)■北緯34度30分30.7秒■東経135度50分48.3秒
桜の井は桜井市大字谷【桜井駅より南に徒歩15分】にある直径約72p円形石積、深さ約2.5mの井戸です円形に積み上げた石は苔むしていますが水は水量豊かで鏡の如く澄み、特別の甘味があり、昔から大和の七ツ井の1ッといわれています。桜井の地名はこの「桜の井」とよばれる井戸にあるといわれています。ここは若桜部氏の祖神を祭る若桜(わかざくら)神社の北にあります。日本書紀によれば第十七代履中天皇(リュウチュウテンノウ)の三年十一月。天皇は皇后と船を磐余市磯池(いわれいちしのいけ)に浮かべて遊宴の時
大和の七ツ井の1つ『桜の井』
に天皇に膳臣余井磯(カシワデアレシ)が献上した御盃に時ならぬ(季節外れの)桜の花びらが舞い落ちまし
た。これを不思議と思い、物部長真膽連(モノベノナガマイノムラジ・物部十市根命)に花の咲いているところを
調べるように命令しました。後日、花びらは腋上室山(わきがみむろやま)に咲いた桜であることが判明しまし
た。天皇は珍しい事と喜び、桜に因んで宮の名を「磐余稚桜宮」(いわれわかざくらのみや)と名付けられ物部
長真膽連の姓を稚桜部造、膳臣余井磯を稚桜部臣と改めたといわれています。また天皇は腋上室山から桜樹
を持ち帰り等彌郷の清水湧き出る泉の畔に植えたそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■若桜神社(わかさくらじんじゃ)■北緯34度30分28.9秒■東経135度50分49.2秒
若桜神社(東殿・延喜式式内社)・高屋安倍神社(西殿・延喜式式内大社)は桜井公園遺跡の前方後円墳の後円部丘上南斜面に位置し桜の井の北にある神社です。祭神は東殿に伊波俄加利命(イハカガリノミコト)で若桜部朝臣(ワカザクラベノアソン)や阿部朝臣(アベノアソン)の遠祖、西殿に延喜式神名帳に記されている安倍(アベ・阿部)氏の氏神である屋主彦太思心命(ヤヌシヒコフトシタマノミコト)・大彦命(オオヒコノミコト)・産屋主思命(ヤブヤヌシオモイノミコト)を祀る神社で
す。社伝によると「霖雨のため一山崩潰社殿破壊し終に若桜神社の境内に遷座せり」と記されていることから
高屋安倍神社は現地から南に約400m先の松本山に鎮座していたそうです。
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土舞台(つちぶたい)能・発祥の地■北緯34度30分16.2秒■東経135度50分41.0秒
「土舞台」と刻した標石日本最初の国立劇伝承の地
土舞台は約千三百年前に摂政聖徳太子により造られた日本最初の国立劇場・国立演劇研究所です。「日
本書紀」の推古天皇二十年(612年)摂政聖徳太子に百済人味摩之(クダラノミマシ)が我が国に帰化して「呉に
学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げた。そこで太子は「桜井」にて我が国の少年を集め伎楽の舞を習わし
たそうです。伎楽は古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり散楽といわれたそうです。日本に
は神楽がありましたが以来、宮廷に伎楽が加わり日本の伝統演劇のひとつになりました。後に宮廷が衰えた
武家時代には、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技されるようにな
りました。この桜井児童公園内の史蹟地のことは江戸時代の「大和名所図絵」に記されています。
■桜井公園遺跡『三重の環濠跡』
桜井市教育委員会が2008年12月11日に桜井公園遺跡【土舞台】で弥生時代後期前半(二世紀前半)とみられる三重に掘削された環濠(かんごう)が見つかった。環濠は一部だけが発見され、3本がほぼ等間隔で平行に並び最長で約45m分を確認。住居跡などは見つかっていないが奈良盆地を見下ろす丘陵の頂上付近にあり、斜面で見つかった環濠は最も高い位置に設けられた環濠は幅約3mで長さ19m分を検出。その下で、長さ45m分と14m分の環濠が、8〜10m間隔で検出された。環濠は、丘陵を囲むようにさらに伸びるという。平地から30〜40m高い位置にあることから、市教委は奈良盆地を一望できる軍事上の要衝(戦乱に備えた砦跡)に設けられたと推測している。また小規模な集落があったと推定した。環濠はV字形で集落に外敵が侵入するのを防いだとみられ、監視台の可能性もあるという発表だった。当時の奈良盆地内では戦乱もなく平和な時代が続いたとみられていたが九州北部や瀬戸内地域の勢力に備えて守りを固めていた可能性が浮上した。西日本全体を巻き込んだ大規模な軍事的緊張状態を物語る貴重な資料となりそうである。弥生時代の日本列島について記した中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、二紀後半に大規模な戦乱「倭国大乱」があり、女王・卑弥呼(ひみこ)が擁立されたことで戦乱は収まったと伝えられるが、それ以前の大きな戦乱に関する記述はない。しかし今回の環濠は倭国大乱より半世紀ほど古く、そのころにはすでに西日本各地で勢力争いがあったことを推測させる。市教委は「大規模な環濠掘削には多大な労力が必要で有事に備えた砦ではないか」と説明しています。遺跡はすでに埋め戻されたが2007年12月12日〜2008年1月11日に桜井市立埋蔵文化財センターで発掘速報展が行われました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■磐余山(いわれのやま)■北緯34度30分33.2秒■東経135度50分53.3秒
磐余山(石根山)は磐余の里(桜井)にあって日本の文化源流の地であり磐余山は萬葉集にも多く詠まれた山である。神武天皇崩御の時、磐余山に堂宇を建立して霊を祀ったそうです。また、初瀬部崇峻天皇(ハツセベノスシュンテンノウ)が倉梯宮を遷し磐余山に桜井寺を建て佛を祀ったこともいわれています。この磐余山頂上は東光寺跡(別名 磐余堂・桜井寺)で今は1ッの小堂・幾つかの石仏が現存しています。現在は磐余山の麓に東光寺があります。五世紀から六世紀にかけて磐余山はたびたび皇居の地に選ばれていたそうです。
磐余山頂上の東光寺跡
磐余山頂上の東光寺跡には多数(100以上)の石仏がゴロゴロという感じで鎮座している。それぞれの石仏
の顔は微妙に違いがある。一見の価値ありです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■艸墓古墳(くさはかこふん)■北緯34度30分11.2秒■東経135度50分44.6秒
艸墓古墳の正面
自然の石を利用した羨道口
艸墓古墳(カラト古墳)は阿部丘陵の南斜面に築かれた方墳で北西面・東南面がやや長い高さ約7mの截頭方錐形です 埋葬施設は南東に開口する両袖の横穴式石室に竜山石製の刳り抜き家型石棺が安置されています。石室の規模は全長約13.1mで玄室の幅は約2.7m・玄室の長さ約4.4m・玄室の高さ約2mあって石室の壁石の間には漆喰が詰められていたそうです。羨道は長さ約8.7m・玄門部の幅約2m・高さ約1.5mあって石棺の正面前には約1m四方の板状の石が据えられている。埋葬施設の石壁は切り出しせずに自然の石を利用して造られています。また、この古墳は石棺を安置した後に石室を築いたといわれています。ここ磐余の里で完璧な状態の石棺を見て触れるのは艸墓古墳だけです。昭和二十九年に県の史跡に指定されました。
8.7mの羨道中間付近
完璧な状態の石棺
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■上之宮遺跡(うえのみやいせき)聖徳太子の上宮(じょうぐう)
■北緯34度30分05.7秒■東経135度50分52.8秒
上之宮遺跡は昭和五九年(1984年)九月にはじまった桜井南部特定区画整理事業にともなっておこなわれ
た発掘調査は七年間にわたり阿部・高田・上之宮と場所をかえ継続しておこなわれ、とくにその中で上之宮遺
跡の発掘調査で検出された六世紀前半〜七世紀初頭の遺構は聖徳太子の上宮(じょうぐう)である可能性が
大きいと発表されました。上之宮遺跡の居館遺構は、なだらかな丘陵の北東斜面にひろがっています。すぐ東
に寺川が流れ正面には神武伝承で知られる鳥見山・三輪山が見える景勝の土地に位置しています。遺跡は
東西約5.60m南北約100mその範囲に当時としては第一級の規模・格式をもった四面庇(ひさし)付大型建物
の居館遺構をはじめ倉庫群や掘立柱建物が配置されています。これらの建物をとりまく柵列も検出されていま
す。さらにこれらの建物群に付属していたと思われる園地遺構や石組み遺構が検出され遺構のなかからは別
□塗銀□其項□頭刀十口と書かれた木簡をはじめ、べっ甲製品の一部め琴柱・鳥形・刀子形・糸巻き形の各
木製品が出土しました。また多数のもも・すもも・なつめ・かき・くり・べにばななどの果実の種・花粉が見つかり
ました。これらの出土品は当時の邸宅内のくらしぶりの一端をうかがうことのでさる貴重な資料です。
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■メスリ山古墳・コロコロ山古墳■北緯34度30分03.4秒■東経135度50分37.1秒
現在、古墳公園に整理されているメスリ山古墳
メスリ山古墳は磐余の里(桜井市)の阿部・高田・上之宮の三地区にまたがる丘陵上に位置します。前方部側の丘尾を削り後円部を盛土した、全長約224m後円部径約128m高さ約19m前方部幅約80m高さ約8mの前方部二段で後円部三段造りの前方後円墳です。葺石がめ
メスリ山古墳の埴輪
メスリ山古墳の主室
メスリ山古墳の副室
ぐり墳頂部には方形に大型円筒埴輪が立てられていた。その内部に全長約8mの第一竪穴式石室と、その東
に副葬品のみを収めた第二竪穴式石室が作られていた。第一石室は盗掘されていますが鏡・玉・剣が残って
いました。第二石室は末盗掘で多量の鉄製武器類が発見され王者の象徴である玉杖も出土しています。特に
鉄製の弓・弦・矢は実用品とは考えられず将軍のような軍事にかかわった人物の象徴として副葬されたとみら
れています。磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、かつ王権や軍事権をも掌握した人物が披葬者とし
て推定されています。メスリ山古墳の周囲に七世紀になって大型方墳群を作った阿倍氏の存在から氏の祖
「オオビコ」の墓説も考えられるそうです。四世紀前半代の王墓の一つとされています。昭和五五年三月一四
日史跡指定されました。
■コロコロ山古墳
コロコロ山古墳の羨道コロコロ山古墳の石室内部
コロコロ山古墳はメスリ山古墳の北西角、住宅地に面し高い金網に囲まれた中に「コロコロ山古墳」がありま
す。1987年桜井南部特定土地区画整理組合が近くから移築し保存しているもので、一辺約30m高さ約3mの
方墳で埴輪や葺石は無いものの中央の横穴式の石室は全長約11m玄室長約5.5m玄室幅約2.5羨道長さ約5.
5m羨道幅約1.5mの大型の横穴式石室です。東隅に小型小石室もあったが天井石は取り去られていたために
現在はコンクリートの屋根を付けて保存されています。昭和五九年に古墳であることが判明、翌年の発掘調査
で六世紀後半代の豪族の墳墓であることが判りました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■等彌神社(とみ神社)
■北緯34度30分22.1秒■東経135度51分09.1秒 等彌神社
■北緯34度30分23.0秒■東経135度51分18.4秒 霊畤拝所の碑
■北緯34度30分16.0秒■東経135度51分34.0秒 拝所から上山の句碑
■北緯34度30分20.8秒■東経135度51分09.7秒 等彌神社の神武天皇聖蹟磐
上津尾社苔むした神社境内
大小様々な大きさの石灯籠珍しい亀形の手水舎
霊畤拝所の碑霊畤拝所から上山の句碑
白庭山の白庭石碑と霊畤石碑等彌神社南側の神武天皇聖蹟磐
等彌神社は延喜式内社で創建の年月は明らかではないようです。神武天皇時代に鳥見山の中に建立され
ていたそうである。鳥見山の西麓を能登山というところから地元では「能登の宮」とよばれ桜井市の鎮守社とし
て地元信仰があつく、天永三年(1112年)霧雨による山崩れにより鳥見山の山中から現在地に遷されたそうで
す。またこの神社は、上津尾社・下津尾社からなり祭神は天照大神・春日大神・八幡大神を祀る。歴代の皇
族・宮家系の参拝が多く神武天皇伝承の社でともいわれています。等彌神社の参道には小振りであるが約
165基の石灯籠が建ち並び境内は綺麗に整理され、美しい苔のジュウタンが一面に広がります。新緑の季節
には心が癒される神社です。この神社の上津尾社の境内から鳥見山(245m)の山頂に向かって登ることが出
来ます。鳥見山山頂の霊畤拝所の碑から斎場山の句碑とつづき、ここから白庭山の神武天皇即位後、高
祖天神を祀るために築いたところ『霊畤』へと道がつづいています。また毎年五月一三日に鳥見霊時顕彰会に
より、この「霊畤拝所」で大祭が行なわれているそうです。※白庭石碑・霊畤石碑の写真は宗像会館HP管理
者のSAKAMOTOさんに提供していただきました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■談山神社大鳥居(だんざんじんじゃおおとりい)■北緯34度29分56.9秒■東経135度51分03.4秒
談山神社一ノ鳥居九条道孝氏、筆の銅額
談山神社大鳥居は御破裂山(標高607m)の南山腹に面して鎮座する談山神社の一ノ鳥居です。この神社
の磐余の里の入り口(北の入口)として位置した大鳥居です。また大鳥居は御破裂山から切り出した花崗岩で
造られ高さ約8.5m長さ約11.5mの鳥居です。鳥居西側の端が昭和二三年頃の火災で欠けています。鳥居上
の銅額は貞明皇后(大正天皇皇后)の父、九条道孝(くじょう みちたか)氏の筆といわれています。
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■聖林寺(しょうりんじ)■北緯34度29分30.6秒■東経135度51分07.2秒
城壁のような石垣から三輪山・古墳群等一望できる聖林寺正門
聖林寺は真言宗室生寺派の寺院です。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩(石造地蔵菩薩坐
像)で開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされています。聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下
ろす小高い位置にあって伝承では和銅五年(712年)に妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長
子・定慧(じょうえ)が創建したという。その後、南部興福寺と妙楽寺は対立し興福寺僧兵の進攻で被災、承安
三年(1173年)には全伽藍が焼失した。当時の伽藍は失っているが天平以来の仏像や仏画等を今に伝えてい
る。また、妙楽寺の後身である談山神社は聖林寺の南方の山中に位置していました。聖林寺の近世までの歴
史は謎の部分が多く妙楽寺とともに大神神社(おおみわじんじゃ)とも関連が深い寺院であったと思われてい
ます。江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山の遍照院を移して再興したといわれています。
江戸中期に本尊・子安延命地蔵菩薩像が造像され安産・子授けの祈祷寺としても栄えました。この地蔵像は
元禄期(1688年〜1703年)に文春諦玄という僧が女性の安産を願って各地に勧進し造立したものです。明治
の神仏分離令を前に慶応四年(1868年)に大神神社の神宮寺であった大御輪寺(だいごりんじ・おおみわで
ら)より十一面観音菩薩立像が移されました。現在は本堂に子安延命地蔵坐像(江戸時代の石造彩色像)、観
音堂(大悲殿)に木心乾漆十一面観音立像(奈良時代末期)【国宝】・元清水寺管長・大西良慶筆の扁額が置
かれています。拝観案内 :9:00〜16:30 拝観料 400円 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■崇峻天皇(スシュンテンノウ)陵■北緯34度29分24.4秒■東経135度51分35.0秒
倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)は第三二代峻天皇の墓とされています。崇峻天皇は欽明天皇の第十二皇子で母は蘇我稲目の女・小姉君(おあねのきみ)です。敏達天皇・用明天皇・推古天皇の異母弟にあたります。日本書紀の崇峻天皇五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調(ちょう)を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」と記されてい
現在は崇峻陵は倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた桜井市倉橋の小字で天皇屋敷にあって同地には崇峻天
皇ます。の位牌を祀る金福寺があることから陵地として明治二二年(1889年)に決定したそうです。また根拠に
乏しく近年では桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるよ
うになっています。六世紀末〜七世紀初頭に築造された方墳であり東西44.5m南北42.2m高さ約9.1m全長約
17mの横穴式石室があります。崇峻天皇の即位は大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一
方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとしたが穴穂部皇子は蘇我
馬子によって殺されてしまう。その後、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまったそう
です。物部氏の没落により欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの
造寺事業を積極的に行った。だが即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っていて崇峻天皇は次第に不
満をつもらせるようになる。崇峻天皇五年(592年)十月四日に猪を献上する者があり天皇は笄刀(こうがい)を
抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発
言した。そのことを聞きつけた馬子が天皇は自分を暗殺しようとしている、と警戒し部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたい
こま)の手により暗殺させた。臣下により天皇が殺害されたのは確定している例では唯一である。死亡した当
日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは他に例が無いそうです。また、崇峻天皇を暗殺した東漢直駒も蘇我
馬子により暗殺されました。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されてい
ます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■大和音羽観音寺(やまとおとわかんのんじ)■北緯34度28分45.0秒■東経135度52分46.5秒
尼寺三六カ所霊場第六番旧新西国第十一番札所【旧女人禁制寺】
万葉集に記されている音羽を詠まれた歌
万葉集第3巻0290 倉橋の山(音羽山)を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき
万葉集第7巻1282 はしたての倉橋山(音羽山)に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲
万葉集第7巻1283 はしたての倉橋川(音羽川)の石の橋はも男盛りに我が渡りてし石の橋はも
万葉集第7巻1284 はしたての倉橋川の川(音羽川)の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅
霊玄の世界の雰囲気が漂う音羽観音寺
無常橋
大和音羽観音寺本堂
大和音羽観音寺は山号を音羽山、寺号を観音寺という。本尊は千手千眼十一面観世音菩薩である。藤原鎌足公を談山妙楽寺(現在の談山神社)に祀った際、鬼門除けの寺として丑寅の方角音羽の地に一寺を建て、鎌足公自作の梅の木の観音像を祀ったのが始めと伝えられています。奈良時代の観音信仰が篤かったころは、霊場として賑わい、壮大な堂宇がこの山中に軒を連ね、その有様は音羽百坊とよばれていました。多武峰(とうのみね)略記によると天平寛宝元年(749年)に心融法師が当山を創建したと記されています。また
本尊の千手千眼十一面観世音菩薩像
京都清水寺の開祖延鎮僧都が霊感を得て堂宇を建立したのが始まりともいわれています。本尊の体内にも
「比の本尊は山城の国清水寺の観音と一体分身の千手観音也」と墨書きが残っていました。清和天皇の貞観
十八年(876年)「音羽流れ」と記録に残る豪雨と山津波で堂宇が崩壊し残った一寺であると伝えられていま
す。寺名も香法寺・善法寺と変わりながらも、本尊の千手千眼十一面観世音菩薩は眼病平癒に霊験があり
『音羽の観音さん』と親しまれ、地元及び県外からも多く訪れる信者で賑わい、多くの信者の力で維持され現
在にいたっているそうです。また観音寺にお参りすることにより現在病のメタボが改善されるといわれます。
樹齢五百年の葉に付いたギンナン県指定天然記念物「お葉付き銀杏」
寺境内には、大きな銀杏の木が根を下ろしています。これが樹齢五百年以上といわれている県指定の天然
記念物「お葉付き銀杏(いちょう)」があります。お葉つきとは、その名の如くイチョウの葉に、ギンナンがついた
ものを言います。イチョウが下等なシダ類のように胞子を作る胞子植物と種子を作る種子植物との中間性をお
びていることは、受精に際してシダ類と同様に運動する精虫ができるので知られている。シダ類がその胞子を
葉につけるのと同時に、お葉つきイチョウがその種子を葉につける現象は、植物の系統的進化発生を示すもの
で学術研究資料としても、きわめて貴重な存在として知られている。昭和五二年の記録では目通り4.8m高さ
25mの巨木です。現在では、もう少し大きくなっています。
■観音寺の手水鉢を支える四体の力士像
観音寺の水鉢を支える力士像出雲十二柱神社の狛犬台座を支える力士像
寺境内にある手水鉢を支える力士像は合計四体。全ての力士の形が異なり、それぞれが相撲の型になる。
これと同じく桜井市出雲の十二柱神社の狛犬台座を支える力士像も合計八体。全ての力士の形が異なり、そ
れぞれが相撲の型になる。この出雲には野見宿禰(ノミノスクネ)の五輪塔(十二柱神社境内)があります。
由来は垂仁天皇の命により三輪山に召して相撲をとらせて宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記されて
います。その相撲跡カタケヤシは現在の桜井市穴師(あなし)にあって相撲起源の伝承地として広く世に知
られています。桜井市出雲には古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌
倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していましたが、明治十六年農地整理により塚
は形を失い墳上の塔をここに移して祀りました。物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されていま
す。野見宿禰は日本書紀に登場する人物で出雲国の勇士です。天穂日命の十四世の子孫であると伝えられ
垂仁天皇の命により、当麻蹴速(タイマノケハヤ)と野見宿禰と相撲を取って野見宿禰が勝ちました。垂仁天皇
は、野見宿禰に、ほうびとして当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えた。その後、野見宿禰は朝廷に
末永く仕えたそうです。野見宿禰(ノミノスクネ)は桜井市出雲の人とも伝えられています。出雲の力士像と
音羽の力士像の関係は・・・・。なんとなく謎めいた歴史的なロマンです。
■伝説の音羽十石
境内にある音羽十石『平等石』境内にある音羽十石『亀石』
観音寺に伝わる伝説の音羽十石として平等石・亀石・音石・立石・福石・光石・ヨボ石・ハビ石・尻掛石・
荒神石の名が伝えられています。中でも音石・光石はこの寺の創建にかかわる伝説の石である。大正年間に
氏神の玉垣を改修するに当たり、この巨石を割り石垣等に使用したため、残念なことに今はその石を見ること
が出来ません。しかし小字名として「光石山」の名が寺の直ぐ近くに残っています。
また、ここ多武峰谷一帯は優れた薄墨桜(江戸彼岸)が自生していて鼓(つづみ)の発祥地として歴史に名をのこしています。南音羽村に折枝道香という名工が住んでいて筒工の元祖といわれています。この道香の作風は「南音羽の流派」とよばれ作柄は上作とされ「誠ニ妙器也」と絶賛されていました。とりわけ南音羽は優れた名品を万葉人に作り出していたそうです。昔は鼓の里ともよばれていました。
音羽観音寺は磐余の里の『猫のぽん』HP内にWide版が掲載されています。
http://www.geocities.jp/takeoka72002/
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■多武峰(とうのみね)談山神社(だんざんじんじゃ)■北緯35度27分54.7秒■東経135度51分41.5秒
楼門から見る本殿【重文】
拝殿内より見る本殿【重文】
談山神社(たんざんじんじゃ)は磐余の里(桜井市)多武峰(とうのみね)にある神社です。祭神は藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。春・秋に行われるけまり祭や桜と紅葉の名所として有名です。この神社は神仏分離以前、寺院であり多武峯寺という名でよばれていました。鎌倉時代に成立した寺伝によると藤原氏の祖である藤原鎌足(フジワラノカマタリ)の死後の天武天皇七年(678年)長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(阿武山古墳)からこの地に移し十三重塔を建立したのが始まりです。天武天皇九年(680年)に拝殿(講堂)が創建され当寺を妙楽寺と号した。大宝元年(701年)には十三重塔の東に鎌足の木像を安置する本殿(祠堂)が建立され聖霊院と号した。談山の名の由来は藤原鎌足と中大兄皇子(オオエノオウジ・天智天皇)が大化元年(645年)五月に大化の改新の談合をこの多武峰で行い、後に
藤原鎌足
総社拝殿【重文】総社本殿【重文】
森談い山(かたらいやま)・談所ヶとよばれたことに由来します。平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を宗招聘するなど藤原氏の繁栄と共に発展を遂げました。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学したそうです。平安時代に天台僧・増賀を迎えたことにより、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、派の違う興福寺とは鎌倉時代から室町時代にかけて領地などを巡り争いがおこっていました。天正一三(1585年)豊臣秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座しました。天正一
神廟拝所【重文】
十三重塔【重文】十三重塔と改修工事中の権殿【重文】
八年(1560年)年に帰山を許され徳川家康により復興した。近世の朱印領は三千石余であった。明治二年(1869年)に僧徒が還俗。談山神社と改称されました。仏教伽藍は現代も談山神社境内で見ることができます。明治の廃仏毀釈の影響をうけ寺を廃し神社のみとなりましたが建物は寺院建築を使用しているため独特の雰囲気を残しています。談山神社から御破裂山への山道があって山頂付近に藤原鎌足の墓所といわれる陵があります。談山神社から少しの所に藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔があ
龍王の出現の閼伽井屋【重文】
談い山 頂上付近・標高566m
談い山にある石碑
ります。【戦前に拝殿や十三重塔は何度か日本銀行券(百円)の図案に採用されました】文化財として■考古
資料として国宝では奈良国立博物館に安置されている粟原寺の遺物として粟原寺三重塔伏鉢(おうばらでら
さんじゅうのとうふくばち)です。伏鉢は三重塔・五重塔などの最上部に立つ相輪の部材の一つ。銅製で和銅
八年(715年)の年号を含む刻銘があり中臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)が草壁皇子のために発願
したという粟原寺の由緒が記されています。境内に閼伽井屋(あかいや)という仏前に供える為の神聖な水を
■御破裂山(ごはれつやま)藤原鎌足の墓所■北緯35度28分16.4秒■東経135度51分40.4秒
くむ井戸があります。この井戸は摩尼法井(まにほうい)と呼ばれ往古、定慧和尚が法華経を講じた時に龍王
の出現があったといわれています。■その他の重要文化財として東透廊・西透廊・楼門・東宝庫・西宝庫・摂
社東殿・末社惣杜本殿・末社惣社拝殿・末社比叡神社本殿・摩尼輪塔などです。御破裂山(御廟山)は標
607mの山です。この山の頂上に藤原鎌足の息子である定恵が父の遺骸を改葬した所といわれていて周囲
270mの円墳です。この名の由来は世に何らかの異変のある前に必ず一山鳴動する山ということです。鳴動が
起こる場所により異変が起きる所が特定されるといわれます。天下異変の前兆として、聖霊院の鎌足像が破
裂し山上大鳴動が始まり、その時に僧は朝廷、藤原氏長者に上申しました。朝廷からは使臣派遣して平癒祈
願したそうです。大職冠神像破裂記に破裂した記録があるそうです。またこの墓所の裏には真新しい藤原家
の墓があります。また談山神社の西方には西大門跡があって当時『女人禁制』であったことが現在も石柱が
女人禁制の石柱女人禁制の石柱 解説石碑西大門跡の石仏
物語っています。これより西方(北山方向)に行くと左手に念誦窟不動尊(ねずきふどうそん)の案内石柱があ
ります。この不動尊は経堂ケ谷の不動磨崖仏で高さ約128p顔が優しく表現され、火焔光背(かえんこうはい)
を彫りくぼめてあり不動尊を半肉彫にした珍しい不動尊です。延文三年(1358年)に彫られたそうです。この
動尊より西方に行くと、右手に多武峰奥の院の念誦窟(ねずき)という所があって増賀(しょうが)上人が入滅
された山地です。念誦窟とは日本書紀によると斉明天皇の行宮(あんぐう)のあった両槻宮(ふたつきのみや)
がその名の起こりともいわれています。また嘉永六年(1853年)には紫蓋寺(しがいじ)があったといわれていま
す。この墓地へ続く道を上ると二体の石仏と二基の石造物が背を向けて立っています。この上段に紫蓋寺跡
■念誦窟不動尊(ねずきふどうそん)■北緯34度28分04.7秒■東経135度51分18.2秒
優しい顔つきで出迎える経堂ケ谷の不動尊
あって、この広場から急な150の古びた石段を登り切ると増賀上人が即身仏に成られたというがあります。石造りがの方形墳で二重の石段の上に更に二重の石を積み上げた珍しい墓です。下段の円の直径が約4m上段、下段あわせて高さ約2mあります。この円墳は当時、お堂の中にあったと思われる形跡が左右の石垣に残っています。また当時、南・無・増・賀・上人と刻んであった五輪塔も現在は地輪のみ残っています。増賀上人とは参議、橘恒平(たちばなのつねひら)の子であり幼い頃から信仰心が厚く逸話に富む聖(ひじり)だったそうです。最初、天台宗比叡山中興の祖といわれる慈惠(じえ)僧正(元三大師良源・がんさんだいしりょうげん)の弟子であった。慈恵について修行していたが、悟るところがあり多武峯に入山し、念仏三昧(ねんぶつざんまい)
■念誦窟(ねずき)の増賀上人墓所■北緯34度28分02.6秒■東経135度51分08.5秒
で八七才の生涯を終えた高僧です。増賀上人は今昔物語によると臨終の長保五年(1003年)六月八日【みつはさす八十余りの老の波海月(くらげ)の骨にあひにけるかな】の辞世をのこし翌九日金剛印を結び没したといわれています。歌の意味は【八十余の老年に及びやっと会いがたい幸にあうことができて何よりもうれしい】というのである。また徒然草に【増賀ひじりのいひけむやうに名聞くるしく……】との一文がある。これは世間的に名をなした坊さんより世間と没交渉で行いすましてい
履た増賀上人のような人がむしろ慕わしいと、名利を弊(へいり)のごとくきらったこの高僧をたたえたものだそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■被不動尊と不動延命滝
被不動尊
不動延命滝
談山神社東大門にある石燈篭
■安倍文殊院(あべのもんじゅ)■陰陽師・安倍晴明の陰陽道修行の場
■北緯34度30分11.3秒■東経135度50分27.3秒
安倍文殊院は華厳宗の寺院で山号は安倍山で本尊は文殊菩薩です。創立者は大化改新の時に左大臣として登用された、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ・阿倍内麻呂)といわれます。また切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられています。創建当時の寺地は現在の文殊院の
美しい屋根瓦文殊池の中に建つ金色の六角堂
西南300mところであり、鎌倉時代に現在地に移されました。旧寺地は安倍寺跡として国の史跡に指定され史跡公園として整備されています。安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていて出土した古瓦の様式年代からも創建が七世紀にさかのぼる寺院跡であると見られています。東大寺要録、巻六には東大寺の末寺の1つである崇敬寺が安倍倉梯麻呂の建立であることと、崇敬寺の別名が安倍寺であると記されています。また■創立者である安倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)は飛鳥時代の政治家であり阿倍
安倍文殊院楼門
鳥子の子です。日本書紀で阿倍麻呂・阿倍倉梯麻呂と記される人物は同一と考えられています。推古天皇三
二年(624年)大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上して
います。推古天皇はこの要求を拒否したそうです。推古天皇三六年(628年)推古天皇が崩御すると田村皇子
と山背大兄王が有力な皇位継承候補となり大臣の蘇我蝦夷は内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承につい
て諮った。群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子が推古天皇の意中であったと主張したそうです。
蝦夷の望みも田村皇子であり田村皇子(舒明天皇)が即位しました。皇極天皇四年・大化元年(645年)中大
兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され父の蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡しました。これを乙巳の
変といわれる。皇極天皇は譲位し孝徳天皇が即位して新政権が発足しました。左大臣には内麻呂が右大臣
には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、各々金策を賜っています。内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また
娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、皇后は有間皇子を生んでいることから新政権の中枢に入れられたと考えら
れます。内麻呂のもう一人の娘、橘娘は天智天皇の妃になり明日香皇女・新田部皇女を生んでいます。大化
四年(648年)に内麻呂は四天王寺で仏像四体を迎えて法要をとり行ったそうです。この直後に右大臣の石川
麻呂は謀反の密告があり自刃に追い込まれ大化五年(649年)内麻呂は死去した。孝徳天皇が朱雀門まで来
て哀悼し皇極上皇・皇太子をはじめ群臣が哀哭したそうです。■文殊院の境内は本堂、寛文五年(1665年)に
建立されました。本尊は鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で木造騎獅文殊菩薩【重文】の「知恵の文殊」とし
て親しまれています。巨大な獅子にまたがる総高約7mの仏像及び文殊菩薩像を四体の脇侍像【重文】が取り
囲む文殊五尊像が安置されています。文殊五尊像の脇侍は普通、善財童子、優填王(うてんのう)、最勝老
人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像
を「須菩提」とよばれます。維摩居士像は後世の補作です。金閣浮御堂(仲麻呂堂)は昭和六十年(1985年)
に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で安倍仲麻呂像・安倍清明像などを祀っています。白山神社
本殿【重文】は室町時代後期の建立された流造柿葺の建物で縁結びの神として知られています。
文殊院西古墳(特別史跡)
文殊院西古墳の羨道
文殊院東古墳(特別史跡)
文殊院東古墳の羨道
また、文殊院西古墳(特別史跡)は本堂近くにある七世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であ
ることはほぼ確実視され安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれます。古墳の施設は不明、径約25mの円墳であ
ったと見られます。横穴式石室が露出しており切石造石室の代表的なものとされています。文殊院東古墳
は七世紀前半に築造されたといわれる古墳で古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ信仰の対象とされてき
ました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■谷首古墳(たにくびこふん)■北緯34度30分03.4秒■東経135度50分37.1秒
羨道口
広い石室
谷首古墳は安倍文殊院の東南、同じ阿部丘陵上の標高約100mに位置する方墳で谷汲古墳ともよばれています。 東西約35m南北約38m高さ約8.2mです。墳丘の北側と東側には丘陵を切断した掘割があって空濠状の地形となり、西側には墳丘墳頂部に八幡神社があり古墳築造当初の形状は確認出来ません。埋葬施設は南側に開口する横穴式石室を開口していて東側の袖が短く片袖式ともいわれます。石室の規模は玄室長さ約6m幅約2.8m高さ約4m羨道長さ約7.8m幅約1.7m高さ約1.8mです。石室は花崗岩の巨石を用いて
石室より見た羨道
築かれており奥壁二石、玄室天井石二石、羨道天井石は四石からなります。古墳の築造は石舞台古墳、赤
坂天王山古墳との比較から六世紀末葉〜七世紀初頭頃と推定されています。羨道入口の天井石が斜めに崩
れ落ちていますが羨道の中に入ることが出来ます。昭和三十三年三月二十日史跡に指定されました。
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■安倍寺跡(あべてらあと)
■北緯34度30分05.4秒■東経135度50分21.2秒 安倍寺跡
■北緯34度30分06.3秒■東経135度50分21.6秒 瓦窯跡
■北緯度分秒■東経度分秒 七ッ井戸
安倍寺跡の碑
安倍寺瓦窯
安倍寺跡は孝徳天皇(コウトクテンノウ)勅願で大化の改新時の左大臣安倍倉橋麻呂(アベノクラハシマロ)に
よって建立されました。山田寺の創建時代(641〜685年)とほぼ同年である。伽藍が整備されたのは安倍朝
臣御主人(アベノアソンミウシ)の時代に完成したとされる。また平安末期には衰退し鎌倉時代には火災で焼
失。後に遺跡の東北300mのところにある現在の「安倍の文殊」として知られている文殊院に移ったそうです。
旧阿部地区二階堂の仲麿屋敷とよばれる方形の土壇周辺で、安倍寺跡といわれていた。昭和四二年の発掘
調査で寺の範囲は約二町(200m)四方で伽藍は南面し中門・塔(西方15m土壇)・金堂跡(東方の土壇)・北方
に講堂・回廊等の建物跡が確認されました。北に講堂跡が推定され法隆寺様式及び川原寺式の伽藍配置に
近いとされています 出土品としては唐草文の瓦や弥生式土器・土師器・須恵器・鉄器等が出土、他に中世の
灯明皿や金堂跡南側から磚仏の破片も出土しました。また安倍の文殊院建立用の瓦を焼いたのが、この安倍
寺講堂推定地の西にある安倍寺瓦窯(国指定史跡)とみられる。鎌倉時代の平窯式とよばれる窯が五基残
存し保存されています。安倍寺跡は昭和45年3月11日(国指定史跡)指定・現在安倍寺跡は盛り土によって建
物跡の基壇が復元され史跡公園として保存されています。また安倍寺跡から西方に旧橋本地区(現在は安倍
■七ッ井戸
写真中央ススキの群生している所に水源があります
木材団地1丁目)とよばれるところに七ッ井戸があります。ここは湧水の湧き出し口で現在も湧いており、阿
部・吉備地区の灌漑用水となっています。地元では吉備大臣(吉備真備)が作ったといわれています。現在は
都市公園として保存されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■磐余稚桜神社(いわれわかさくらじんじゃ)■北緯34度29分56.7秒■東経135度49分53.0秒
磐余稚桜神社は磐余池の辺の神社です。また、この池の畔には神功皇后(ジングウコウゴウ)の磐余稚桜宮、第十七代履中天皇(リュウチュウテンノウ)の磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)・第二二代清寧天皇(セイネイテンノウ)の磐余甕栗宮(いわれみかぐりのみや)・第三一代用明天皇(ヨウメイテンノウ)の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)等があって稚桜神社から約300m西南、池の内の村はずれに土地の人々が「おやしき」と呼んでいる小高い丘がありま
す。東側は畑地で西は櫟林(くぬぎばやし)北側の傾斜地は孟宗薮となっています。この場所が第二六代継体
天皇(ケイタイテンノウ)の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)があったといわれています。稚桜神社の祭神
は出雲色男命(イズモシコオノミコト)・去来穂別命(イサホワケノミコト・履仲天皇)・気長足姫命(オキナガタラシヒ
メノミコト・神功皇后)です。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■磐余池(いわれのいけ)
■北緯34度30分03.4秒■東経135度49分35.9秒 磐余池跡 
■北緯34度30分22.5秒■東経135度49分59.9秒 神武天皇聖蹟磐
■北緯34度30分21.1秒■東経135度49分58.9秒 吉備春日神社
■北緯34度31分13.7秒■東経135度51分24.7秒 仏教伝来の地
■北緯34度30分18.7秒■東経135度49分57.9秒 吉備池廃寺跡(百済大寺)
磐余の里には第十七代履中(リュウチュウ)天皇が二年十一月に磐余の地に池を造ったと記されている磐余池という大池があり神功皇后の稚桜宮・清寧天皇の甕栗宮・用明天皇の池辺雙槻宮もこの池のほとりに造られていたそうです。また、大津皇子が持統天皇による刑の宣告を受けて詠んだ歌「百伝(ももづた)ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 」【訳】磐余の池で、ああ鴨が鳴いた。じっと見ると、物陰に鴨はいる。ぽっつりと浮かんで。これを見納めとして私は死んでいかねばならぬのか。貴い天皇の子である私が。
磐余の池跡伝承地
神武天皇聖蹟磐余邑の碑
磐余邑春日神社
と詠みながら、磐余池の辺を歩いたともいわれます。今では春日神社の境内に磐余邑の碑があるだけで
す。また桜井市には磯城島とよばれる地があり紀元前から六八年という長い間、崇神天皇の磯城瑞垣宮があ
り、この御代に神皇分離が行われ天照大神を檜原神社に祀りました。それ以来この付近が上古の都の地にな
り名高くなりました。敷島の大倭と続くのは敷島の地が大倭郷に属している処から石上布留というのと同じ枕
詞となり島とは宮廷領の一区域を指す言葉で「しきしま」は後に大和になって日本の国を指す言葉になりまし
た。万葉集に「磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ」【訳】大和の国は言葉に霊力がひそんでいる国である。私が今、祈っているので効き目がないわけがない。無事帰って来るに違いない。と海路の無事を祈った歌があります。また「敷島の大和国の明けらけき名に負う伴の緒心努めよ」【訳】大伴家持が我々大伴氏は潔白な心で仕えて来たとの評判を持っている。疑いをかけられてはならない。心を励まし一所懸命まごころのある行動をせよ。と一族を喩した歌です。この瑞垣宮から東南で初瀬川と粟原川との間に欽明天
吉備池廃寺跡・百済大寺(くだらおおでら)
皇の磯城島金刺宮がありました。この御代の六世紀半ばに仏教が初めて我が国に渡ってきた所(桜井市金
屋)であり、この地は国際都市として大いに繁栄していました。古代の市場、海石榴市があるのも、この地で
す。都の名が国の称えとなった例は無く磯城島金刺宮こそ大倭朝廷の勢力のある都ともいわれています。
また春日神社南方に吉備池とよばれる池があって吉備池周辺を発掘調査していた奈良国立文化財研究所が
最近池の底で古代寺院跡を発見し、これを吉備池廃寺跡と名付け、百済大寺(くだらおおでら)の跡に違い
ないと発表したそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■山田寺跡(やまだてらあと)■北緯34度29分04.4秒■東経135度49分48.0秒
当時の大伽藍の面影を残す広大な山田寺跡
山田寺跡は磐余の里、山田にあった古代寺院です。法号は浄土寺・華厳寺とよばれています。蘇我倉山田
石川麻呂(ソガノクラノヤマダノイシカワノマロ)の発願により七世紀半ばに建て始められて大化五年(649年)
に石川麻呂が没した後に完成しました。平安時代には藤原道長がこの寺を訪れています。扶桑略記によると
治安三年(1023年)山田寺を訪れた藤原道長は堂内の奇偉荘厳は言葉で言い尽くせないほどだ。と感嘆して
いて十一世紀前半には山田寺の伽藍は健在であったそうです。その百数十年後の記録である多武峰略記
(建久八年・1197年)によると当時の山田寺は多武峰寺(談山神社)の末寺となり伽藍は荒廃して、一部建物
は跡地のみになっていたことがわかるそうです。また明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となりました。その
後、明治二五年(1892年)に小寺院として再興され講堂跡付近に観音堂と庫裏が建つのみです。石川麻呂は
蘇我氏の一族であり蘇我馬子を祖父とし、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたります。石川麻呂は蘇
我一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対していて中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らの
反蘇我勢力と共謀し皇極天皇四年(645年)に起きた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)【蘇我入鹿暗殺】
に加担しました。乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられました。『日本書紀』によ
ると乙巳の変の四年後の大化五年(649年)石川麻呂の異母弟・蘇我日向(ひむか)は石川麻呂に謀反の志
があると中大兄皇子に密告しました。それを聞いた孝徳天皇は石川麻呂のもとへ天皇の軍勢を差し向けられ
ました。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害したそうです。石川麻呂は無実であり冤罪
(えんざい)であるとされるが事件の真相は謎である。山田寺の創建は『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく記さ
れており山田寺については、この史料が引用されます。同裏書によると舒明天皇十三年(641年)始平地とあ
り、この年に整地工事を始めて二年後の皇極天皇二年(643年)には金堂の建立が始まる。大化四年(648年)
には僧が住み始める。とあることから、この時期には伽藍全体の整備は未完成であったが寺院としての体裁
は整っていたと見られます。石川麻呂自害が大化五年(649年)起こり山田寺の造営は一時中断しました。そ
の後、天智天皇二年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ天武天皇五年(676年)に仏塔の
最上部の柱状の部分を上げる。とあることから、この年に塔が完成したものと思われます。天武天皇七年(678
年)には丈六仏像約4.8mを鋳造とあり、同天皇十四年(685年)にはその丈六仏像が開眼されています。現在
この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されています。また日本書紀には丈六仏開
眼の年である天武天皇十四年(685年)同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したと記されています。石川
麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には石川麻呂の孫にあたる持統天皇と夫の天武天皇の後援
があったと推定されています。また山田寺跡は昭和五十年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調
査が実施されています。発掘調査で昭和五十七年(1982年)東回廊の建物そのものが出土しました。土砂崩
れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱・連子窓などがそのままの形で
出土しました。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれな状況
であり日本建築史研究上、貴重な資料だそうです。出土した回廊のうち三間分が科学的保存処置を施し復元
された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されています。現在「山田寺跡」として国の特別史跡に指定
されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)■北緯34度30分56.4秒■東経135度50分53.7秒
茶臼山古墳は鳥見山から北へ平野部にのびる尾根の丘尾を切断して築造された大規模な前方後円墳です。後円部を北に前方部を南にした典型的な丘尾切断型の前方後円墳です。全長約207m後円部径約110m高さ約21.2m前方部幅約61m高さ約11mあって葺石をめぐらしています。埴輪はないが墳頂に方形にとり囲む壷の列があります。外形は前方部が細く長い柄鏡式と呼ばれる形態をもち後円部三段、前方部二段の段丘を持つています。後円部中央にある竪穴式石室は
古墳主軸の方向に構築されていて安山岩系の偏平な石材を小口積にし上部では花崗岩を混えて築成し全長約6.75m幅約1.13m高さ約1.6mで天井石は十三枚で全面に塗朱がありました 昭和二四〜二五年の橿原考古学研究所の発掘調査で石室内には巨木を刳り抜いた木棺の一部が残存していて鏡・玉・剣等の副葬品と共に王者の権威である玉杖が出土しています。副葬品から四世紀初頭の築造年代が推定され磯城地方の王者の墓にふさわしい古墳と考えられています。古墳の北200mの城島遺跡下田地区で築造時に使われたかと見られる多量の木製工具類が出土しました。容量の大きな東海や山陰の甕類が共存している。
昭和四八年三月二七日史跡に指定されました。



茶臼山古墳の竪穴式石室
■忍阪古墳群(おっさかこふんぐん)■北緯34度30分52.5秒■東経135度52分06.7秒
忍阪一号墳忍阪二号墳
忍阪八号墳忍阪九号墳
外鎌山北麓古墳群(脇本・慈恩寺・忍阪)は近鉄朝倉駅の東南、標高292.5mの外鎌山の北から西にかけて
の斜面に位置した古墳群で、団地造成に伴って発掘謁査されました。古墳群は総数三八基の古墳時代後期
と終末期古墳があり、東から竜谷支群13基・慈思寺支群15基・忍阪支群10基に別けることができるそうです。
竜谷支群は東端に位置する集合体で、十二基の古墳と一基の中世墓が調査されました。古墳はいずれも径
約10〜15m程度の小円墳で、埋葬施設は木棺を直葬するものと小型の横穴式石室に木棺を埋葬したものもあ
る。二号・十二号墳は木棺を合葬し、七号・八号はやや大型の石室であったそうです。出土の遺物は銑鏃・銑
刀・刀子・馬具・金環・玉類・須恵器・土師器などであるが、八号墳からは水晶製の三輪玉(大刀の把の飾り)
一点も検出されている。六世紀前半から後半にかけての群形成と考えられています。慈恩寺支群は中央部に
位置し、十五基の古墳が調査された。一号墳が立地・規模ともにすぐれており、径約22mの円墳か全長約45m
の前方後円墳の可能があるそうです。装飾付銀製中空勾玉・銀製空玉などの豊富な玉類のほか金環・銑鏃・
刀子などが検出され、一号墳以外はすべて径約15m内外の小円墳で四号墳が横穴式石室を内部構造とする
ほかはすべて木棺の直葬墳であった。四号墳は六世紀後半に下る以外は、六世紀前半から中葉にかけての
築造と推定されていいます。忍阪支群は西端に位置し、ほぼ西にのびる尾根上および南斜面に築かれ、最も
まとまりのある支群である。古墳は8〜15m程度の円墳であるが、八号・九号は多角形墳の可能性もある。出
土遺物では四号墳の第二次埋葬から鉄鏃・鉄鎌・須恵器のほかに優秀な鉄製轡一式があり、三号墳の石室
内に遺存した土器類は埋納時の状能をを良好にとどめ、古墳時代後期の葬送儀礼を知るうえで極めて貴重な
資料となった。七世紀後半から末葉にかけての八号・九号墳を除いて、六世紀の初頭から後半にかけての群
形成が考えられている。これら八基の古墳のほかに、奈良時代の火葬墓と、中世墓がそれぞれ一基、調査さ
れています。忍阪八号墳忍阪九号墳は忍阪支群の西端に位置し、東が八号墳、西が九号墳です。八号
墳は尾根の稜線から約10m降った南斜面に築かれた径約12mの円墳(多角形墳の可能性有り)で、周囲に幅
約3mの濠をめぐらす。埋葬施設は加工した室生安山岩によって築かれた磚槨式石室で、その平面プランは極
めて特異です。石室の南半分は失われていましたが最下段の石積の一辺は176.5pの正六角形で、南西に
羨道部か取付くと推定されています。石室には壁面にそって内側と石室外部に排水施設が設けられ石室外部
の排水溝は径約5.3mの正円形です。出土遺物は石室内から歯一個と銅製釘四、ガラス玉約百、須恵器杯蓋
片一、周濠より土師器甕一点です。九号墳も墳丘の南半分が破壊されていたが、墳丘の規模、外形や周囲の
濠は八号墳とほぼ等しかったと推定されています。埋葬施設も八号墳と同様の手法による磚槨式石室である
が、その平面は奥行約1.9m幅約2.62m奥行より幅が広く、特異な造りです。周濠外から土師器甕一点を検出
しましたが、この古墳のものであったかは不明です。両墳の築造の前後は明らかでないが、七世紀後半から
末葉にかけてと推定されています。慈恩寺一号墳の墳丘は後世の削平のため不明である。埋葬施設は地
山を掘り下げた二重墓壙に木棺を埋納した木棺直葬墓です。出土遺物および出土状況は金環二・装飾付銀製
中空勾玉七・銀製中空玉四六・琥珀製棗玉四・切子玉一・蜻蛉玉二が棺の中央から東よりに、滑石製臼玉一
四・ガラス製玉約百五十が棺全体から出土しました。鉄器、刀子一は棺内西より底部から出土し、鉄鏃四七本
は棺の東北棺外より一括して副葬してありました。忍阪三号墳の墳丘は削平のため残っていませんが掘割
りの底が一部、認められるので円墳と思われています。埋葬施設は南に開口する左袖の横穴式石室であり構
築された石材は、ほとんど抜き去られていますが石室内の遺存状態は良好で埋葬時の状態をよく残していま
す。施設は西側壁に接して棺台様の礫床を施し礫床の間から鉄釘が出土しているので木棺と考えられていま
す。遺物の出土状態は埋納時の状態に近いと思われ、棺台南辺より奥壁には正立して棺台南から羨道にか
けて倒立状態で出土し、古墳時代後期の葬送儀礼を知る上で貴重な古墳だそうです。これらの古墳は調査終
了後、忍阪一・二・八・九号墳は団地内の古墳公園に、三号墳は桜井市立文化会館前に移築されています。
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舒明天皇(じょめいてんのう)陵■北緯34度30分26.1秒■東経135度52分32.8秒
外鎌(とがま)山の西南麓の小尾根の先端に営まれた古墳、舒明天皇押坂内陵遙拝所
【古墳名】忍阪段ノ塚古墳押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)は第三四代舒明天皇の墓とされています。舒明天皇の皇子名は田村皇子(タムラノミコ)とよばれ。和風諡号は息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラノミコト)です。先代の推古天皇は在位三六年三月七日(628年)に崩御した時には継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り田村皇子を立てて天皇にしましたこれが舒明天皇です。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡(かいらい・操り人形)にしようとした説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説があるそうです。近年では欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いで、豪族達も両派に分かれたために蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方があります。舒明天皇の時代は政治の実権は蘇我蝦夷にあったそうです。在位中は最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けました。 唐には使者の他・学問僧・学生が渡り隋の頃に渡った者も含め僧霊雲・僧旻・僧清安・高向玄理が帰国しました百済と新羅からの使節も訪れたそうです。『本朝皇胤紹運録』・『一代要記』などでは四九歳で崩御と伝えられています。古い史料による確認は出来ないが母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである。)が舒明よりも二十年以上長く生きて天智天皇三年(664年)に死去している事や子である天智天皇らの年齢を考えると、正確な年齢ではないかと見られています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■鏡女王忍阪墓( かがみのひめみこおっさかのはか ) ■北緯34度30分28.3秒■東経135度52分37.8秒
鏡女王忍阪墓の石碑談山神社が管理している鏡女王の墓所
鏡女王忍阪墓( かがみのひめみこおっさかのはか ) は鏡王(カガミノオオキミ)を父に額田部皇女の孫で山
背姫王(ヤマシロノオオキミ)が母という王族の娘と言われています。額田王(ヌカタノオオキミ)の姉とされてい
る皇女の墓です。また、別名で万葉集では鏡王女(かがみのおおきみ)・日本書紀では鏡姫王(カガミノヒメミ
コ)という名前が記されています 。日本書紀には天武十二年(683年)七月四日に天武天皇が病気の鏡女王を
見舞いに行きましたが、その翌日亡くなったと記されています。鏡女王は謎の多い人物です。最初は中大兄皇
子(天智天皇)の妃になり、その後に大化の改新を推進する盟友で内大臣・中臣鎌足の夫人となり妹の額田
王は大海人皇子(天武天皇)の妃になっています。鏡女王は天智八年に藤原鎌足が重い病気を患った際に奈
良興福寺の起源となった山階(やましな)寺を夫の回復を祈って山背の地に造営したと伝えられています。そ
の後、壬申の乱で勝利した天武天皇が都を近江から飛鳥に戻すと、山階寺も移建され厩坂寺と呼ばれました
和銅三年(710年)には都が藤原京から平城京に遷されると鎌足の次男である藤原不比等が厩坂寺を現在の
地に移し寺号を興福寺と改めて藤原一族の氏寺としました。この墓の管理は宮内庁ではなく意外なことに中臣
鎌足を祀る談山神社が管理している墓所です。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■大伴皇女押坂内陵(おおとものひめみこおしさかのうちのみささぎ)
■北緯34度30分31.1秒■東経135度52分40.3秒
静かな山間の押坂内陵美しく管理されている遙拝所
押坂内陵(おしさかのうちのみささぎ)は大伴皇女の墓とされています。欽明天皇の第九皇女です。大伴皇
女は謎の多い人物で、日本書紀には欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩姫(キタシヒメ)との間に生まれた七男六
女の名前が記されています。その中に用明天皇や推古天皇の名もあり第九番目に大伴皇女の名があります
 諸陵式に『大和国城上郡押坂陵域内に大伴皇女の墓がある。』と記されているので現在、宮内庁が陵墓とし
て管理しているそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■石位寺(いしいてら)■北緯34度30分20.2秒■東経135度52分24.4秒
石位寺は忍阪高円山にある石像浮彫薬師三尊像(重要文化財)で有名な無住の寺であり寺の創建(四柱造
の堂は元禄)は不明です。この石位寺の石仏は本堂の裏に収蔵庫があり石仏の願主は万葉集の女流歌人額
田王(ぬかたのおおきみ)といわれている我が国最古の石仏です。正三角形をなす砂岩に彫った押し出し三尊
仏で縦1.8m横1.25mやや丸みのある厚さ35p砂岩に高さ6pの半肉彫りです。本尊は頭上に天蓋があり両脇
侍は立っています。また晩年に川端康成が石位寺の石仏を拝観した時に『ほのぼのとした暖かいものがある、
まるで美少女といった感じに見える』と言ったそうです。石仏拝観料は200円、拝観期間は3月〜5月・9月〜11
月で拝観時間は午前10時から午後4時迄連絡先は桜井市観光協会(TEL 0744-42-9111)
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■越塚古墳■北緯34度29分52.7秒■東経135度52分57.3秒
羨道口
石室奥(北側)の巨石
越塚古墳は音羽山から粟原川に向って西北にのびる尾根上に築かれた古墳で、赤坂天王山古墳の東約700m下り尾集落の最東端に位置します。墳丘はかなり損なわれていますが二段築成の円墳で径約43.5m二段築成と思われます。外部施設の埴輪、茸石は認められません。横穴式石室が南南西に開口しているが石室の規模、架構の石はきわめて大きく、巨石古墳の一つです。玄室は長さ約5.3m幅約2.75m高さ約3.85m花崗岩の巨石を三段に積み、上段をやや内に持って天井石二枚で覆っています。羨道は長さ約10.7m幅約
石室の組合式石棺跡
1.8m高さ約1.8m袖は左右ほぼ均等です。玄室との境に大きな一石を立て、あとはやや小さめの石を二段〜三
段に積み側壁として四枚の天井石で覆っています。玄室との境に接する天井石(見上げ石)はとくに巨大で石
舞台古墳のそれに匹敵するほどです。石室の床には拳大の礫が敷詰められ凝灰岩の組合せ式石棺の破片
が遺存しています。周辺に浅い溝の刻まれた板石は棺底で、その溝の形状から一部を欠失しています。現在
の二個を併せた長さ約2.2m以上の大型の組合式石棺と思われる。残りの一片にも溝は刻まれていますが溝
の幅はやや狭く棺のどの部分に相当するのか不明であり棺の原型は不明です。副葬品など遺物については
全く知られていないが石室の型式から六世紀末頃の築造と推定されています。粟原谷を見下す丘陵中腹部に
位置しており、粟原寺造営に関連した人々につながる豪族たちの奥津城ともいわれています。昭和四八年に
県の史跡に指定されました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■赤坂天王山古墳■北緯34度29分58.9秒■東経135度52分28.6秒
赤坂天王山古墳は粟原川の左岸、西北にのびる尾根の先端に築かれた大きな方墳です。国史跡の一号墳を中心に六基の横穴式石室墳により形成される群集墳です。群の中心である一号墳は墳丘の南北は約42.2m東西は約45.5m高さは約9.1m三段築成で、埴輪・葺石は持たない、やや高い第一段の上にほぼ高さの等しい第二・第三段を重ね墳頂部は一辺約12mの平坦です。埋葬施設は横穴式石室で玄室は墳丘のほぼ中央に位置し羨道は南斜面に開口しています。石
赤坂天王山古墳の南方から見える全景
赤坂天王山古墳一号墳の羨道
赤坂天王山古墳一号墳の石室と石棺(盗掘跡)
室は巨大な花崗岩の自然石を使用する巨石古墳です。玄室は具さ約6.3m幅約3m高さ約4.2m基本的に三段に積上げてあり、その間隙には小石を併用して巧みに上部を持送り床面には礫石が敷かれています。羨道は土砂に埋もれています。また羨門部の封土はえぐり取られた形に大きく凹んでいるので詳細は不明です。現在の長さ約8.5m幅約1.8m高さ約2m玄室との境の側壁に一つの巨石を立て、あとは若干小さめの石を二段に積み、五個の天井石を架しています。この天井石は羨門に近づくにつれて、やや上りぎみに架けられています。羨道の入口付近には閉塞石と思われる人頭大の石がまとまって残っています。羨門部の破壊を復元すると石室の全長は約17mにも達するそうです。また玄室の基底面が深い所に位置する点が注目されるそうです。玄室の中央から少し北寄りに凝灰岩の刳抜式家形石棺が安置されています。棺身の長さ約2.4m幅約1.7m高さ約1.2m棺蓋の前後左右には計六個の縄掛突起が水平にとり付けてあります。また、この石棺の身の部分、羨道に南側の上辺のほぼ央に小さな穴が穿たれています。穴を取囲んで三辺に方形の家取りの切込みがつけられていて、これに対して蓋の部分にも彫込みがあり、四角な覆いの石をはめ込む設備がある。横口式石棺のように小口板をはめ込む仕様でなく何故このような装置をされたのか不明です。他に類例のない珍らしいものだそうです。古墳は江戸時代には赤坂陵とよばれ崇峻天皇の倉梯岡陵に擬定されていたそうです。天王山古墳
赤坂天王山古墳一号墳の石棺内部
赤坂天王山古墳二号墳の羨道
赤坂天王山古墳三号墳の羨道
赤坂天王山古墳三号墳の石室
は昭和二九年、史跡に指定されました。また、この古墳の周辺には数基の古墳が群在し、すぐ西側のものは
天王山第二号墳と呼ばれる横穴式石室をもつ方墳があって天王山古墳の西側にある一辺約19mの方墳で
南開する片袖式の横穴式石室をもち玄室の長さ約4.4m幅約1.8m現高約1.5m羨道の長さ約4.9m幅約1.7m入
口は土砂に埋もれており内部に入ることが手来ません。北側にも横穴式石室をもつ円墳があります。天王山
三号墳と呼ばれています。この古墳は天王山古墳の北側にある二段築成の円墳で径約11.2m高さ約4.5mあ
ります。南に開口する横穴式石室をもち玄室の長さ約4.3m幅約2.5m現高約2.6m羨道の長さ約6m幅約1.7mで
す。いずれも埋葬方法や副葬品については知られていないが、盟主墳である天王山古墳とともに六世紀末〜
七世紀初頭の古墳と推定されています■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■倉橋の溜め池■北緯34度29分49.1秒■東経135度52分10.3秒
倉橋の溜め池は昭和三二年(1957年)に農業用水の供給源として造られました。近年この池の北側、堤の老朽化が進み改修工事が必要となり、洪水調節機能を持つ防災ダムとして整備され、平成十二年(2000年)に改修を完了しました。周囲に柴垣の宮広場・桜の宮広場・まほろば広場等の桜や四季の花が咲く広場が設けられ市民の憩いの場となっています。また 倉橋の溜め池南東の高台には第三二代崇峻天皇(スシュンテンノウ)の都で倉橋柴垣の宮跡と言われる場所があり
ます。現在の桜井市高齢福祉センター付近です。倉橋の溜め池の東側、桜の宮広場に万葉集第三巻0241
【柿本人麻呂】の歌碑があります。大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも
【訳】長皇子は神でいらっしゃるので、立派な木が茂っている荒れた山の中にも、湖をお作りになることよ。
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■粟原寺跡(おおばらてらあと)■北緯34度29分49.8秒■東経135度53分33.4秒
粟原寺跡は粟原寺建立の次第を刻んだ粟原寺三重塔露盤の伏鉢(国宝・談山神社蔵)の銘文によると仲臣朝臣(なかとみのあそん)大嶋が草壁皇子(くさかべのみこ)のために創立を誓願したが果さず没した。その後、比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)により持続天皇八年(694年)から造営を始め二十二年の月日を要し元明天皇和銅八年(715年)に完成したといわれています。伽藍には丈六釈迦仏像を鋳造し金堂に安置し、三重の塔を建立して草壁皇子・仲臣朝臣大嶋を供養したといわれています。現在も粟原集落南端の標高約260メートルの巨木に覆われた天満神社の境内及び隣接地に当時をしのぶ十三重石・金堂跡が残っています。また石位寺の石像浮彫薬師三尊像(重要文化財)は粟原寺、所有の石仏です。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■花山塚古墳(はなやまつかこふん)
■花山西塚古墳(はなやまにしつかこふん) ■北緯34度30分28.8秒■東経135度54分23.1秒
花山西塚古墳は粟原谷の北側山地の標高約400mの尾根の南斜面にあり、七世紀の中・後半の築造といわれています。墳丘はかなり崩壊しており原形は不明ですが周囲の状況から円墳であったと思われます。斜面を整形して墳丘を築くために背後の山地と区画するための掘割りを行っています。南に開口する横穴式石室はレンガ状に加工した室生安山岩(榛原石)を漆喰で囲めて伍ノ目に積み上げた磚槨墳・磚積系横穴式石室と呼ばれるものです。この古墳の石室構造は珍し
い造りで通例の羨道と玄室の他に玄室の奥に天井が一段低くなり、石扉をもった小さい石室・奥室とからなっ
ています。玄室は長さ約2.18m幅約1.36m高さ約1.68m側壁約1.2m位までは垂直に、それ以上は内に持送っ
て傾斜させ、大きな花崗岩の天井石を構架しています。奥室は長さ約2m幅約0.7m高さ約0.9m底に板状の石
を敷き一段高く、奥壁に板石を立て、側壁はレンガ状の板石を積み上げています。奥室の正面は石扉をはめ
込むように切り込まれ、扉の軸受けの穴が入口の西側・底石と上方のまぐさ石に彫られ片開きの石扉も発見さ
れています。玄室と奥壁の壁面は全面に漆喰が施され、羨道は長さ約4m幅約1.1m天井石は失われているた
め高さの詳細は不明です。古くから開口しているので棺・副葬遺物などについても不明です。磚槨式の石室を
もつ古墳は桜井市東部・榛原地区のごく限られた地域に十数基みられるが、奥室を有するのはこの花山西塚
古墳だけです。保存状態の良い西古墳が昭和二年四月八日に国の史跡に指定されています。
■花山東塚古墳(はなやまひがしつかこふん) ■北緯34度30分29.0秒■東経135度54分26.5秒
東塚古墳の羨道口
東塚古墳の石室内部
花山東塚古墳は花山西塚古墳の東南約70mの南斜面に築かれた径約17m高さ約3.5mの円墳です。西塚
古墳と同様に背後の山林と区別するための浅い掘割りが確認されています。石室は南に開口する磚槨式の
横穴式石室で石英粗面岩の板石を漆喰で固めながら積み上げており、その表面全面に上塗りをしています。
羨道部はほとんど消失していて玄室の長さ約3.15m幅約1.72m高さ約1.9m(推定)です。花山塚西方の古墳
群は花山塚西方約700m標高約400mの地点で陵線から南側斜面に古墳時代後期から終末期にかけての数
基の古墳群がある。この内の一基に古墳の名称はないが特異的な構築をした古墳があります。この古墳は、
東西に延びる尾根の陵線より南へ垂直で約4m下った所で、東西約10m南北約9m高さ約3mの円墳です。墳
丘の背後は掘割りを施し、墳丘には各所に茸石と見られるものがある。尾根の陵線から墳丘の背後の掘割り
に向け上幅約1mの道がある。この道は掘割り底部より一段高くなっています。石室の入口から2mの所から約
30p低くなり、径約7mの前庭と思われる平坦な部分がつづき、それより南は急斜面となっています。埋葬施
設は主軸をほぼ南北にする横穴式石室が墳丘の南北主軸を挟み相対的に二基の石室が平行していて東側
の石室には入ることが出来ませんが西側石室とほぼ同様であるそうです。西側石室は全長約4.1m幅約約1m
玄室と羨道を分ける袖はなく、また持送りも認められないそうです。東西石室の間隔は入口部で約1.8mです。
この古墳は保存状態もよく墓道・埋葬儀礼等の遺構が遺存している可能性があるそうです。
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■後村上天皇中宮顯子笠間山陵(桜井市・宇陀市の間)■北緯34度30分50.1秒■東経135度54分57.0秒
後村上天皇・中宮顯子笠間山陵は第九七代後村上天皇の中宮・源顕子(新陽明門院)の墓とされている。後村上天皇は源顕子を中宮として向かえ坊雲・憲子内親王をもうけるが中宮源顕子と坊雲は世を避けて陽雲寺雲上庵に閑居したといわれています。
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■玉列神社(たまつらじんじゃ)・春日神社・白山神社
脇本遺跡・泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)跡の伝承地
玉列神社(たまつらじんじゃ)
■北緯34度31分12.1秒■東経135度52分00.6秒
脇本春日神社
■北緯34度31分18.2秒■東経135度52分28.7秒
第二一代雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡の伝承地と言われているところです。この地には玉列神社(たまつらじ
んじゃ)・慶長八年(1603年)に建立された三間春日造りの春日神社・泊瀬朝倉宮跡地の可能性が高い
脇本遺跡・白山比命と菅原道真を祭神とする白山神社などがあります。こ社寺を結ぶ道はかって初瀬街道
(伊勢街道)とよばれています。平安時代の紫式部・清少納言などの有名な人々が京都から海柘榴市へと旅を
して旅の疲れを癒した後、長谷寺へ参詣した道といわれています。江戸時代には伊勢参りが盛んになり山越
をして伊勢に行く伊勢街道として世に知られるようになりました。優れた外交の雄略天皇の宮は隠口(こもりく・
山間の隠れた国)の初瀬谷に構えたそうです。この地は鳥見山と三輪山に挟まれた峡谷を隠口(こもりく)の国
とよばれていました。また考古学的には現在まで宮地と断定できる発見はされいません。旧指定村社である。
白山神社からさらに東へ約1kmほど行けば、ボタンの寺として有名な長谷寺があります。白山神社は雄略天皇の泊瀬朝倉宮はこの周辺であったと伝承されています。白山神社の北東の小高い所は天の森とよばれるところか帝王編年記に示された南の磐坂谷の上岩坂十二支神社と呼ばれる二カ所が伝承の地になっています。また脇本集落付近は縄文・弥生時代から古墳時代にかけて遺物が出土し、脇本西遺跡・脇本東遺跡として知られるところです。昭和五九年(1984年)に桜井市と橿原考古学研究所が中心となり磯城(しき)から磐余(いわれ)一帯の諸宮を調査。基本調
脇本遺跡
■北緯34度31分02.0秒■東経.35度51分56.9秒
査の結果は脇本〜慈恩寺一帯が泊瀬朝倉宮に最も適した場所と推定のもと発掘調査が行われました。度重なる発掘により五〜六世紀の建物や溝の遺構が朝倉小学校物の校庭から見つかり灯明田地区では下層から五世紀後半の大型建物が上層からは七世紀後半の大型建の遺構が検出されました。灯明田地区、東北の苗田地区の発掘で全域に五世紀後半の広場のような整地した層が発掘されました。発掘調査の結果、脇本遺跡の五世紀後半の建物遺構は記紀にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物の可能性が非常に高いと見なされました。現在は私有地のため埋めもど
黒崎白山神社
■北緯34度31分23.4秒■東経135度52分50.1秒
されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■出雲十二支神社【野見宿禰】・磐坂谷十二支神社・泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)跡の伝承地
磐坂谷(上岩坂)十二神社
■北緯34度30分47.7秒■東経135度53分49.3秒
出雲十二支神社【野見宿禰(ノミノスクネ)伝承地】
■北緯34度31分33.5秒■東経135度53分28.0秒
十二神社は磐坂谷(上岩坂)にあり第二一代雄略天皇(ユウリャクテンノウ)の都で泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)跡と言われています。雄略天皇は別名、大泊瀬幼武尊(オオハツセワカタケルノミコト)・大長谷若建命・大長谷王【古事記】・大悪天皇・有徳天皇です。『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定されています。大泊瀬皇子(雄略天皇)は安康天皇三年(456年)八月、安康天皇が眉輪王(マヨワノオオキミ)により暗殺されました。これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い八釣白彦皇子を斬り殺し、坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。この二人は葛城
氏の円大臣(ツブラノオオオミ)宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は三人共に焼き殺し
てしまう。さらに、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ・仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(ミマ
ノミコ)をも謀殺し、政敵を一掃して十一月に大王の座に就いた。即位後も誤って人を処刑することが多く、後に
大悪天皇と呼ばれる原因となっているが大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから両者は同一人物ではないかとの説もあるそうです。また、平群真鳥(ヘグリノマトリ)を大臣に、大伴室屋(オオトモノムロヤ)・物部目(モノノベノメ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることである。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋(キビノシモツミチノオミサキツヤ・463年)・吉備上道臣田狭
上岩坂より見た磐坂谷
■北緯34度31分01.2秒■東経135度53分53.7秒
ノ(キビノカミツミチオミタサ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に
起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にしまし
た。日本書紀には他に播磨の文石小麻呂(アヤシロノオマロ・469年)や伊勢の朝日郎(アサケノイラツコ・474
年)を討伐したと記されています。また、ここ上岩坂は昔、岩坂とよばれていて、この地から一部の人達が村を
新しい場所で開拓するために東岩坂(狛)や下岩坂に移住したそうです。現在、当時の名残として下岩坂は
村人達の移住時期が正月間近であり、家の入り口に飾る「しめ縄」が間に合わず飾れなかったそうです。これ
が現在も続いており、下岩坂は「しめ縄」を飾らない村の風習として残っています。
万葉集第一巻0001雄略天皇
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は お
しなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも
【訳】美しい籠をもち美しい篦を手に この丘で菜を摘む娘よ そなたはどこの家の娘か 名はなんというのか この
大和の国を 隅々まで治めている 全てを支配している この私から 名をも家をも名乗ろう。
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■長谷寺(はせでら)■北緯34度32分04.4秒■東経135度54分28.4秒
長谷寺、寺前入山所長谷寺仁王門
長谷寺は国宝・重要文化財の宝庫で真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺院です。山号を豊山神楽院と称
し本尊は十一面観音・開基(創立者)は道明上人とされています。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所で
あり日本でも有数の観音霊場として知られています。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に
本堂が建ち初瀬山は牡丹の名所であり毎年四月下旬〜五月上旬は150種類以上、約7,000株と言われる牡
丹が満開になり長谷寺は古くから花の寺とよばれています。また「枕草子」・「源氏物語」・「更級日記」など多く
の古典文学にも登場します。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻の出来事に登場する二本(ふた
もと)の杉は現在も境内の月輪院、東側に残っています。長谷寺の起源と歴史は創建が奈良時代、八世紀前
半と推定されるが創建の詳しい時期や事情は不明です。寺伝によると天武朝の朱鳥元年(686年)道明上人
が初瀬山の西の丘(本長谷寺)に三重塔を建立、続いて神亀四年(727年)徳道上人が東の丘(本堂の地)に
本尊十一面観音像を祀って開山したといわれます。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め万
寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており中世以降は武士や庶民にも信仰を広めました。長谷寺は東大
寺(華厳宗)の末寺でしたが平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり十六世紀以降は興教大師覚鑁
(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっています。天正十六年
(1588年)豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し同派の僧正専誉により現在の真言宗
豊山派が大成されました。十一面観音を本尊とし長谷寺を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多
くあり他と区別するため『大和国長谷寺』『総本山長谷寺』等とよばれます。長谷寺の伽藍は登廊、本堂入
口の仁王門から本堂までは三九九段の屋根付き登廊(のぼりろう)を上ると本堂の西方の丘には「本長谷寺」
とよばれる一画があり、五重塔などが建つています。本堂【国宝】のほか仁王門・下登廊・繋屋・中登廊・蔵
王堂・上登廊・三百餘社・鐘楼・繋廊が重要文化財に指定されています。本堂は本尊を安置する正堂(しょうど
う)であり、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり・
舞台造)になっています。本堂は奈良時代から室町時代の天文五年(1536年)まで七度焼失しています。七度
目の焼失後に豊臣秀長の援助で天正十六年(1588年)に新しい堂が完成しました。後に堂の傷みが激しいた
め堂を取り壊し新築することになり、徳川家光の寄進を得て、五年の歳月を有し慶安三年(1650年)に新築落
慶したのが現在の本堂です。高さ10m以上ある本尊、十一面観音像は天文五年の本堂焼失の二年後に完成
しており慶安三年の新本堂建設時には本尊を移動せずに行われたそうです。そのために本堂は内陣の中にさ
らに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており内々陣は巨大な厨子の役目をしています。近世前半
の大規模本堂の代表作として2004年12月、国宝に指定されました。
◆入山時間 8:30〜17:00(四月〜九月)・9:00〜16:30(十月〜三月)※牡丹まつり期間等時間延長有り。
◆入山料金   
個人        大人 500円 高校生 500円 中学生 500円 小学生 250円
団体三十名以上 大人450円 高校生 350円 中学生350円 小学生 200円 
◆駐車場(マイクロバスまで)
 二輪 200円 普通車 500円 マイクロバス 800円
※大型バスは、国道沿いの民間・市営駐車場をお使い下さい。■初瀬観光センター:0744-44-3331
■泊瀬(はつせ)の山川と猪養(いかい)の岡
三輪山の南の麓から初瀬川にそって東に行くと、北は三輪山から巻向山、南は外鎌(とがま)山から宇陀の
山並みへと続く深い谷で長谷渓谷をつくっています。この渓谷を古代の人々は泊瀬小国(はつせおぐに)とよ
び、かぎりないあこがれを抱いていました。万葉集第二二巻3331『こもりくの 泊瀬の山 青幡(あおはた)の 
忍坂(おさか)の山は 走り出の 宜しき山の 出(い)で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜
(お)しも』【訳】初瀬の山、忍坂の山は、山並みがゆるやかにのびた形のよい山、そびえ立つみごとな山だ。こ
の心ひかれる山が荒れるのはほんとうに惜しいことよ。万葉人が思いを寄せたこもりくの山里や川を詠った万
葉歌はたくさんあります。残念なことに七世紀後半から八世紀ごろになるとこの渓谷も、牧歌的な泊瀬小国(は
つせおぐに)から葬送の地にかわっていきます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■橡姫吉隠陵(キノトチヒメヨナバリノミササギ)
■北緯34度31分59.6秒■東経135度56分27.3秒 国道156号線から御陵への登り口
■北緯34度32分16.7秒■東経135度56分28.0秒 右方向
■北緯34度32分20.2秒■東経135度56分30.0秒 橡姫吉隠陵遙拝所
見事な約250の石段橡姫吉隠陵(キノトチヒメヨナバリノミササギ
橡姫吉隠陵(キノトチヒメヨナバリノミササギ)は和銅二年(709年)に紀橡姫(キノトチヒメ)が吉隠(よなばり)
の地で亡くなり、ここに葬られたと伝えられています。壬申の乱の後、天武天皇皇統が皇位を継承する事とな
り天智天皇(テンジテンノウ)の第七皇子であった志貴皇子は皇位継承は無縁であった。政治より和歌等文化
の道を行く皇族でしたが宝亀元年(770年)に聖武天皇の第一皇女である井上内親王を后とし、母系では天武
系となる第六皇子の白壁王が大臣・参議の協議により擁立されて光仁天皇として即位した。この為に志貴皇
子は霊亀二年(716年)に亡くなっているものの春日宮御宇天皇(カスガノミヤニオワシマシシスメラミコト)の田
原西陵(たはらのにしのみささぎ)追尊号を受けました。同じく紀橡姫(キノトチヒメ)は春日宮天皇の后であり光
仁天皇の母であることから明治二七年十二月に宮内省令をもって橡姫吉隠陵(キノトチヒメヨナバリノミササギ)
ときめられました。その後、この系統は現在まで続いており毎年十月十二日に祭典がおこなわれています。ま
た万葉集には天武天皇の皇女、但馬皇女(タジマノヒメミコ)の墓がこの近くにあるといわれています。それは
異母兄の穂積皇子(ほづみのみこ)が雪の降る日、遥かにその墓のある吉隠の猪養(いかい)の岡をながめ
て、悲傷流涕(ひしょうるてい)してつくった歌で万葉集第二巻203『降る雪は あわにな降りそ 吉隠(よなば
り)の 猪養(いかい)の岡の 寒からまくに』【訳】降る雪よ、ひどく降ってくれるな。皇女を葬った吉隠の猪養の
丘が寒いことだろうから。と詠まれています。猪養(いかい)の岡がこの付近だそうです。『大和志』には吉隠村
の上方に在り、山に楓多しと記されています。また、万葉集では吉隠の集落を詠んだ歌に
万葉集第 十巻2190『わが門の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の浪柴の野の 黄葉(もみじ)散るらし』
万葉集第 十巻2207『我が宿の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の夏見(なつみ)の上に 時雨(しぐれ)降るらむ』等
があります。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■鳥見山公園(とりみやまこうえん)・神武天皇霊畤(まつりのにわ)の伝承地
■北緯34度32分42.3秒■東経135度56分30.7秒
鳥見山(735m)の頂上近くにあり、勾玉池を中心とする高原上の自然公園。園内には神武天皇聖跡伝承地の顕彰碑や歌碑が多くある。春は数千本のつつじの名所として知られ、山桜も美しく咲き、秋は紅葉が格別です。展望台からは眼下に大和盆地、宇陀の山容を一望でき、静寂な聖跡からの眺めは絶景です。
神武天皇霊畤跡の伝承地冬の降神石


霊畤(まつりのにわ)の伝承地
勾玉池
冬の鳥見社公園内の藤
日本書紀の神武天皇四年二月条に『乃ち霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小
野の榛原、下小野の榛原と日ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ』。神武天皇が辛酉(かのととり)の春一月一日
に橿原宮で即位します。その即位後、四年春二月二三日に詔をして「皇祖の霊が天から降り我が身を助けてく
れた。多くの敵も平らげ天下は平穏無事である。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀り大孝を申し上げた
い。」と言われ。この鳥見山に神を祀ってお礼をするといわれたそうです。当地を上小野の榛原(はりはら)・下
小野の榛原とよぶとされました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)【宇陀市】■北緯35度30分43.1秒■東経135度56分56.2秒


神武東征の道案内をした鴉
八咫烏神社は日本神話による神武東征の際、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる三本足の鴉をお祀りした神社です。八咫烏熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰され、日本神話に登場する八咫烏は烏ではなく太陽神を意味する神聖の象徴と考えられ、信仰に関連するものと考えられているそうです。新撰姓氏録では八咫烏はカミムスビの曾孫である賀茂建角身命(カモタケツノミコト)の化身で
あり、その後鴨県主(カモアガタヌシ)の祖となったといわれています。ここ八咫烏神社は祭神として賀茂建角身命を祀っています。また月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」の場面は金鵄のものであるが黒い金鵄が描かれています。八咫烏は日本書紀・古事記に登場するが日本書紀には神武東征の場面では金鵄(金色のトビ)が登場します。金鵄はナガスネヒコとの戦いで神武天皇を助けたとされています。八咫烏と金鵄は混同されることがあります。戦国時代、紀伊国の雑賀を治めた鈴木家の旗印となったそうです。現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられ、これは日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、出身地・和歌山県那智勝浦町にある熊野三山の八咫烏をデザインした物で、このデザインが用いられているのは主として協会旗・日本代表チームの紋章・Jリーグ優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン・天皇杯優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン・Jリ
大日本名将鑑
ーグ・天皇杯両方優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン・日本サッカー協会公認審判員のワッペン等で
す。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■奈良と磐余の里を結ぶ横断道
磐余の里には大和の古代道路で奈良盆地の中央と南部を東西に平行する二本の横断道があり、横大路
(よこおおじ)・北の横大路は奈良盆地の中央部を斜めに通る道や筋違道(すじかいみち)などがあります。
■山の辺の道は日本最古の道山の辺の道Tを参照。
■三道【上ツ道・中ツ道・下ツ道】は南北へ直線に通る三道は、約四里(一里=531m×4=約2120m)の等間
隔をなしており東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と平行に並んでいます。現在も形跡が残っている箇所も多く存在
している。三道の敷設年代については『日本書紀』孝徳天皇の白雉四年(653年)六月条に処処の大道を作る、
とあることから七世紀中期には通っていたといわれる。日本書紀によれば壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事
には、すでにこの三道の名が見えるので天武朝以前には通っていたといわれる。七世紀に飛鳥盆地や周辺の
丘陵部で宮殿・寺院・貴族邸宅の造営などが行われていた事から斉明朝には巨大な建築物や山岳地帯を取
り込み石造巨大施設が作られていて軍事用及び材料運搬の道路であるといわれています。
■上ツ道は桜井市山沿い〜天理市山沿いから奈良市猿沢池に通る道です。近世には上街道と呼ばれていま
す。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり山田道〜飛鳥へと通じています。天理市櫟本で北の横大路と交わっ
ています。
■中ツ道は上ツ道と下ツ道の間約2.1kmの所を平行して通り南は藤原京の東京極をなし、北ではのちの平城
京の東京極となりました。橿原市天香具山〜奈良市北之庄町に通る直線道です。更に南は香具山を迂回〜
橘寺へ通る道を橘街道と呼ばれています。南下すると芋峠〜吉野に通る道。平安時代には吉野詣で賑わい御
堂関白記には藤原道長もこの道を通り吉野へ行くと記されています。
■下ツ道は藤原京の西京極〜奈良盆地中央〜平城京の朱雀大路となる。橿原市〜天理市にかけては現在
の国道24号線と合致、平行する道。 近世には中街道と呼ばれるようになった。
■横大路は三輪山の南〜葛城市二上山まで東西に通る道。北の横大路は斑鳩町法隆寺〜天理市櫟本まで
東西に通っていた道があった。
■筋違道(斜行道・太子道)は法隆寺近くから飛鳥へ直線に通る官道。北西〜南東に斜めに通るところから、
筋違道と呼ばれた。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■桜井市立埋蔵文化財センター
当ホームページ内「磐余の里」では古墳記事掲載に大変お世話になった桜井市教育委員会文化財課の
橋爪朝子さんが春期特別展『葬送の風景−考古学と文献からみる古墳時代の葬送儀礼』の展示解説書の執
筆・編集をされています。この解説書を開いて古代ロマンの世界にタイムスリップしましょう!。現在社会の癒し
になるかもれません。
桜井市立埋蔵文化財センター

交通:桜井駅下車 天理方面行バスで三輪明神参道口下車、北へ徒歩2分
JR三輪駅下車 徒歩西へ10分
奈良県桜井市芝58−2
問い=TEL.0744‐42‐6005
入館時間:午前9:00〜午後4:00
休館日:毎週月・火曜日・祝日の翌日
     (祝日の翌日が火曜日の場合水曜日)
      年末年始12月28日〜1月4日
桜井市立埋蔵文化財センターは桜井市の文化ゾーンというべき芝運動公園の一角に、昭和六三年十月に
建設されました。このセンターは埋蔵文化財の発掘調査や研究の成果を社会に普及し、地域文化の振興に役
立てる場として、市民の強い要望のもとに作られました。展示収蔵室においては桜井市教育委員会が昭和四
六年から行なっている発掘調査資料を中心に展示しています。センターの管理・運営には財団法人・桜井市文
化財協会があたり、市教育委員会と共に祖先の残してくれた数限りない文化財という遺産を大切にし、また教
育資料として活用をすすめているところです。
常設展示のポイントは桜井市の原始から古代までを各時代ごとに展示しています。また埴輪や、纒向遺跡
も特集して展示しています。市内の主要遺跡の出土品の流れから、桜井市の歴史を理解していただけるよう、
企画しております。当センターでは桜井市内の埋蔵文化財に関するさまざまな仕事を行っています。発掘調査
の届け出業務・発掘調査の必要性の有無の相談をはじめ、調査経費の試算なども行っています。発掘調査が
終了すると出土した土器などの遺物は当センターに持ち帰り作業室で水洗いを行います。次に乾燥後、整理
室で接合復元や出土地点の注記を行います。接合復元のできた土器などは製図研究室で作図を行ったり写
真をとったりします。そして展示できるものは展示収蔵室で展示し市民のみなさんに見学してもらいます。この
他、木製品や金属製品は特別な処理が必要ですので木器処理室や金属製品処理室で保存処理を行い特別
収蔵庫で保管します。また現場で作った図面や写真は製図研究室で整理し報告書を作成します。整理できた
図面・写真や作成した報告書は図書資料室に収納しています。発掘調査の終りには現地説明会を開きますが
センターでも説明会や講演会を計画しています。講座室や多目的室で講演やスライドを上映します。
■トップページへ■■先頭ページに戻る■桜井市観光情報サイト『ひみこの里・記紀万葉のふるさと』
※天皇陵写真掲載宮内庁許可(無断掲載写真転載禁止)
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