■トップページへ■磐余の里山の辺の道 このページはインフォメーションテクノロジー【IT】+古事記+日本書紀を利用して作成してます。
うです。また第二九代欽明天皇が磯城島金刺宮(しきしまのかねさしのみや)で崩御した。翌572年4月3日仏 教をめぐり物部と蘇我が争っていた時代、第二皇子である淳中倉太珠敷(ヌナクラノフトタマシキ)皇子が第三 十代敏達天皇として即位しました。この敏達天皇の都であったと伝承されています。この宮は後に悲劇の英雄 である大津皇子の邸宅となり持統天皇による刑の宣告を受けたところでもある。敏達天皇四年(575年)天皇は 卜部(ウラベ)に命じて訳語田(おさだ)にある海部王(アマノオオキミ)の家地と糸井王(イトイノオオキミ)の家 地を占わせました。占いは吉となり、そこに新しい宮を営んだといわれます。この宮の名を■幸玉宮(さきたま のみや)である。また古事記に他田宮(おさだのみや)とあるように春日神社は古くは他田宮(長田宮)とよば れていました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ に天皇に膳臣余井磯(カシワデアレシ)が献上した御盃に時ならぬ(季節外れの)桜の花びらが舞い落ちまし た。これを不思議と思い、物部長真膽連(モノベノナガマイノムラジ・物部十市根命)に花の咲いているところを 調べるように命令しました。後日、花びらは腋上室山(わきがみむろやま)に咲いた桜であることが判明しまし た。天皇は珍しい事と喜び、桜に因んで宮の名を「磐余稚桜宮」(いわれわかざくらのみや)と名付けられ物部 長真膽連の姓を稚桜部造、膳臣余井磯を稚桜部臣と改めたといわれています。また天皇は腋上室山から桜樹 を持ち帰り等彌郷の清水湧き出る泉の畔に植えたそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ す。社伝によると「霖雨のため一山崩潰社殿破壊し終に若桜神社の境内に遷座せり」と記されていることから 高屋安倍神社は現地から南に約400m先の松本山に鎮座していたそうです。
本書紀」の推古天皇二十年(612年)摂政聖徳太子に百済人味摩之(クダラノミマシ)が我が国に帰化して「呉に 学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げた。そこで太子は「桜井」にて我が国の少年を集め伎楽の舞を習わし たそうです。伎楽は古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり散楽といわれたそうです。日本に は神楽がありましたが以来、宮廷に伎楽が加わり日本の伝統演劇のひとつになりました。後に宮廷が衰えた 武家時代には、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技されるようにな りました。この桜井児童公園内の史蹟地のことは江戸時代の「大和名所図絵」に記されています。
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た発掘調査は七年間にわたり阿部・高田・上之宮と場所をかえ継続しておこなわれ、とくにその中で上之宮遺 跡の発掘調査で検出された六世紀前半〜七世紀初頭の遺構は聖徳太子の上宮(じょうぐう)である可能性が 大きいと発表されました。上之宮遺跡の居館遺構は、なだらかな丘陵の北東斜面にひろがっています。すぐ東 に寺川が流れ正面には神武伝承で知られる鳥見山・三輪山が見える景勝の土地に位置しています。遺跡は 東西約5.60m南北約100mその範囲に当時としては第一級の規模・格式をもった四面庇(ひさし)付大型建物 の居館遺構をはじめ倉庫群や掘立柱建物が配置されています。これらの建物をとりまく柵列も検出されていま す。さらにこれらの建物群に付属していたと思われる園地遺構や石組み遺構が検出され遺構のなかからは別 □塗銀□其項□頭刀十口と書かれた木簡をはじめ、べっ甲製品の一部め琴柱・鳥形・刀子形・糸巻き形の各 木製品が出土しました。また多数のもも・すもも・なつめ・かき・くり・べにばななどの果実の種・花粉が見つかり ました。これらの出土品は当時の邸宅内のくらしぶりの一端をうかがうことのでさる貴重な資料です。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
ぐり墳頂部には方形に大型円筒埴輪が立てられていた。その内部に全長約8mの第一竪穴式石室と、その東 に副葬品のみを収めた第二竪穴式石室が作られていた。第一石室は盗掘されていますが鏡・玉・剣が残って いました。第二石室は末盗掘で多量の鉄製武器類が発見され王者の象徴である玉杖も出土しています。特に 鉄製の弓・弦・矢は実用品とは考えられず将軍のような軍事にかかわった人物の象徴として副葬されたとみら れています。磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、かつ王権や軍事権をも掌握した人物が披葬者とし て推定されています。メスリ山古墳の周囲に七世紀になって大型方墳群を作った阿倍氏の存在から氏の祖 「オオビコ」の墓説も考えられるそうです。四世紀前半代の王墓の一つとされています。昭和五五年三月一四 日史跡指定されました。
■コロコロ山古墳はメスリ山古墳の北西角、住宅地に面し高い金網に囲まれた中に「コロコロ山古墳」がありま す。1987年桜井南部特定土地区画整理組合が近くから移築し保存しているもので、一辺約30m高さ約3mの 方墳で埴輪や葺石は無いものの中央の横穴式の石室は全長約11m玄室長約5.5m玄室幅約2.5羨道長さ約5. 5m羨道幅約1.5mの大型の横穴式石室です。東隅に小型小石室もあったが天井石は取り去られていたために 現在はコンクリートの屋根を付けて保存されています。昭和五九年に古墳であることが判明、翌年の発掘調査 で六世紀後半代の豪族の墳墓であることが判りました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ■等彌神社は延喜式内社で創建の年月は明らかではないようです。神武天皇時代に鳥見山の中に建立され ていたそうである。鳥見山の西麓を能登山というところから地元では「能登の宮」とよばれ桜井市の鎮守社とし て地元信仰があつく、天永三年(1112年)霧雨による山崩れにより鳥見山の山中から現在地に遷されたそうで す。またこの神社は、上津尾社・下津尾社からなり祭神は天照大神・春日大神・八幡大神を祀る。歴代の皇 族・宮家系の参拝が多く神武天皇伝承の社でともいわれています。等彌神社の参道には小振りであるが約 165基の石灯籠が建ち並び境内は綺麗に整理され、美しい苔のジュウタンが一面に広がります。新緑の季節 には心が癒される神社です。この神社の上津尾社の境内から鳥見山(245m)の山頂に向かって登ることが出 来ます。鳥見山山頂の■霊畤拝所の碑から斎場山の■句碑とつづき、ここから白庭山の神武天皇即位後、高 祖天神を祀るために築いたところ『霊畤』へと道がつづいています。また毎年五月一三日に鳥見霊時顕彰会に より、この「霊畤拝所」で大祭が行なわれているそうです。※白庭石碑・霊畤石碑の写真は宗像会館HP管理 者のSAKAMOTOさんに提供していただきました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ■談山神社大鳥居は御破裂山(標高607m)の南山腹に面して鎮座する談山神社の一ノ鳥居です。この神社 の磐余の里の入り口(北の入口)として位置した大鳥居です。また大鳥居は御破裂山から切り出した花崗岩で 造られ高さ約8.5m長さ約11.5mの鳥居です。鳥居西側の端が昭和二三年頃の火災で欠けています。鳥居上 の銅額は貞明皇后(大正天皇皇后)の父、九条道孝(くじょう みちたか)氏の筆といわれています。
像)で開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされています。聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下 ろす小高い位置にあって伝承では和銅五年(712年)に妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長 子・定慧(じょうえ)が創建したという。その後、南部興福寺と妙楽寺は対立し興福寺僧兵の進攻で被災、承安 三年(1173年)には全伽藍が焼失した。当時の伽藍は失っているが天平以来の仏像や仏画等を今に伝えてい る。また、妙楽寺の後身である談山神社は聖林寺の南方の山中に位置していました。聖林寺の近世までの歴 史は謎の部分が多く妙楽寺とともに大神神社(おおみわじんじゃ)とも関連が深い寺院であったと思われてい ます。江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山の遍照院を移して再興したといわれています。 江戸中期に本尊・子安延命地蔵菩薩像が造像され安産・子授けの祈祷寺としても栄えました。この地蔵像は 元禄期(1688年〜1703年)に文春諦玄という僧が女性の安産を願って各地に勧進し造立したものです。明治 の神仏分離令を前に慶応四年(1868年)に大神神社の神宮寺であった大御輪寺(だいごりんじ・おおみわで ら)より十一面観音菩薩立像が移されました。現在は本堂に子安延命地蔵坐像(江戸時代の石造彩色像)、観 音堂(大悲殿)に木心乾漆十一面観音立像(奈良時代末期)【国宝】・元清水寺管長・大西良慶筆の扁額が置 かれています。拝観案内 :9:00〜16:30 拝観料 400円 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ 現在は崇峻陵は倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた桜井市倉橋の小字で天皇屋敷にあって同地には崇峻天 皇ます。の位牌を祀る金福寺があることから陵地として明治二二年(1889年)に決定したそうです。また根拠に 乏しく近年では桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるよ うになっています。六世紀末〜七世紀初頭に築造された方墳であり東西44.5m南北42.2m高さ約9.1m全長約 17mの横穴式石室があります。崇峻天皇の即位は大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一 方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとしたが穴穂部皇子は蘇我 馬子によって殺されてしまう。その後、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまったそう です。物部氏の没落により欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの 造寺事業を積極的に行った。だが即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っていて崇峻天皇は次第に不 満をつもらせるようになる。崇峻天皇五年(592年)十月四日に猪を献上する者があり天皇は笄刀(こうがい)を 抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発 言した。そのことを聞きつけた馬子が天皇は自分を暗殺しようとしている、と警戒し部下に暗殺命令を下した。 そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたい こま)の手により暗殺させた。臣下により天皇が殺害されたのは確定している例では唯一である。死亡した当 日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは他に例が無いそうです。また、崇峻天皇を暗殺した東漢直駒も蘇我 馬子により暗殺されました。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されてい ます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
「比の本尊は山城の国清水寺の観音と一体分身の千手観音也」と墨書きが残っていました。清和天皇の貞観 十八年(876年)「音羽流れ」と記録に残る豪雨と山津波で堂宇が崩壊し残った一寺であると伝えられていま す。寺名も香法寺・善法寺と変わりながらも、本尊の千手千眼十一面観世音菩薩は眼病平癒に霊験があり 『音羽の観音さん』と親しまれ、地元及び県外からも多く訪れる信者で賑わい、多くの信者の力で維持され現 在にいたっているそうです。また観音寺にお参りすることにより現在病のメタボが改善されるといわれます。
記念物「お葉付き銀杏(いちょう)」があります。お葉つきとは、その名の如くイチョウの葉に、ギンナンがついた ものを言います。イチョウが下等なシダ類のように胞子を作る胞子植物と種子を作る種子植物との中間性をお びていることは、受精に際してシダ類と同様に運動する精虫ができるので知られている。シダ類がその胞子を 葉につけるのと同時に、お葉つきイチョウがその種子を葉につける現象は、植物の系統的進化発生を示すもの で学術研究資料としても、きわめて貴重な存在として知られている。昭和五二年の記録では目通り4.8m高さ 25mの巨木です。現在では、もう少し大きくなっています。
これと同じく桜井市出雲の十二柱神社の狛犬台座を支える力士像も合計八体。全ての力士の形が異なり、そ れぞれが相撲の型になる。この出雲には■野見宿禰(ノミノスクネ)の五輪塔(十二柱神社境内)があります。 由来は垂仁天皇の命により三輪山に召して相撲をとらせて宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記されて います。その■相撲跡カタケヤシは現在の桜井市穴師(あなし)にあって相撲起源の伝承地として広く世に知 られています。桜井市出雲には古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌 倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していましたが、明治十六年農地整理により塚 は形を失い墳上の塔をここに移して祀りました。物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されていま す。野見宿禰は日本書紀に登場する人物で出雲国の勇士です。天穂日命の十四世の子孫であると伝えられ 垂仁天皇の命により、当麻蹴速(タイマノケハヤ)と野見宿禰と相撲を取って野見宿禰が勝ちました。垂仁天皇 は、野見宿禰に、ほうびとして当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えた。その後、野見宿禰は朝廷に 末永く仕えたそうです。野見宿禰(ノミノスクネ)は桜井市出雲の人とも伝えられています。■出雲の力士像と ■音羽の力士像の関係は・・・・。なんとなく謎めいた歴史的なロマンです。
荒神石の名が伝えられています。中でも音石・光石はこの寺の創建にかかわる伝説の石である。大正年間に 氏神の玉垣を改修するに当たり、この巨石を割り石垣等に使用したため、残念なことに今はその石を見ること が出来ません。しかし小字名として「光石山」の名が寺の直ぐ近くに残っています。
■音羽観音寺は磐余の里の『猫のぽん』HP内にWide版が掲載されています。
ります。【戦前に拝殿や十三重塔は何度か日本銀行券(百円)の図案に採用されました】文化財として■考古 資料として国宝では奈良国立博物館に安置されている粟原寺の遺物として粟原寺三重塔伏鉢(おうばらでら さんじゅうのとうふくばち)です。伏鉢は三重塔・五重塔などの最上部に立つ相輪の部材の一つ。銅製で和銅 八年(715年)の年号を含む刻銘があり中臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)が草壁皇子のために発願 したという粟原寺の由緒が記されています。境内に■閼伽井屋(あかいや)という仏前に供える為の神聖な水を くむ井戸があります。この井戸は摩尼法井(まにほうい)と呼ばれ往古、定慧和尚が法華経を講じた時に龍王 の出現があったといわれています。■その他の重要文化財として東透廊・西透廊・楼門・東宝庫・西宝庫・摂 社東殿・末社惣杜本殿・末社惣社拝殿・末社比叡神社本殿・摩尼輪塔などです。■御破裂山(御廟山)は標 607mの山です。この山の頂上に藤原鎌足の息子である定恵が父の遺骸を改葬した所といわれていて周囲 270mの円墳です。この名の由来は世に何らかの異変のある前に必ず一山鳴動する山ということです。鳴動が 起こる場所により異変が起きる所が特定されるといわれます。天下異変の前兆として、聖霊院の鎌足像が破 裂し山上大鳴動が始まり、その時に僧は朝廷、藤原氏長者に上申しました。朝廷からは使臣派遣して平癒祈 願したそうです。大職冠神像破裂記に破裂した記録があるそうです。またこの墓所の裏には真新しい藤原家 の墓があります。また談山神社の西方には■西大門跡があって当時『女人禁制』であったことが現在も石柱が
物語っています。これより西方(北山方向)に行くと左手に■念誦窟不動尊(ねずきふどうそん)の案内石柱があ ります。この不動尊は経堂ケ谷の不動磨崖仏で高さ約128p顔が優しく表現され、火焔光背(かえんこうはい) を彫りくぼめてあり不動尊を半肉彫にした珍しい不動尊です。延文三年(1358年)に彫られたそうです。この不 動尊より西方に行くと、右手に■多武峰奥の院の念誦窟(ねずき)という所があって増賀(しょうが)上人が入滅 された山地です。念誦窟とは日本書紀によると斉明天皇の行宮(あんぐう)のあった両槻宮(ふたつきのみや) がその名の起こりともいわれています。また嘉永六年(1853年)には紫蓋寺(しがいじ)があったといわれていま す。この墓地へ続く道を上ると二体の石仏と二基の石造物が背を向けて立っています。この上段に紫蓋寺跡
鳥子の子です。日本書紀で阿倍麻呂・阿倍倉梯麻呂と記される人物は同一と考えられています。推古天皇三 二年(624年)大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上して います。推古天皇はこの要求を拒否したそうです。推古天皇三六年(628年)推古天皇が崩御すると田村皇子 と山背大兄王が有力な皇位継承候補となり大臣の蘇我蝦夷は内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承につい て諮った。群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子が推古天皇の意中であったと主張したそうです。 蝦夷の望みも田村皇子であり田村皇子(舒明天皇)が即位しました。皇極天皇四年・大化元年(645年)中大 兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され父の蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡しました。これを乙巳の 変といわれる。皇極天皇は譲位し孝徳天皇が即位して新政権が発足しました。左大臣には内麻呂が右大臣 には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、各々金策を賜っています。内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また 娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、皇后は有間皇子を生んでいることから新政権の中枢に入れられたと考えら れます。内麻呂のもう一人の娘、橘娘は天智天皇の妃になり明日香皇女・新田部皇女を生んでいます。大化 四年(648年)に内麻呂は四天王寺で仏像四体を迎えて法要をとり行ったそうです。この直後に右大臣の石川 麻呂は謀反の密告があり自刃に追い込まれ大化五年(649年)内麻呂は死去した。孝徳天皇が朱雀門まで来 て哀悼し皇極上皇・皇太子をはじめ群臣が哀哭したそうです。■文殊院の境内は本堂、寛文五年(1665年)に 建立されました。本尊は鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で木造騎獅文殊菩薩【重文】の「知恵の文殊」とし て親しまれています。巨大な獅子にまたがる総高約7mの仏像及び文殊菩薩像を四体の脇侍像【重文】が取り 囲む文殊五尊像が安置されています。文殊五尊像の脇侍は普通、善財童子、優填王(うてんのう)、最勝老 人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像 を「須菩提」とよばれます。維摩居士像は後世の補作です。金閣浮御堂(仲麻呂堂)は昭和六十年(1985年) に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で安倍仲麻呂像・安倍清明像などを祀っています。白山神社 本殿【重文】は室町時代後期の建立された流造柿葺の建物で縁結びの神として知られています。
また、文殊院■西古墳(特別史跡)は本堂近くにある七世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であ ることはほぼ確実視され安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれます。古墳の施設は不明、径約25mの円墳であ ったと見られます。横穴式石室が露出しており切石造石室の代表的なものとされています。文殊院■東古墳 は七世紀前半に築造されたといわれる古墳で古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ信仰の対象とされてき ました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ 築かれており奥壁二石、玄室天井石二石、羨道天井石は四石からなります。古墳の築造は石舞台古墳、赤 坂天王山古墳との比較から六世紀末葉〜七世紀初頭頃と推定されています。羨道入口の天井石が斜めに崩 れ落ちていますが羨道の中に入ることが出来ます。昭和三十三年三月二十日史跡に指定されました。
■安倍寺跡は孝徳天皇(コウトクテンノウ)勅願で大化の改新時の左大臣安倍倉橋麻呂(アベノクラハシマロ)に よって建立されました。山田寺の創建時代(641〜685年)とほぼ同年である。伽藍が整備されたのは安倍朝 臣御主人(アベノアソンミウシ)の時代に完成したとされる。また平安末期には衰退し鎌倉時代には火災で焼 失。後に遺跡の東北300mのところにある現在の「安倍の文殊」として知られている文殊院に移ったそうです。 旧阿部地区二階堂の仲麿屋敷とよばれる方形の土壇周辺で、安倍寺跡といわれていた。昭和四二年の発掘 調査で寺の範囲は約二町(200m)四方で伽藍は南面し中門・塔(西方15m土壇)・金堂跡(東方の土壇)・北方 に講堂・回廊等の建物跡が確認されました。北に講堂跡が推定され法隆寺様式及び川原寺式の伽藍配置に 近いとされています 出土品としては唐草文の瓦や弥生式土器・土師器・須恵器・鉄器等が出土、他に中世の 灯明皿や金堂跡南側から磚仏の破片も出土しました。また安倍の文殊院建立用の瓦を焼いたのが、この安倍 寺講堂推定地の西にある■安倍寺瓦窯(国指定史跡)とみられる。鎌倉時代の平窯式とよばれる窯が五基残 存し保存されています。安倍寺跡は昭和45年3月11日(国指定史跡)指定・現在安倍寺跡は盛り土によって建 物跡の基壇が復元され史跡公園として保存されています。また安倍寺跡から西方に旧橋本地区(現在は安倍
部・吉備地区の灌漑用水となっています。地元では吉備大臣(吉備真備)が作ったといわれています。現在は 都市公園として保存されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ す。東側は畑地で西は櫟林(くぬぎばやし)北側の傾斜地は孟宗薮となっています。この場所が第二六代継体 天皇(ケイタイテンノウ)の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)があったといわれています。稚桜神社の祭神 は出雲色男命(イズモシコオノミコト)・去来穂別命(イサホワケノミコト・履仲天皇)・気長足姫命(オキナガタラシヒ メノミコト・神功皇后)です。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
と詠みながら、磐余池の辺を歩いたともいわれます。今では■春日神社の境内に磐余邑の碑があるだけで す。また桜井市には磯城島とよばれる地があり紀元前から六八年という長い間、崇神天皇の磯城瑞垣宮があ り、この御代に神皇分離が行われ天照大神を檜原神社に祀りました。それ以来この付近が上古の都の地にな り名高くなりました。敷島の大倭と続くのは敷島の地が大倭郷に属している処から石上布留というのと同じ枕 詞となり島とは宮廷領の一区域を指す言葉で「しきしま」は後に大和になって日本の国を指す言葉になりまし
屋)であり、この地は国際都市として大いに繁栄していました。古代の市場、海石榴市があるのも、この地で す。都の名が国の称えとなった例は無く磯城島金刺宮こそ大倭朝廷の勢力のある都ともいわれています。 また春日神社南方に吉備池とよばれる池があって吉備池周辺を発掘調査していた奈良国立文化財研究所が 最近池の底で古代寺院跡を発見し、これを■吉備池廃寺跡と名付け、百済大寺(くだらおおでら)の跡に違い ないと発表したそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ■山田寺跡は磐余の里、山田にあった古代寺院です。法号は浄土寺・華厳寺とよばれています。蘇我倉山田 石川麻呂(ソガノクラノヤマダノイシカワノマロ)の発願により七世紀半ばに建て始められて大化五年(649年) に石川麻呂が没した後に完成しました。平安時代には藤原道長がこの寺を訪れています。扶桑略記によると 治安三年(1023年)山田寺を訪れた藤原道長は堂内の奇偉荘厳は言葉で言い尽くせないほどだ。と感嘆して いて十一世紀前半には山田寺の伽藍は健在であったそうです。その百数十年後の記録である多武峰略記 (建久八年・1197年)によると当時の山田寺は多武峰寺(談山神社)の末寺となり伽藍は荒廃して、一部建物 は跡地のみになっていたことがわかるそうです。また明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となりました。その 後、明治二五年(1892年)に小寺院として再興され講堂跡付近に観音堂と庫裏が建つのみです。石川麻呂は 蘇我氏の一族であり蘇我馬子を祖父とし、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたります。石川麻呂は蘇 我一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対していて中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らの 反蘇我勢力と共謀し皇極天皇四年(645年)に起きた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)【蘇我入鹿暗殺】 に加担しました。乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられました。『日本書紀』によ ると乙巳の変の四年後の大化五年(649年)石川麻呂の異母弟・蘇我日向(ひむか)は石川麻呂に謀反の志 があると中大兄皇子に密告しました。それを聞いた孝徳天皇は石川麻呂のもとへ天皇の軍勢を差し向けられ ました。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害したそうです。石川麻呂は無実であり冤罪 (えんざい)であるとされるが事件の真相は謎である。山田寺の創建は『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく記さ れており山田寺については、この史料が引用されます。同裏書によると舒明天皇十三年(641年)始平地とあ り、この年に整地工事を始めて二年後の皇極天皇二年(643年)には金堂の建立が始まる。大化四年(648年) には僧が住み始める。とあることから、この時期には伽藍全体の整備は未完成であったが寺院としての体裁 は整っていたと見られます。石川麻呂自害が大化五年(649年)起こり山田寺の造営は一時中断しました。そ の後、天智天皇二年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ天武天皇五年(676年)に仏塔の 最上部の柱状の部分を上げる。とあることから、この年に塔が完成したものと思われます。天武天皇七年(678 年)には丈六仏像約4.8mを鋳造とあり、同天皇十四年(685年)にはその丈六仏像が開眼されています。現在 この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されています。また日本書紀には丈六仏開 眼の年である天武天皇十四年(685年)同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したと記されています。石川 麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には石川麻呂の孫にあたる持統天皇と夫の天武天皇の後援 があったと推定されています。また山田寺跡は昭和五十年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調 査が実施されています。発掘調査で昭和五十七年(1982年)東回廊の建物そのものが出土しました。土砂崩 れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱・連子窓などがそのままの形で 出土しました。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれな状況 であり日本建築史研究上、貴重な資料だそうです。出土した回廊のうち三間分が科学的保存処置を施し復元 された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されています。現在「山田寺跡」として国の特別史跡に指定 されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■外鎌山北麓古墳群(脇本・慈恩寺・忍阪)は近鉄朝倉駅の東南、標高292.5mの外鎌山の北から西にかけて の斜面に位置した古墳群で、団地造成に伴って発掘謁査されました。古墳群は総数三八基の古墳時代後期 と終末期古墳があり、東から竜谷支群13基・慈思寺支群15基・忍阪支群10基に別けることができるそうです。 竜谷支群は東端に位置する集合体で、十二基の古墳と一基の中世墓が調査されました。古墳はいずれも径 約10〜15m程度の小円墳で、埋葬施設は木棺を直葬するものと小型の横穴式石室に木棺を埋葬したものもあ る。二号・十二号墳は木棺を合葬し、七号・八号はやや大型の石室であったそうです。出土の遺物は銑鏃・銑 刀・刀子・馬具・金環・玉類・須恵器・土師器などであるが、八号墳からは水晶製の三輪玉(大刀の把の飾り) 一点も検出されている。六世紀前半から後半にかけての群形成と考えられています。慈恩寺支群は中央部に 位置し、十五基の古墳が調査された。一号墳が立地・規模ともにすぐれており、径約22mの円墳か全長約45m の前方後円墳の可能があるそうです。装飾付銀製中空勾玉・銀製空玉などの豊富な玉類のほか金環・銑鏃・ 刀子などが検出され、一号墳以外はすべて径約15m内外の小円墳で四号墳が横穴式石室を内部構造とする ほかはすべて木棺の直葬墳であった。四号墳は六世紀後半に下る以外は、六世紀前半から中葉にかけての 築造と推定されていいます。忍阪支群は西端に位置し、ほぼ西にのびる尾根上および南斜面に築かれ、最も まとまりのある支群である。古墳は8〜15m程度の円墳であるが、八号・九号は多角形墳の可能性もある。出 土遺物では四号墳の第二次埋葬から鉄鏃・鉄鎌・須恵器のほかに優秀な鉄製轡一式があり、三号墳の石室 内に遺存した土器類は埋納時の状能をを良好にとどめ、古墳時代後期の葬送儀礼を知るうえで極めて貴重な 資料となった。七世紀後半から末葉にかけての八号・九号墳を除いて、六世紀の初頭から後半にかけての群 形成が考えられている。これら八基の古墳のほかに、奈良時代の火葬墓と、中世墓がそれぞれ一基、調査さ れています。■忍阪八号墳■忍阪九号墳は忍阪支群の西端に位置し、東が八号墳、西が九号墳です。八号 墳は尾根の稜線から約10m降った南斜面に築かれた径約12mの円墳(多角形墳の可能性有り)で、周囲に幅 約3mの濠をめぐらす。埋葬施設は加工した室生安山岩によって築かれた磚槨式石室で、その平面プランは極 めて特異です。石室の南半分は失われていましたが最下段の石積の一辺は176.5pの正六角形で、南西に 羨道部か取付くと推定されています。石室には壁面にそって内側と石室外部に排水施設が設けられ石室外部 の排水溝は径約5.3mの正円形です。出土遺物は石室内から歯一個と銅製釘四、ガラス玉約百、須恵器杯蓋 片一、周濠より土師器甕一点です。九号墳も墳丘の南半分が破壊されていたが、墳丘の規模、外形や周囲の 濠は八号墳とほぼ等しかったと推定されています。埋葬施設も八号墳と同様の手法による磚槨式石室である が、その平面は奥行約1.9m幅約2.62m奥行より幅が広く、特異な造りです。周濠外から土師器甕一点を検出 しましたが、この古墳のものであったかは不明です。両墳の築造の前後は明らかでないが、七世紀後半から 末葉にかけてと推定されています。■慈恩寺一号墳の墳丘は後世の削平のため不明である。埋葬施設は地 山を掘り下げた二重墓壙に木棺を埋納した木棺直葬墓です。出土遺物および出土状況は金環二・装飾付銀製 中空勾玉七・銀製中空玉四六・琥珀製棗玉四・切子玉一・蜻蛉玉二が棺の中央から東よりに、滑石製臼玉一 四・ガラス製玉約百五十が棺全体から出土しました。鉄器、刀子一は棺内西より底部から出土し、鉄鏃四七本 は棺の東北棺外より一括して副葬してありました。■忍阪三号墳の墳丘は削平のため残っていませんが掘割 りの底が一部、認められるので円墳と思われています。埋葬施設は南に開口する左袖の横穴式石室であり構 築された石材は、ほとんど抜き去られていますが石室内の遺存状態は良好で埋葬時の状態をよく残していま す。施設は西側壁に接して棺台様の礫床を施し礫床の間から鉄釘が出土しているので木棺と考えられていま す。遺物の出土状態は埋納時の状態に近いと思われ、棺台南辺より奥壁には正立して棺台南から羨道にか けて倒立状態で出土し、古墳時代後期の葬送儀礼を知る上で貴重な古墳だそうです。これらの古墳は調査終 了後、忍阪一・二・八・九号墳は団地内の古墳公園に、三号墳は桜井市立文化会館前に移築されています。
■鏡女王忍阪墓( かがみのひめみこおっさかのはか ) は鏡王(カガミノオオキミ)を父に額田部皇女の孫で山 背姫王(ヤマシロノオオキミ)が母という王族の娘と言われています。額田王(ヌカタノオオキミ)の姉とされてい る皇女の墓です。また、別名で万葉集では鏡王女(かがみのおおきみ)・日本書紀では鏡姫王(カガミノヒメミ コ)という名前が記されています 。日本書紀には天武十二年(683年)七月四日に天武天皇が病気の鏡女王を 見舞いに行きましたが、その翌日亡くなったと記されています。鏡女王は謎の多い人物です。最初は中大兄皇 子(天智天皇)の妃になり、その後に大化の改新を推進する盟友で内大臣・中臣鎌足の夫人となり妹の額田 王は大海人皇子(天武天皇)の妃になっています。鏡女王は天智八年に藤原鎌足が重い病気を患った際に奈 良興福寺の起源となった山階(やましな)寺を夫の回復を祈って山背の地に造営したと伝えられています。そ の後、壬申の乱で勝利した天武天皇が都を近江から飛鳥に戻すと、山階寺も移建され厩坂寺と呼ばれました 和銅三年(710年)には都が藤原京から平城京に遷されると鎌足の次男である藤原不比等が厩坂寺を現在の 地に移し寺号を興福寺と改めて藤原一族の氏寺としました。この墓の管理は宮内庁ではなく意外なことに中臣 鎌足を祀る談山神社が管理している墓所です。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ■押坂内陵(おしさかのうちのみささぎ)は大伴皇女の墓とされています。欽明天皇の第九皇女です。大伴皇 ■石位寺は忍阪高円山にある石像浮彫薬師三尊像(重要文化財)で有名な無住の寺であり寺の創建(四柱造女は謎の多い人物で、日本書紀には欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩姫(キタシヒメ)との間に生まれた七男六 女の名前が記されています。その中に用明天皇や推古天皇の名もあり第九番目に大伴皇女の名があります 諸陵式に『大和国城上郡押坂陵域内に大伴皇女の墓がある。』と記されているので現在、宮内庁が陵墓とし て管理しているそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ の堂は元禄)は不明です。この石位寺の石仏は本堂の裏に収蔵庫があり石仏の願主は万葉集の女流歌人額 田王(ぬかたのおおきみ)といわれている我が国最古の石仏です。正三角形をなす砂岩に彫った押し出し三尊 仏で縦1.8m横1.25mやや丸みのある厚さ35p砂岩に高さ6pの半肉彫りです。本尊は頭上に天蓋があり両脇 侍は立っています。また晩年に川端康成が石位寺の石仏を拝観した時に『ほのぼのとした暖かいものがある、 まるで美少女といった感じに見える』と言ったそうです。石仏拝観料は200円、拝観期間は3月〜5月・9月〜11 月で拝観時間は午前10時から午後4時迄連絡先は桜井市観光協会(TEL 0744-42-9111) ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ 1.8m高さ約1.8m袖は左右ほぼ均等です。玄室との境に大きな一石を立て、あとはやや小さめの石を二段〜三 段に積み側壁として四枚の天井石で覆っています。玄室との境に接する天井石(見上げ石)はとくに巨大で石 舞台古墳のそれに匹敵するほどです。石室の床には拳大の礫が敷詰められ凝灰岩の組合せ式石棺の破片 が遺存しています。周辺に浅い溝の刻まれた板石は棺底で、その溝の形状から一部を欠失しています。現在 の二個を併せた長さ約2.2m以上の大型の組合式石棺と思われる。残りの一片にも溝は刻まれていますが溝 の幅はやや狭く棺のどの部分に相当するのか不明であり棺の原型は不明です。副葬品など遺物については 全く知られていないが石室の型式から六世紀末頃の築造と推定されています。粟原谷を見下す丘陵中腹部に 位置しており、粟原寺造営に関連した人々につながる豪族たちの奥津城ともいわれています。昭和四八年に 県の史跡に指定されました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ は昭和二九年、史跡に指定されました。また、この古墳の周辺には数基の古墳が群在し、すぐ西側のものは ■天王山第二号墳と呼ばれる横穴式石室をもつ方墳があって天王山古墳の西側にある一辺約19mの方墳で 南開する片袖式の横穴式石室をもち玄室の長さ約4.4m幅約1.8m現高約1.5m羨道の長さ約4.9m幅約1.7m入 口は土砂に埋もれており内部に入ることが手来ません。北側にも横穴式石室をもつ円墳があります。■天王山 三号墳と呼ばれています。この古墳は天王山古墳の北側にある二段築成の円墳で径約11.2m高さ約4.5mあ ります。南に開口する横穴式石室をもち玄室の長さ約4.3m幅約2.5m現高約2.6m羨道の長さ約6m幅約1.7mで す。いずれも埋葬方法や副葬品については知られていないが、盟主墳である天王山古墳とともに六世紀末〜 七世紀初頭の古墳と推定されています■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ます。現在の桜井市高齢福祉センター付近です。倉橋の溜め池の東側、桜の宮広場に万葉集第三巻0241■ 【柿本人麻呂】の歌碑があります。大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも 【訳】長皇子は神でいらっしゃるので、立派な木が茂っている荒れた山の中にも、湖をお作りになることよ。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
い造りで通例の羨道と玄室の他に玄室の奥に天井が一段低くなり、石扉をもった小さい石室・奥室とからなっ ています。玄室は長さ約2.18m幅約1.36m高さ約1.68m側壁約1.2m位までは垂直に、それ以上は内に持送っ て傾斜させ、大きな花崗岩の天井石を構架しています。奥室は長さ約2m幅約0.7m高さ約0.9m底に板状の石 を敷き一段高く、奥壁に板石を立て、側壁はレンガ状の板石を積み上げています。奥室の正面は石扉をはめ 込むように切り込まれ、扉の軸受けの穴が入口の西側・底石と上方のまぐさ石に彫られ片開きの石扉も発見さ れています。玄室と奥壁の壁面は全面に漆喰が施され、羨道は長さ約4m幅約1.1m天井石は失われているた め高さの詳細は不明です。古くから開口しているので棺・副葬遺物などについても不明です。磚槨式の石室を もつ古墳は桜井市東部・榛原地区のごく限られた地域に十数基みられるが、奥室を有するのはこの花山西塚 古墳だけです。保存状態の良い西古墳が昭和二年四月八日に国の史跡に指定されています。
■花山東塚古墳は花山西塚古墳の東南約70mの南斜面に築かれた径約17m高さ約3.5mの円墳です。西塚 古墳と同様に背後の山林と区別するための浅い掘割りが確認されています。石室は南に開口する磚槨式の 横穴式石室で石英粗面岩の板石を漆喰で固めながら積み上げており、その表面全面に上塗りをしています。 羨道部はほとんど消失していて玄室の長さ約3.15m幅約1.72m高さ約1.9m(推定)です。■花山塚西方の古墳 群は花山塚西方約700m標高約400mの地点で陵線から南側斜面に古墳時代後期から終末期にかけての数 基の古墳群がある。この内の一基に古墳の名称はないが特異的な構築をした古墳があります。この古墳は、 東西に延びる尾根の陵線より南へ垂直で約4m下った所で、東西約10m南北約9m高さ約3mの円墳です。墳 丘の背後は掘割りを施し、墳丘には各所に茸石と見られるものがある。尾根の陵線から墳丘の背後の掘割り に向け上幅約1mの道がある。この道は掘割り底部より一段高くなっています。石室の入口から2mの所から約 30p低くなり、径約7mの前庭と思われる平坦な部分がつづき、それより南は急斜面となっています。埋葬施 設は主軸をほぼ南北にする横穴式石室が墳丘の南北主軸を挟み相対的に二基の石室が平行していて東側 の石室には入ることが出来ませんが西側石室とほぼ同様であるそうです。西側石室は全長約4.1m幅約約1m 玄室と羨道を分ける袖はなく、また持送りも認められないそうです。東西石室の間隔は入口部で約1.8mです。 この古墳は保存状態もよく墓道・埋葬儀礼等の遺構が遺存している可能性があるそうです。
んじゃ)・慶長八年(1603年)に建立された三間春日造りの■春日神社・泊瀬朝倉宮跡地の可能性が高い■ 脇本遺跡・白山比命と菅原道真を祭神とする■白山神社などがあります。こ社寺を結ぶ道はかって初瀬街道 (伊勢街道)とよばれています。平安時代の紫式部・清少納言などの有名な人々が京都から海柘榴市へと旅を して旅の疲れを癒した後、長谷寺へ参詣した道といわれています。江戸時代には伊勢参りが盛んになり山越 をして伊勢に行く伊勢街道として世に知られるようになりました。優れた外交の雄略天皇の宮は隠口(こもりく・ 山間の隠れた国)の初瀬谷に構えたそうです。この地は鳥見山と三輪山に挟まれた峡谷を隠口(こもりく)の国 とよばれていました。また考古学的には現在まで宮地と断定できる発見はされいません。旧指定村社である。
氏の円大臣(ツブラノオオオミ)宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は三人共に焼き殺し てしまう。さらに、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ・仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(ミマ ノミコ)をも謀殺し、政敵を一掃して十一月に大王の座に就いた。即位後も誤って人を処刑することが多く、後に
起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にしまし た。日本書紀には他に播磨の文石小麻呂(アヤシロノオマロ・469年)や伊勢の朝日郎(アサケノイラツコ・474 年)を討伐したと記されています。また、ここ上岩坂は昔、岩坂とよばれていて、この地から一部の人達が村を 新しい場所で開拓するために東岩坂(狛)や下岩坂に移住したそうです。■現在、当時の名残として下岩坂は 村人達の移住時期が正月間近であり、家の入り口に飾る「しめ縄」が間に合わず飾れなかったそうです。これ が現在も続いており、下岩坂は「しめ縄」を飾らない村の風習として残っています。 ■万葉集第一巻0001雄略天皇 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は お しなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも 【訳】美しい籠をもち美しい篦を手に この丘で菜を摘む娘よ そなたはどこの家の娘か 名はなんというのか この 大和の国を 隅々まで治めている 全てを支配している この私から 名をも家をも名乗ろう。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
し本尊は十一面観音・開基(創立者)は道明上人とされています。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所で あり日本でも有数の観音霊場として知られています。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に 本堂が建ち初瀬山は牡丹の名所であり毎年四月下旬〜五月上旬は150種類以上、約7,000株と言われる牡 丹が満開になり長谷寺は古くから花の寺とよばれています。また「枕草子」・「源氏物語」・「更級日記」など多く の古典文学にも登場します。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻の出来事に登場する二本(ふた もと)の杉は現在も境内の月輪院、東側に残っています。長谷寺の起源と歴史は創建が奈良時代、八世紀前 半と推定されるが創建の詳しい時期や事情は不明です。寺伝によると天武朝の朱鳥元年(686年)道明上人 が初瀬山の西の丘(本長谷寺)に三重塔を建立、続いて神亀四年(727年)徳道上人が東の丘(本堂の地)に 本尊十一面観音像を祀って開山したといわれます。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め万 寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており中世以降は武士や庶民にも信仰を広めました。長谷寺は東大 寺(華厳宗)の末寺でしたが平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり十六世紀以降は興教大師覚鑁 (かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっています。天正十六年 (1588年)豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し同派の僧正専誉により現在の真言宗 豊山派が大成されました。十一面観音を本尊とし長谷寺を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多 くあり他と区別するため『大和国長谷寺』『総本山長谷寺』等とよばれます。長谷寺の伽藍は■登廊、本堂入 口の仁王門から本堂までは三九九段の屋根付き登廊(のぼりろう)を上ると本堂の西方の丘には「本長谷寺」 とよばれる一画があり、五重塔などが建つています。■本堂【国宝】のほか仁王門・下登廊・繋屋・中登廊・蔵 王堂・上登廊・三百餘社・鐘楼・繋廊が重要文化財に指定されています。本堂は本尊を安置する正堂(しょうど う)であり、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり・ 舞台造)になっています。本堂は奈良時代から室町時代の天文五年(1536年)まで七度焼失しています。七度 目の焼失後に豊臣秀長の援助で天正十六年(1588年)に新しい堂が完成しました。後に堂の傷みが激しいた め堂を取り壊し新築することになり、徳川家光の寄進を得て、五年の歳月を有し慶安三年(1650年)に新築落 慶したのが現在の本堂です。高さ10m以上ある本尊、十一面観音像は天文五年の本堂焼失の二年後に完成 しており慶安三年の新本堂建設時には本尊を移動せずに行われたそうです。そのために本堂は内陣の中にさ らに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており内々陣は巨大な厨子の役目をしています。近世前半 の大規模本堂の代表作として2004年12月、国宝に指定されました。 ◆入山時間 8:30〜17:00(四月〜九月)・9:00〜16:30(十月〜三月)※牡丹まつり期間等時間延長有り。 ◆入山料金 個人 大人 500円 高校生 500円 中学生 500円 小学生 250円 団体三十名以上 大人450円 高校生 350円 中学生350円 小学生 200円 ◆駐車場(マイクロバスまで) 二輪 200円 普通車 500円 マイクロバス 800円 ※大型バスは、国道沿いの民間・市営駐車場をお使い下さい。■初瀬観光センター:0744-44-3331
山並みへと続く深い谷で長谷渓谷をつくっています。この渓谷を古代の人々は泊瀬小国(はつせおぐに)とよ び、かぎりないあこがれを抱いていました。万葉集第二二巻3331『こもりくの 泊瀬の山 青幡(あおはた)の 忍坂(おさか)の山は 走り出の 宜しき山の 出(い)で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜 (お)しも』【訳】初瀬の山、忍坂の山は、山並みがゆるやかにのびた形のよい山、そびえ立つみごとな山だ。こ の心ひかれる山が荒れるのはほんとうに惜しいことよ。万葉人が思いを寄せたこもりくの山里や川を詠った万 葉歌はたくさんあります。残念なことに七世紀後半から八世紀ごろになるとこの渓谷も、牧歌的な泊瀬小国(は つせおぐに)から葬送の地にかわっていきます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
の地で亡くなり、ここに葬られたと伝えられています。壬申の乱の後、天武天皇皇統が皇位を継承する事とな り天智天皇(テンジテンノウ)の第七皇子であった志貴皇子は皇位継承は無縁であった。政治より和歌等文化 の道を行く皇族でしたが宝亀元年(770年)に聖武天皇の第一皇女である井上内親王を后とし、母系では天武 系となる第六皇子の白壁王が大臣・参議の協議により擁立されて光仁天皇として即位した。この為に志貴皇 子は霊亀二年(716年)に亡くなっているものの春日宮御宇天皇(カスガノミヤニオワシマシシスメラミコト)の田 原西陵(たはらのにしのみささぎ)追尊号を受けました。同じく紀橡姫(キノトチヒメ)は春日宮天皇の后であり光 仁天皇の母であることから明治二七年十二月に宮内省令をもって橡姫吉隠陵(キノトチヒメヨナバリノミササギ) ときめられました。その後、この系統は現在まで続いており毎年十月十二日に祭典がおこなわれています。ま た万葉集には天武天皇の皇女、但馬皇女(タジマノヒメミコ)の墓がこの近くにあるといわれています。それは 異母兄の穂積皇子(ほづみのみこ)が雪の降る日、遥かにその墓のある吉隠の猪養(いかい)の岡をながめ て、悲傷流涕(ひしょうるてい)してつくった歌で■万葉集第二巻203『降る雪は あわにな降りそ 吉隠(よなば り)の 猪養(いかい)の岡の 寒からまくに』【訳】降る雪よ、ひどく降ってくれるな。皇女を葬った吉隠の猪養の 丘が寒いことだろうから。と詠まれています。猪養(いかい)の岡がこの付近だそうです。『大和志』には吉隠村 の上方に在り、山に楓多しと記されています。また、万葉集では吉隠の集落を詠んだ歌に 万葉集第 十巻2190『わが門の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の浪柴の野の 黄葉(もみじ)散るらし』 万葉集第 十巻2207『我が宿の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の夏見(なつみ)の上に 時雨(しぐれ)降るらむ』等 があります。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ ■日本書紀の神武天皇四年二月条に『乃ち霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小 野の榛原、下小野の榛原と日ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ』。神武天皇が辛酉(かのととり)の春一月一日 に橿原宮で即位します。その即位後、四年春二月二三日に詔をして「皇祖の霊が天から降り我が身を助けてく れた。多くの敵も平らげ天下は平穏無事である。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀り大孝を申し上げた い。」と言われ。この鳥見山に神を祀ってお礼をするといわれたそうです。当地を上小野の榛原(はりはら)・下 小野の榛原とよぶとされました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
す。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
(よこおおじ)・北の横大路は奈良盆地の中央部を斜めに通る道や筋違道(すじかいみち)などがあります。 ■山の辺の道は日本最古の道山の辺の道Tを参照。 ■三道【上ツ道・中ツ道・下ツ道】は南北へ直線に通る三道は、約四里(一里=531m×4=約2120m)の等間 隔をなしており東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と平行に並んでいます。現在も形跡が残っている箇所も多く存在 している。三道の敷設年代については『日本書紀』孝徳天皇の白雉四年(653年)六月条に処処の大道を作る、 とあることから七世紀中期には通っていたといわれる。日本書紀によれば壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事 には、すでにこの三道の名が見えるので天武朝以前には通っていたといわれる。七世紀に飛鳥盆地や周辺の 丘陵部で宮殿・寺院・貴族邸宅の造営などが行われていた事から斉明朝には巨大な建築物や山岳地帯を取 り込み石造巨大施設が作られていて軍事用及び材料運搬の道路であるといわれています。 ■上ツ道は桜井市山沿い〜天理市山沿いから奈良市猿沢池に通る道です。近世には上街道と呼ばれていま す。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり山田道〜飛鳥へと通じています。天理市櫟本で北の横大路と交わっ ています。 ■中ツ道は上ツ道と下ツ道の間約2.1kmの所を平行して通り南は藤原京の東京極をなし、北ではのちの平城 京の東京極となりました。橿原市天香具山〜奈良市北之庄町に通る直線道です。更に南は香具山を迂回〜 橘寺へ通る道を橘街道と呼ばれています。南下すると芋峠〜吉野に通る道。平安時代には吉野詣で賑わい御 堂関白記には藤原道長もこの道を通り吉野へ行くと記されています。 ■下ツ道は藤原京の西京極〜奈良盆地中央〜平城京の朱雀大路となる。橿原市〜天理市にかけては現在 の国道24号線と合致、平行する道。 近世には中街道と呼ばれるようになった。 ■横大路は三輪山の南〜葛城市二上山まで東西に通る道。北の横大路は斑鳩町法隆寺〜天理市櫟本まで 東西に通っていた道があった。 ■筋違道(斜行道・太子道)は法隆寺近くから飛鳥へ直線に通る官道。北西〜南東に斜めに通るところから、 筋違道と呼ばれた。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
橋爪朝子さんが春期特別展『葬送の風景−考古学と文献からみる古墳時代の葬送儀礼』の展示解説書の執 筆・編集をされています。この解説書を開いて古代ロマンの世界にタイムスリップしましょう!。現在社会の癒し になるかもれません。
建設されました。このセンターは埋蔵文化財の発掘調査や研究の成果を社会に普及し、地域文化の振興に役 立てる場として、市民の強い要望のもとに作られました。展示収蔵室においては桜井市教育委員会が昭和四 六年から行なっている発掘調査資料を中心に展示しています。センターの管理・運営には財団法人・桜井市文 化財協会があたり、市教育委員会と共に祖先の残してくれた数限りない文化財という遺産を大切にし、また教 育資料として活用をすすめているところです。 ■常設展示のポイントは桜井市の原始から古代までを各時代ごとに展示しています。また埴輪や、纒向遺跡 も特集して展示しています。市内の主要遺跡の出土品の流れから、桜井市の歴史を理解していただけるよう、 企画しております。当センターでは桜井市内の埋蔵文化財に関するさまざまな仕事を行っています。発掘調査 の届け出業務・発掘調査の必要性の有無の相談をはじめ、調査経費の試算なども行っています。発掘調査が 終了すると出土した土器などの遺物は当センターに持ち帰り作業室で水洗いを行います。次に乾燥後、整理 室で接合復元や出土地点の注記を行います。接合復元のできた土器などは製図研究室で作図を行ったり写 真をとったりします。そして展示できるものは展示収蔵室で展示し市民のみなさんに見学してもらいます。この 他、木製品や金属製品は特別な処理が必要ですので木器処理室や金属製品処理室で保存処理を行い特別 収蔵庫で保管します。また現場で作った図面や写真は製図研究室で整理し報告書を作成します。整理できた 図面・写真や作成した報告書は図書資料室に収納しています。発掘調査の終りには現地説明会を開きますが センターでも説明会や講演会を計画しています。講座室や多目的室で講演やスライドを上映します。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■■桜井市観光情報サイト『ひみこの里・記紀万葉のふるさと』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||