■トップページへ■ニコミ紙やまとくんの記事を抜粋掲載。やまとくん

瓦版(かわらばん・木版摺り)は江戸時代、天変地異や大火、心中
などの出来事を速報するための情報紙のことです。街頭で読みなが
ら売り歩いたことから、読売ともいわれます。一枚摺り、絵入り、など
もあり幕末期には多く出版されていました。明治初期までは出版され
ていたが、後に新聞の発刊等により瓦版は無くなりました。また現存
する最古の瓦版は大坂の陣を記事としたものがあるそうです。 
元気な奈良県!
■やまとくんキャラの紹介
奈良の元気な情報紙「やま
とくん」にキャラクターが続々登
場中。その名も 『やまとくん』
奈良=の歴史を踏まえ、やまと=奈良神社・佛閣=飛鳥時代=弥生時代=ヤマトと連想し、やまとくんのイメー
ジが完成。「人に優しく・世の中を鋭く見る目」を持つやまとくん。人に優しくは、何事も角の取れた形体で円(和
の心)と角丸四角(厳しくも優しい)を使ってのキャラクターが誕生しました。
■水源地の村から メッセージ
柿渋染自然の恵み
先人達の知恵を生かし作られた。柿渋染めは化学染料を一切使用せず3年間熟成させた柿渋だけで染め上げ
たもの、水をはじき、腐りにくく、防虫効果があり自然が生み出す天然染の素朴な風合い、色合いが楽しめる。 

鹿せんべい ならの鹿さんからの便り
 「奈良のシカ」は、万葉集(759年)にも詠まれ、このころからシカは奈良に生息していた。現在、およそ1200頭
の野生の鹿が奈良公園にいる。近年、食べ物の匂いのついた石油製品の弁当箱や袋などのゴミを食べ、それ
らが消化されないまま、かたまりとなって胃にたまり、食べ物が食べれなくなり栄養不良で死亡するシカが増え
ている。本来、シカは草食動物、奈良公園内の芝や木の実などを食べている。「鹿せんべい」は、おやつ程度で
主食ではなく、むやみに人間の食べ物を与えないようにしましょう。 

ちょこっと!雑学 ヨーロッパでは「japan」と呼ばれた漆器
漆器のことを英語ではjapanといわれていた。徳川幕府の時代、日本では長崎だけが国内唯一の窓口となって
貿易が許され、陶磁器や錦織物などとともに漆器がオランダ経由で輸出されていた。中でも日本の漆器の美し
さは当時のヨーロッパの人々を魅了し、ルイ16世の妃でフランス革命後に処刑されたマリー・アントワネットは熱
心な収集家であったことで知られていた。そのコレクションの中には螺細(美しい貝殻を施した漆工芸の技法)が
独特の奈良漆器もあったかも知れない。現在も英語の辞書に載る「japan=漆器」という単語は、漆器が日本を
代表する工芸品として強い印象を与えた歴史を物語るものだろう。 
■人力「時代かご」古都・奈良に登場!
奈良路を駆ける・・・・人力『時代かご』
かつて倭の国と呼ばれたこの地に、人力時代かごが登場。昔懐かしい風情と情緒を求め、旅人はこの地を訪れ
る。時代は変われど、今も変わらぬ風情は、旅人をいにしえの世界に案内してくれる。奈良の思い出、大和のこ
ころを「かご」に揺られながら…。
■新シリーズ・・歴史ルネサンス 
第01回歴史ルネサンス弥生から古墳へ−桜井からみえる時代の流れ−(1)
 邪馬台国の時代と言われている二世紀末〜三世紀代の遺跡の中で今注目を集めているのが、桜井市にある
纒向遺跡です。纒向遺跡は東西約2km南北約1.5kmに渡り広がる大規模な集落跡で、その集落の内側に築造
されている最初の大型前方後円墳である箸墓古墳をはじめ、出土したミニチュアの引き船をかたどった木製品の
存在から水路としても利用されていた可能性が考えられる幅5mの大溝や小規模ながらも方位に合わせて建て
られた掘立柱建物、木樋と石組みからなる導水施設などの遺構のほか、弧帯文が施された円盤・石板・特殊器
台や全国各地で作られた土器など多種多様な遺物がこれまでに確認されています。これらの調査データから、
当時の倭の国の中心的な施設がこの纒向の地にあったと考えられています。国の代表者のモニュメントともいえ
る280mを越える大型古墳や、まるで現在の東京に人が集まるように西は九州、東は関東と広い範囲から多くの
人が集まり、それまでの弥生時代までには見られない新たな祭祀の形の創造はそれを象徴していると言えるで
しょう。
ところで纒向遺跡が出現する以前の弥生時代後期には、この地域にはほとんど人が住んでいなかったのか、前
身となるような集落の遺跡は今現在でも見つかっておらず、僅かに6ヶ所で小溝や土坑などの小規模な遺構が
確認されているだけです。つまり纒向遺跡はそれまでの弥生時代からの集落を引き継がずに、当然に姿を現し
た集落であると考えられています。それでは最初の国の中心地とも言うべき大規模集落である纒向遺跡が出現
するまでにはどのような経過があったのでしょうか。特に桜井で確認されている遺跡の動きをクローズアップしな
がら、弥生時代中〜後期そして古墳時代への過渡期の様子を探っていきます。

文・桜井市立埋蔵文化財センター松宮昌樹 

第02回歴史ルネサンス弥生から古墳へ−桜井からみえる時代の流れ−(2)
 弥生時代の桜井市内には、初瀬川・寺川を境とした北側と南側に、それぞれの地域を代表する大規模な環壕
集落と考えられる芝遺跡と坪井・大福遺跡が営まれていました。芝遺跡は桜井市大字芝に位置する推定東西
約800メートル南北約400メートルの広さを持つ遺跡で、特に弥生時代中〜後期の豊富な遺構・遺物が確認さ
れている遺跡です。具体的には集落を巡る環壕の可能性がある大溝をはじめ、竪穴式住居や方形周溝墓が多
く見つかっているほか、高床式建物が線刻された土器片や銅鐸形土製品などの貴重な遺物が出土しています。
坪井・大福遺跡は桜井市大福と橿原市坪井に跨る推定約500メートルの範囲を持つ集落跡で、これまでの調
査で中期には少なくとも6重の環壕が巡っていた事が解っています。またこれ以外にも集落内からは多数の溝
やピット・土坑などの遺構のほか、シャーマンの絵が描かれた絵画土器や漆塗り木製柄頭などの珍しい遺物も
見つかっています。
この二つの集落は、弥生時代前期に始まり後期の前半〜中頃まで、場所を変える事無く規模も保たれたまま存
続した集落だったと考えられます。しかし後期中頃以降になると、規模の縮小やそれまで生活していた場所から
その周辺に移動・分散する様子が見られ、特に坪井大福遺跡の西・南側では、弥生時代後期前半までは遺跡
がなかったにもかかわらず、密度は希薄ながらも溝や土坑などが確認されるようになります。この傾向はほかの
奈良盆地内の集落遺跡にも見られ、後期後半、つまり纒向遺跡が出現する直前の大和の風景は、大規模な環
壕集落が徐々に無くなり小規模な集落がいくつも見られるようなものに変わっていったと考えられます。ところで
大和以外の畿内地域、特に瀬戸内海に面した地域や大阪湾沿岸などでは、大和より少し早い弥生時代中期末
から後期前半の段階に、大規模集落の縮小もしくは低地から丘陵上への集落の移動や、急な山の上に濠を巡
らせた短期間だけの集落が築かれるなどの動きが見られます。これらは主に集落の守りの機能を強化したもの
と考えられ、中期から後期に移り変わる際の社会情勢の不安定さの現われとされています。一方大和では中期
以来の主な大規模集落が後期前半まで残り、防御性を高めた集落も例が少なかったため、そのような緊迫した
争いを想像させる程の緊張感は比較的少なかったとされていました。しかし大和も畿内一帯と同様であった事を
伺わせる資料が、最近の調査で確認されました。
文・桜井市立埋蔵文化財センター松宮昌樹

第03回歴史ルネサンス弥生から古墳へ−桜井からみえる時代の流れ−(3)
 JR・近鉄桜井駅から南へ約10分歩くと、盆地に突き出すように立地している標高約127mの安倍山丘陵があり
ます。桜井市民には『桜井公園』として知られる丘陵で、粘土郭をもつ前期後半の双築古墳や渡来系遺物が出
土している稲荷西2号墳古墳(桜井児童公園2号墳)、安倍山城跡などの遺跡が多数集中しています。この丘陵
上から、平成19年度に行われた発掘調査で弥生時代後期前半〜中頃の3重の環壕を持つ集落が確認されまし
た。これまでにも丘陵の北側で弥生時代後期の土器が表採されているほか、後期後半の時期にあたる溝が別
の調査でも確認されていた事もあり、規模は不明ですが弥生時代後期を通じてこの丘陵上に集落が営まれてい
た可能性が高くなりました。
これまで盆地に面した丘陵上に位置する集落遺跡の中で、防御性を重視したと考えられる複数条の溝を巡らす
ものは天理市に所在する2条の環壕を持つ東大寺山遺跡しか例がなく、畿内一帯の高地性集落の分布に当て
はめて見ても中心的な地域からやや外れていました。しかし今回新たに高い防御性を意識した集落が確認され
た事により、大和も他と同様に強い緊張感に包まれていたと考えられます。
この緊張感を生んだ原因は様々な説があります。有力視されているのは、鉄器の普及により弥生時代中期まで
の伝統的な石器などの流通ルートが崩壊し、鉄を確保するためのルートをめぐり争ったとする説と大陸や半島の
政治的な混乱を根源として弥生時代中期までの社会が変化し、新たに地域間の力関係をめぐる争いが起こった
とする説があります。いずれにせよ『倭国乱』の直前にその引き金となる緊張状態があり、その過程をへて次の
時期に纒向遺跡が出現すると考えられます。
これまでみてきたように、桜井市内で調査された遺跡のデータが弥生時代から古墳時代へ変化していく様子を
知る重要な手がかりとなっている事がわかります。古墳時代初期段階の倭国の中枢と目される纒向遺跡はどの
ような点がそれまでの弥生集落と異なっているのでしょうか。
文・桜井市立埋蔵文化財センター松宮昌樹

第04回歴史ルネサンス纒向遺跡と古墳の出現−桜井からみえる時代の流れ−(4)

 奈良盆地の東南部、秀麗な山容を持つ三輪山を背景としてひろがる纒向遺跡は、古墳時代前期の大規模な
集落遺跡として全国的にもよく知られています。3世紀初頭に突如として姿を現したこの大規模集落は、それ以
前の弥生時代集落とは全く異質なものとして歴史の舞台に登場しました。

 纒向遺跡の集落形成は、奈良盆地の他の集落が分散・縮小化する傾向にあった弥生時代の終末期にはじま
り、その後大規模な集落へと発展したと考えられています。発掘調査により様々な特徴が明らかとなっています
が、他の集落には見られない大きな特徴として、以下の二点を挙げることができます。

 一点目は、集落内の出土遺物の中に、他地域で作られたと考えられる土器が多数含まれていることです。土
器の製作地域は、東は関東地方から西は九州地方に及んでおり、纒向集落の人々が日本列島の広い範囲と
交流を持っていたことがわかっています。

 二点目としては、全長約280mの前方後円墳である箸墓古墳を筆頭とする古墳出現期の大型墳墓が、複数築
造されていることが挙げられます。前方後円墳はその後日本列島の各地で築造されるようになり、およそ300年
間にわたって権力者の墓として採用され続けますが、そうした墳墓形態は纒向遺跡において創出され、各地へ
と広まったものと考えられます。また権威の象徴である大型墳墓の築造には、多大な労働力と最先端の土木技
術が注ぎ込まれたと考えられますが、その背景には当時の権力者を中心とした社会構造を推定することができ
ます。

 纒向遺跡の集落構造については、依然として解明すべき課題が多く残されています。しかしここに挙げたよう
な特徴は、纒向遺跡が3世紀代の日本列島における中心的な集落であったことを十分に示していると言えるで
しょう。やがて畿内地域を中心として形成される古代国家の中枢勢力は、纒向遺跡を含めた奈良盆地東南部地
域を根拠として成立したものと考えられます。

このように纒向遺跡の集落は、日本列島における国家形成過程において重要な役割を果たしたと考えられます
が、4世紀前半以降の時代の大きな変化の中でその役割を終え、次第に衰退していきます。そうした時代の変
化は、この時代を象徴する大型前方後円墳の中にも見てとることができます。
文=桜井市立埋蔵文化財センター 福辻淳 
■新シリーズ・・歴史ルネサンス 
第1回歴史ルネサンス松塚古墳・発掘現場から・・・
飛鳥美人と高松塚古墳発掘現場(写真)高松塚古墳の石室壁画のうち、北端の西壁石に描かれた4人の女
子群像。東壁の北端の石材にも女子群像があるが、特に西壁は優雅な顔立ちが特徴的な女子像があることか
ら「飛鳥美人」として親しまれてきた。西壁女子群像は幅約42p高さ約42p。著名なのは左から3番目の赤色の
上着と青色の腰ひもをした女子像(高さ34p)。
【発掘担当者が語る、壁画保存への道】・・・2007年5月26日、最後の壁画となった男子群像を取り上げ、無事
に壁画修理施設へ搬送された。今後、慎重に壁画の修復作業が進められる。石室解体の現場に立ち会った明
日香村教育委員会文化財課の相原嘉之さんに「高松塚古墳の発掘現場から」をレポートしていただきました。
■【苦渋の選択】・・・昭和47年3月21日、明日香村平田にある高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されました。
しかし、35年を経た今日、石室内にカビが発生し、壁画が劣化していることが判明しました。各分野の様々な検
討の結果、発掘当時と比べて石室内での温度・湿度に変化が現われ、カビの発生が収まりきれない状態が続
きました。そこで壁画を守るために、石室を解体して壁画を修理するという苦渋の選択をしたのです。【プロジェク
ト発足】我が国の文化財保護行政上、はじめて壁画を守るために石室を解体修理することになりました。このプ
ロジェクトを成功させるために、石室を露出させ考古学的な記録をとる発掘班、石室を解体し、修理施設に運ぶ
解体班、カビなどの微生物に対応する生物班、温湿度など壁画保存の環境を整える環境班、壁画を保護・修理
する養生班と、それぞれのグループが協 力し合って進めています。すでに石室を構成する16枚のうち、壁画の
描かれている12枚については無事に解体し、修理施設へと運ばれましたが、まだ床石4枚が残されています。
【劣化の構造解明】解体修理にあたっては、石室を露出する必要があります。発掘調査は墳頂部から版築を掘
削しますが、その過程で版築の構築方法や石室の設置方法など古墳の築造状況に関するいくつかの知見を得
ることができました。本来、古墳の調査とは、大きさや形、築造時期やその方法を解明するために実施します
が、今回の調査はこれに加えて、虫やカビの生える原因や壁画の劣化の構造を解明することも重要な課題で
す。このような点を解明することは高松塚壁画の今後の修理に必要なためだけでなく、同時に進行しているキト
ラ古墳壁画にとっても大切なことです。【画古墳の保存】さらに明日香村には第3の壁画古墳がまだあるといわれ
ていますが、今回の調査で劣化原因を解明し、保存対策方法を確立することによって、今後の壁画古墳の現地
保存への道が開かれてきます。つまり、今回の調査は高松塚壁画のためだけではないのです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第2回歴史ルネサンス高松塚古墳を掘る・・・
■高松塚古墳では壁画の解体修理に伴って、発掘調査を行っています。発掘調査の目的は、前回にも書いたよ
うに劣化原因の解明と古墳の築造方法の解明です。この発掘によって、新たな発見もたくさんありました。その
うちのひとつが天井石の謎です。高松塚古墳の石室の天井は、4枚の凝灰岩切石で構成されています。この天
井石のうち北端の一枚だけが他の天井石よりも小さくて薄い石が使われていました。石室は長さが9尺、幅が3.
5尺と極めて計画的で精巧に造られていますが、なぜ1枚だけ寸法が違うのでしょうか。この理由については調
査をしている私たちの中でも意見が分かれています。大和国平田の村で石室を組み立てていた石工は、南から
順番に天井石を組んでいた。3枚目の石を組んだ時、天井はすべて塞がるはずだったが、石の寸法が少し短くわ
ずかに隙間が開いてしまった。
○現場監督 ・・・ 「何をしてんねん。隙間があいてるやろが」。
○石   工 ・・・ 「石の長さが短いです。寸法が間違って来たようです」。
○現場監督 ・・・ 「葬式の日はもうすぐやぞ。しかたない、そこの石を使えっ!」。
このような会話で、現場監督は大あわて。しかたなく、近くにあった石材を転用してそこを塞ぎ、上を版築で覆うと
その石は隠れてしまいます。中からみるとしっかりとした石室が完成しているようにみえます。何とかお葬式の日
程にも間に合って、現場監督はホッとしたことでしょう。……このような話が現地であったのかもしれません。他に
も版築の積み方や石室の組み方、漆喰の塗り方など、今回の発掘調査では多くの新事実が判明し、同時に多く
の謎も残りました。発掘調査とはある意味、遺跡を壊すことでもあります。その代償として、そこからどれだけ多く
の情報を引き出し、記録に残すことができるのか。それが私たちの仕事です。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第3回歴史ルネサンス高松塚壁画 救出!・・・
■2007年4月から始まった高松塚壁画の解体も2007年8月21日に最後の床石を取り上げました。壁画を現地の
石室の中に置いていては保存ができないことから、一度石室の石材ごと施設に運び、修理をすることになったの
です。この解体にあたっては、これまで多くの方法を検討してきました。石材を吊り上げるのに特殊な器具を開発
したり、何度も解体方法をシュミレーションをしたりしてきました。しかし、これまでは石室の中からだけの観察で
石材の大きさや形状を推定していましたが、実際に発掘調査をして石材が露出すると、大きさや形状、組み方が
予想外であったことがいくつもありました。前回紹介した天井石もそのひとつです。その中でも飛鳥美人で有名
な西壁石の解体は最も困難な作業です。当初L字形の器具を使って持ち上げ、解体・運び出しをする予定でし
た。しかし、この石材は床石とぴったりと密着しており、器具の爪が入らなかったのです。しかも側石同士の組み
合わせ方から、西壁石をそのまま外側に傾けることもできません。無理に爪を入れると石が割れてしまう危険性
が高いのです。ここで解体を担当するチームは新たな方法で石材をずらしてから、持ち上げることをしました。そ
れは「コロ」を使うことです。まず、ジャッキで石材を少しだけ持ち上げ、そこに「コロ」の役割をする細い棒を差し込
み、北側にスライドさせてから持ち上げるのです。「コロ」とは重量物を運ぶのに使われたと考えられている運搬
方法で、高松塚の築造時にも使用されたと考えられます。実際、石室の南側には閉塞石の開け閉めに使われ
たコロのレール(道板)痕跡が見つかっています。最新技術を使った解体作業の中にも、古代人の知恵を今に応
用することができたのです。高松塚石室の解体は古代人との知恵比べであったとも言えます。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第4回歴史ルネサンス高松塚を揺るがす大地の記録・・・
■高松塚古墳は堅固な版築と精巧に作られた石室から構成されています。しかし、この堅固と思われていた古
墳も、発掘調査をしてみると大小様々な亀裂が墳丘にあることがわかりました。まずその兆候がみられたのは石
室です。石室の精密な測量を行ったところ、本来は水平に設置されていたはずの石室が、北東から南西に向か
って約七p程傾いていることがわかりました。正確には石室自体がねじれながら歪んでいます。さらに天井石は
南北に大きな亀裂がみられます。これらの原因としては過去に起きた大地震が考えられます。このことは石室解
体に伴う墳丘部の発掘調査でもみられます。墳丘を発掘すると、版築を貫く亀裂や断層が見つかりました。この
ひび割れや断層は、石室まで到達しています。これらの亀裂を観察すると、石室を中心に放射状に亀裂が伸び
ており、さらに同心円状にも亀裂が広がっていることがわかります。さらに詳細にみると、亀裂は石室石材の輪
郭に沿って走っていることがわかりました。つまり、地震によって石室が揺さぶられた時、各石材が振動し、微妙
な移動をすることによって周囲の版築から亀裂が起こるのです。これら墳丘の亀裂や石室の歪みを生じさせた原
因は飛鳥地域で過去に起きた大地震と考えられます。この地域では90年〜150年周期で起きる南海・東南海地
震があります。酒船石遺跡では684年に起きた白鳳南海地震で石垣が倒壊していることがわかっており、カヅマ
ヤマ古墳では1361年に起きた正平南海地震で古墳が寸断・崩壊しています。高松塚古墳ではどの地震である
のかは確定できませんが、天井石の亀裂は鎌倉時代初めに行われた盗掘よりも新しいことから、カヅマヤマ古
墳と同じ正平南海地震の可能性があります。これら地震の影響は高松塚古墳の劣化要因の一端を担っている
だけでなく、私たちに文化財防災についても喚起させているのです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第5回歴史ルネサンス高松塚壁画に忍び寄る微生物の影・・・
■「飛鳥美人」というキャッチフレーズをもつ高松塚古墳壁画。しかし、この壁画も度々カビによって劣化・汚染さ
れてきました。その都度、カビは除去されて危機は去りましたが、年を追うごとにカビの発生回数も増え、さらに
黒色のシミを残すカビも発生するようになりました。さらに、しっかりと盗掘坑を密閉しているはずの石室内でムカ
デやゲジゲジなどのムシも見つかりました。石室は築造当初、精密に組み立てられ、内側に漆喰を塗り、隙間も
ないような構造でした。しかし発掘調査では前回も紹介したように、地震によって石室が傾き、歪み小さな隙間
や亀裂が確認されています。これらのムシは石材の隙間から侵入してきたのです。このような石材の隙間や石
材と版築の間の亀裂はムシの進入路となっているだけでなく、カビの温床にもなっていました。カビは発生する
度に、薬品や薫蒸によって除去・退治してきました。石室内ではこのような作業の繰り返しによって、何とかカビ
の拡大を抑えていたのですが、近年はこれが追いつかず、さらに黒色のシミを残すものが増えてきました。発掘
調査すると、カビによって石材の外側や隙間が真っ黒になっていることが判明しました。つまり、35年間のカビの
発生によって、内側のカビは除去できたが、石材の隙間を伝って外側に蓄積していったのです。いくら内側のカ
ビを除去しても、すぐに外側から隙間を経て内側にカビが侵入することになります。発掘調査ではこのようなカビ
発生メカニズムの一端も明らかにしました。「飛鳥美人」も発見から35年を経て、壁画の劣化やシミが見られるよ
うになりましたが、発掘調査をしていた私たちは、調査中にみた「飛鳥美人」を何としても救い出さなければと、
気持ちを新たにして調査を続けたのです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第6回歴史ルネサンス高松塚古墳がもたらす文化財の未来・・・
■昭和四十七年、高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されました。新聞の一面にカラー写真で大きく取り上げら
れ、考古学や文化財が一般に認知された瞬間です。これ以降、古代史ブームが巻き起こり、明日香が文化財と
共存する村として歩む後押しになりました。同時に高松塚古墳壁画の保存が、当時の国家プロジェクトとして最
新の科学技術を駆使して実施されたことが、我が国の文化財保存の理念の確立につながっています。しかし、
発見から三十五年を経て、壁画は大きく劣化し、石室内の保存環境も著しく変化をしてきました。これらの原因
については、多くのことが指摘されています。漆喰層の物理的な劣化、壁画修理やカビの除去における使用薬
剤の影響、石室の保存環境の維持など、壁画の保存技術に困難な課題が多くあり、我が国において初めての
経験であることから試行錯誤の連続でした。この他にも、石室内点検時における損傷事故やその修復の未公
表、墳丘と壁画の管理体制の違いによる情報の共有ができなかったことなど、管理体制や情報公開の不備も、
壁画を現状のように劣化させた一因です。また、高松塚壁画がキトラ壁画と共に、我が国には二つしかない希有
な存在であることから、その保存施策に英断ができず、当初の方針を引きずっていたことも問題です。例えば、
十年ごとに保存方法の検証を行い、次の十年間の保存方針を検討することも必要であったのであろう。今回の
高松塚古墳の保存問題は、文化財保存の理念と技術、そして情報公開や管理体制など様々の課題を浮き彫り
にしました。これらは忘れかけていた、文化財と私たちのあり方を再考させるものです。今、再び国家プロジェクト
として壁画を守り、次の世代に伝えていく努力がはじまっています。多くの課題や反省を乗り越えて、もう一度文
化財保存の理念の構築が始まったのです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第7回歴史ルネサンス日本最初の本格的な都、藤原京T・・・
■16年という短命であった藤原京。 しかしその功績は、日本最初となる国家としての「品格と機能を備えた都市
づくり」であった。畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山を京域に、平城・平安京にも匹敵する藤原京。持統天
皇は、国家体制の中心となるべき新都建設計画を考えていた亡夫、天武天皇の遺志を引き継ぎ、694年の暮れ
に遷都した。藤原京の歴史的背景や文化財の発掘調査から、橿原市教育委員会の濱口和弘さんに、発掘現場
から見た藤原京を解説していただきました。
京都の街は碁盤の目のように縦横に道路が通っています。街を散策する時、何条辺りに居るかがわかっていた
ら、自分のおおよその居場所の検討がついて便利ですね。これらの道は、794年、平安京に都が移った時に造ら
れたものです。しかし、平安京より遡ること100年、694年(持統天皇八年)に日本でははじめて東西南北に通る
道路を備えた都が完成しました。それが藤原京です。日本の時代区分として、おおよそ四世紀から710年の平
城京遷都までの間を古墳時代と呼んでいます。この時代の終わりの六世紀末から七世紀初め頃、つまり推古天
皇の時代になると、それまで各地の豪族が地方を支配管理していたシステムに変わって、天皇が直接、日本全
国を支配しようとする動きが活発になります。100パーセント信頼はできませんが、聖徳太子による十七条憲法
や冠位十二階の制定などがそれにあたります。しかい、645年、有力豪族であった蘇我入鹿が暗殺された、い
わゆる大化の改新より以降が、中央集権国家と呼ばれる本格的な天皇中心の政治のはじまりといえるでしょ
う。唐帝国(中国)が東アジアにおいて強大な勢力を伸ばしつつあった672年、大海人皇子と大友皇子の間に、
壬申の乱と呼ばれる皇位継承をめぐる内乱が起こりました。乱に勝利した大海人皇子は、はじめて「天皇」号を
称し、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位しました。天武天皇は、唐に習った律令国家建設を目指し、官僚や
氏族の制度を整備するとともに、貨幣を流通経済の基盤とするため、飛鳥池遺跡からの出土で注目された富本
銭の鋳造を行いました。そして、より強く望んだことは新たに都「京」の造営だったと言えます。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第8回歴史ルネサンス東西南北に貫く道路を設置した藤原京U・・・
■新都「京」の創設を強く望んだ天武天皇は、天武天皇五年(676年)にその造営に着手したとされています。そ
してその拠り所になる記述が、『日本書紀』天武五年11月条の「是年(ことし)、将都新城(にいきに都をつくらむ
とす)。」です。この一文については、「新城(にいき)という場所に都を造る。」あるいは「新城(にいき)という名称
の都を造る。」などといった解釈もされていましたが、今は単純に「新しく都造りをする。」とういう意味として捉え
られています。ではこの時、本当に新都の建設は行われたのでしょうか。その答えは、天武天皇が皇后(後の持
統天皇)の病気の回復を願って天武天皇九年(680年)に建立を開始した本薬師寺(橿原市城殿町)の発掘調査
で明らかとなりました。(710年の藤原京か ら平城京への遷都に伴って、平城京内にも薬師寺が建立されたこと
から、藤原京内の薬師寺を便宜上「本薬師寺(もとやくしじ)」と言います)。1993年と1995年に奈良文化財研究
所によって実施された本薬師寺跡の調査において、中門や参道の真下にもぐる道路跡(南北方向に約7メートル
の間隔で並走する約1.5m幅の2条の溝)が発見されたのです。つまり、本薬師寺の建立以前に造られたこの道
路の存在が、676年に天武天皇が新都建設を着手した証拠なのです。このような道路は、2007年に行われた藤
原宮大極殿中門や他の藤原宮内の発掘調査でも明らかとなっています。天武天皇は新都建設において、東西
南北に通る道路の設置を最初に行ったのではないでしょうか。道路の両側に付く側溝によって、広範囲におよぶ
京内の排水機能が整備され、後に宅地となる地面の安定が図られました。しかし、唐の制度や都城景観の具現
化を目指した天武天皇は、それまでの飛鳥の宮にはなかった東西南北に貫く道路を新都に設置することに大き
な意義を見出していたものと思われます。新都造営の開始から8年が経過した天武天皇十三年(684年)、つい
に天武天皇が待ち望んだはずの宮の位置が、おそらく現在の藤原宮と大差ないと思われる場所に決定しまし
た。残念ながらその2年後の686年に天武天皇は、夢半ばにして新都への遷都を目にすることなく崩御します。し
かし、亡夫の遺志を成し遂げるため即位した持統天皇によって、新都の建設はその完成にむけて続きました。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第9回歴史ルネサンス藤原京時代から、今も連綿と引き継がれ・・・
■平成十九年(2007年)十一月、藤原宮大極殿の南門の西に隣接した場所から、平瓶(ひらか)と呼ばれる須
恵器の壺が1点出土しました。その中には六角柱の形をした水晶が入っており、口は富本銭によって塞がれて
いました。壺は一辺約60p、深さ約45pの穴の底に置かれた状態で出土し穴の周りには直径約23pの柱穴が
4箇所見つかりました。この壺の出土が、『日本書紀』にある持統天皇五年(691年)の「新益京(しんやくきょう)
の地鎮祭」あるいは翌年の「藤原宮地鎮祭」ではないかと大きく報道されたことは記憶に新しいことですね。天武
天皇の新城(にいき)造営開始から18年後の持統天皇六年(694年)十二月、亡夫の遺志を継いだ持統天皇
は、ついに藤原宮への遷都を成し遂げました。藤原京の様子を想像するなら、それまでの飛鳥の宮では目にす
ることのなかった200万枚以上の瓦が葺かれた屋根と、その下に朱に塗られた柱が立つ建物が整然と並ぶ、約
1q四方の藤原宮、そして、宮の周囲には碁盤の目のように東西南北に通る道路が一直線に走り、皇族や役人
をはじめとする多くの人々が暮らす広大な街が広がっていたことでしょう。まさにこの藤原京の景色は規模の大
小はありますが、天武天皇が目指した中国風の都城景観と言えます。藤原京の範囲を岸俊男氏(元橿原考古学
研究所所長)は大和盆地の主要古道である中ツ道・下ツ道・山田道・横大路が東西南北のそれぞれの京極とし
て復元され、長くその説は支持されてきました。しかし、今ではこの四古道の外側の耳成山、香具山、畝傍山の
大和三山を超える所まで広がることが解ってきました。その西と東の京極は、平成七年(1995年)の橿原市教育
委員会の調査と平成八年(1996年)の桜井市教育委員会の調査で、たて続きに明らかとなりましたが、南北の
京極は未確定です。持統天皇を継いだ文武天皇の即位から5年後の大宝元年(701年)二官八省から成る役所
の名称や組織構造が大きく整理された「大宝律令」が制定されました。残念ながら省庁再編によってその多くの
名称が今は消えてしまいましたが、大蔵省や宮内庁(省)はこの時に付けられたものです。そして、発掘調査で
も藤原宮内の役所の建物が「大宝律令」の制定に伴い建て替えられたことが明らかとなっています。2007年11
月に出土した、先の地鎮祭の壺が埋められていた穴の周りの4箇所の柱を立てた跡も、現代の地鎮祭で行われ
る宅地の4隅に青竹を立てる風習の基ではないかとも話題になりました。そして、現在の官庁組織や官僚機構
の基盤がおよそ1300年前の藤原京の時代に形作られ連綿と今に続いていることや、藤原京の未確認の南北京
極がこの土地の下に眠っているかと思うと、歴史の重みを感じると共に新たな史実の発見に期待しながら胸躍ら
さずにはいられないですね。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第10回歴史ルネサンス天皇と上級役人の仕事場・・・
■飛鳥時代、歴代の天皇が移転を繰り返してきた「宮」が、碁盤目の道路網と大小の街並みをそなえた「都」と
なり、後の平城京、長岡京、平安京へと受け継がれる端緒となったのが、本稿の舞台となる藤原京です。『権力
象徴する中国式建築』皇族や有力氏族の衝突や陰謀が相次いだこの時代、壬申の乱で皇位を巡る争いに勝利
した天武天皇が、中国の皇帝を中心とする政治体制や都のしくみを手本として、天皇中心の安定した政治 体制
とそれを生かせる新しい都づくりを計画したのです。この大改革には保守的な抵抗勢力の反発もかなりあったの
でしょう、天武五(676)年に工事が始まりますが、一度は中止へと追い込まれます。しかし、改革の強い意思は
皇后である持統天皇へと引き継がれ、持統八年(694年)年にようやく完成します。発掘調査ではこの複雑な事
情を物語るかのように、天武天皇の時代に建設された道路跡もあちこちで見つかっています。約5q四方に及ぶ
広い藤原京のほぼ中央にあるのが、持統・文武・元明の三代の天皇が治めた藤原宮です。周囲を大通りと高い
土塀や濠で囲み、内部を大小の区画で区切ったその中央には、天皇の執務の場である大極殿院があります。
その中心建物である大極殿は二階建て風で格式高く、瓦葺き・丹塗り柱・高い基壇に礎石立ちという中国式宮
殿建築で、当時最大の建造物でもあります。ひときわ高いその荘厳さには、見るもの全てに天皇への権力の一
極集中と絶対性を印象づけるねらいも含まれていたことでしょう。つまり、国家祭祀や年中行事など歴代の天皇
に受け継がれてきた伝統的な儀礼の場を、中国式権力の象徴の舞台装置である宮殿建築様式でもって政治の
中心施設へと演出したのが、藤原宮大極殿なのです。■大極殿院の南にある朝堂院と呼ばれる区画には、国
家的セレモニーの舞台となる広場があり、その東西に六棟ずつ、合計十二棟の大型礎石建物が並び、大臣をは
じめとする上級役人が執務していました。東側での発掘調査によると、瓦葺きの中国風な外観は同じでも、建物
の内装、特に床の構造に違いがあることがわかりました。一番大極殿に近い(より位の高い)1棟では土間(何ら
かの床張りはあったのかもしれません)、残りの五棟では板の間であったようです。このことから、大臣などの幹
部は椅子にゆったりと腰掛け、残りの上級役人は低い腰掛けの上にあぐらをかく、という執務形態が考えられて
います。天武天皇が目指した、天皇を中心とした新しい政治体制は藤原宮で確立しましたが、職場環境の福利
厚生にはだいぶ格差もあったようです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第11回歴史ルネサンス天皇と上級役人の住まいと暮らし・・・ 
■碁盤目の宅地が広がる藤原京は、有力氏族は自分の地元に住んで宮へと出仕する(飛鳥と斑鳩とを結ぶ「太
子道」は有名ですね)という伝統的な通勤形態をやめ、皇族や大臣などの上級役人から位の低い下級役人ま
で、さまざまな階層の人々に宅地を与えて日々宮へと出勤させるという、初めての「住み込み」の都でした。当時
の皇居である内裏は大極殿の北側に接しています。広い敷地のほとんどが未発掘ですので具体的な様子はわ
かりませんが、それまでの宮や一般住宅と同じ檜皮葺き(あるいは板葺き)の掘立柱建物のようです。公的空間
の派手な演出と対照的に、私的空間については昔ながらの落ち着いた住まいにこだわったそのお気持ちには、
大いに同 感できるところです。一方の藤原京は、だれがどこで暮らしていたのか、いわゆる住宅地図が全くの白
紙状態です。しかし発掘調査で見つかった建物の大きさや棟数、屋敷を囲む塀の位置などから、また遺跡の地
盤の状況から、そこが大邸宅か小規模な住宅かをある程度想像することはできます。というのもすべての建物は
平屋建てで、多くが一部屋造りであることから、住人や家畜の数、建物の役割に応じて数が増えていくからで
す。また屋敷を囲む塀はお隣りの境界線ですので、そこからわかる広さは住んでいた住民の位をも表していま
す。そして根腐れなど木造建築の弱点のもろもろを抱えた掘立柱建物にとって、地盤の善しあしは土地評価の
重要な要素でした。16年間と短い藤原京では、大きなお屋敷では大きな柱の穴が整然としているのに対し、小
さな住宅では大小の柱の穴が重なったり入り乱れている、というわかりやすい違いがあります。藤原宮に近く良
好な地盤のところに大邸宅が点在し、離れるにつれて小さい住宅が多くなるようです。広さはもちろんのこと、自
分たちの勤務先である藤原宮へのアクセスの良さ、「○○台」ではありませんがそんな雰囲気の良好な地盤の
上にあること、これらが都人の当時の重要なステータスだったと考えられます。大邸宅では、主人が客人を招待
して宴を催すこともしばしばでした。右京のある屋敷内で出土した白黒の小石を使った碁石は、現代につながる
「囲碁」の文化を伝える貴重な発見です。同時に、双六などは奈良時代に賭博行為として禁止されるなど、この
ころの遊びには既に、表と裏の顔がありました。私もかつて屋敷の片隅に設けられたゴミ捨て穴から、須恵器の
坏(つき)と呼ばれるお椀を掘り出したのですが、中に大きなアワビの貝殻が入っていて驚いたことがあります。
全国から収められる特産品を書き留めた木簡に記されているのは知っていましたが遺物として生々しく(生もの
だからというわけではありませんが)目にするのは初めてでした。生アワビでしょうから当時特産品としていた志
摩国(三重県)から取寄せたのでしょうか。「生まれてこのかた食べたことがないのに〜」というねたみは置いて
おくとしまして、暮らしていると海を見る機会すら何年もないようなこの地で、客人と新鮮な海産物に舌つづみを
打つ1300年前のグルメを実感した良いエピソードです。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第12回歴史ルネサンス下級役人のお仕事と悲哀・・・ 
■並ぶもののない実力者である藤原不比等や高市皇子の息子である長屋王、古事記の太安万侶に日本書紀
の刑部親王など、古代史で一度は耳にする著名人が一時は住んだ藤原京ですが、当時の日本を支えたのは、
詠み人知らず、もとい名も無き実務部隊である多くの下級役人です。
■出世願い初出勤も吉日に■
■人口2〜3万人と推定されている藤原京の住民のほとんどがこれにあたり、広い藤原京のあちこちに居を構え
日々仕事場である藤原宮へと出勤していました。彼らの勤務場所は、内裏や大極殿院、朝堂院といった藤原宮
の中枢の東西にあり、東側を東方官衙(とうほうかんが)西側を西方官衙(せいほうかんが)と現在では呼んでいま
す。さしづめ今日でいう霞ヶ関の官庁街といったところで、その内部は担当部門ごとに区切った大小の役所で占
められていました。■コピーや写真のないこの時代、下級役人の仕事の多くは、各種の報告書や会計処理の明
細書などの文書作りや書き写しで、「文書行政のはじまり」とも言われています。それらの文書は、藤原宮のあ
ちこちで出土する木簡という形で今日見ることができます。内容は実に多彩で、物品請求の依頼書や支給明
細、手形といったお堅いものから、同僚の似顔絵といった息抜き的なものまであります。藤原宮での勤務時間は
日の出から正午までで、まだ暗いうちに家を出て、藤原宮の門前で開門を待たなければなりません。藤原宮か
ら遠い人は大変です。入城時間を過ぎると閉門しますので、基本的に遅刻はありえません。また多くの役人は
徒歩通勤でしたが皇族や上級役人の子息の一部には馬に乗って入城するものがあり、これを禁じる通達があっ
たことも記録に残っています。現代的で言えば、年若いキャリア組が高級外車での出勤を禁じられたようなもの
でしょうか。■夜間照明が乏しい時代ですから午後は自由時間とされ、冬場は特に日の短い奈良盆地のこと、
人々は所用や市場へと急いだことでしょう。休日は月四日、年俸は十八段階で給料格差は実に一千倍!ボーナ
ス は年二回、勤務評定は四〜六年に一度、といった現代のサラリーマンのような労働者事情が既に完成されて
いました。■藤原宮よりやや離れた右京の一角からは、三十五歳の役人(易学の専門家によると男性とのこと)
が宮への初出勤にあたりふさわしい日を占わせて、占い師がその結果を記した■木簡が出土しました。それに
よると「慶雲二(705)年三月十一日」が吉!と出たようで、さぞかし鼻息も荒く出勤したことでしょう。しかし、一緒
に出土した木簡には「無位だれそれ」という内容もあれば、特に大きな屋敷がある辺りでもありませんので出世
競争からは脱落気味で下町住まいの、下級役人のあせりが伝わってくるような資料でもあります。
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之

第13回歴史ルネサンス格差社会の底辺、律令と謎多き女性像・・・
■西暦701年、有名な大宝律令が制定されたのはこの藤原京においてでした。中国の都を手本とした宮城と道
路網、多くの寺院、全国からの産物であふれる市場などのインフラとともに、新しい官僚制度や律(刑法)と令
(基本法)という運用面においても完成をみたのです。
◆犠牲か悪女か、深まる論議
■藤原京には、天皇や国政に携わる多くの役人以外にも、僧侶やさまざまな技能者、商人などがいて、身分の
点で多くの階級がある格差社会をなしていました。現在でもワーキングプアと呼ばれる低所得者層が大多数で
あるのと同じように、役人の大部分が位の低い薄給層にあたり、昇進に必死であったことは前回述べた通りで
す。全国的に見ても重税にあえぐ人々が多く、里を捨てて逃亡するものも多かったようです。しかし現在にはなく
て藤原京には存在した、この格差社会の底辺を占めたのは、奴(ぬ、男性)婢(ひ、女性)と呼ばれる多くの奴隷
でした。かつて私は、「婢麻佐女(まさめ)生年廿九黒色」と説明のある人物画などが描かれたまじないの木簡を
発掘したことがあります。長さ四十六センチの長方形の板で、横に切り込みがあるので、ひもでぶら下げて野外
に掲示するという「おふれがき」に使われたようです。漫画チックな人物画について語ると長くなるので省略しま
すが、「木・火・土(金・水は消えていました)」や「急々如律令」という、陰陽五行説ではなじみの文句がはっきり
と残っています。出土当時、女性であること、「黒」は五行でいう「水」の色であること、「大神龍王」とも書かれて
いることなどから、水に関係するおはらいの木簡と考えました。「結界」の外に送るという祈願に対して、この二九
歳の女性を含む婢二名が人柱となったことを知らせたのではないかという解釈です。ところが、数年前に奈良国
立博物館で「古密教」という展覧会に出品した際、全く異なる解釈で紹介されました。というのも、この者たちが
何らかの大罪を犯したので、追放(処刑されたのかもしれませんが)の上清めのおはらいをした、というもので
す。呪術的に解釈した「黒色」は、たんに色が黒いという身体的特徴だというのです。確かに当時の戸籍を見て
も、「名前+年令+身体的特徴」というのは当時の一般的な表記方法といえます。ですがこれでは、悲劇の女性
をたたえる鎮魂の告示ではなくて、世俗の生々しいニュース記事(号外?)になってしまいます。現在その解釈
は決まっていませんが、「麻佐女」さんたち二人の女性は果たして、藤原京の水害を鎮めるための犠牲となった
「褐色」のヒロインだったのか、あるいは、文字通り律によって裁かれた「ガングロ」な不良女性だったのか、皆さ
んはどちらの女性像をご想像なさいますでしょうか。【おわり】
文・明日香村教育委員会文化財課・・相原嘉之
■公園であそぼう!
■うだアニマルパーク
『うだアニマルパーク』施設の目的は人と動物とのふれあいを通して、動物を学び、動物から学ぶ。そして「い
のちの教育」「生きる力」を育み、広く県民に動物全般に対する理解を促進するとともに動物に対する愛護の思
想について、普及啓発を図り豊かな社会づくりに寄与することを目的とした施設です。
問い=うだ・アニマルパーク 宇陀市大宇陀区小附(0745-87-2520)

■大渕池公園
 大渕池にあろ自然豊かな公園。西地区にはファミリー広場や遊歩道、東地区にはテニスコートなどがある。近
鉄学園前駅からバス。
問い=大渕池公園事務所 奈良市中山町西(0742-47-0700)

■生駒山麓公園
 本格的なアスレチックや幼児向け遊具などがある。近鉄生駒駅からの無料送迎バスあり。
問い=生駒山麓公園ふれあいセンター 生駒市俵口(0743-73-8880)

■郡山九条公園
 全長50メートルもあるローラーすべり台や芝生公園などがある。
問い=九条公園九条スポーツセンター 大和郡山市九条町(0743-52-1245)

■高田市 大中公園(おおなかこうえん)
大中公園
 高田川ほとりにあり、芝生公園や本格的な能舞台もある。近鉄高田市駅から徒歩。
問い=大和高田市役所(0745−22−1101)

■香久山公園
 橿原市昆虫館や芝生広場、木製アスレチックなどがある。近鉄八木駅からバス。
問い=橿原市役所(0744-22-4001)問い=昆虫間(0744-24-7246)

■竹取公園
 古墳時代の住居を復元した広場や、ソリ遊びができる「ちびっ子ゲレンデ」などがある。近鉄大和高田駅・五位
堂駅からバス。
問い=竹取公園管理事務所 北葛城郡広陵町(0745-55-6040)

■馬見丘陵公園
 県下最大級の都市公園。芝生広場や木製遊具などがある。近鉄五位堂駅からバス。
問い=馬見丘陵公園(0745-56-3851)

■平成榛原子供の森公園
 「森と湖の語らい広場」。恐竜をイメージした全長400メートルもある回廊型遊具や芝生広場などがある。近鉄
榛原駅からバス。問い=公園管理事務所 宇陀市榛原区桧牧(0745-82-7411)

■5万人の森公園
 金剛山のふもとにあり、自然を活かした散策路や展望台がある。JR五条駅からバス。五條市北山町。
問い=五條市役所 (0747-22-4001)

■室生不思木の森公園
 自然に囲まれ、ローラーすべり台や木製アスレチックなどがある。近鉄室生口大野駅から徒歩。宇陀市室生区
大野。問い=宇陀市役所・公園課(0745-82-3674)
■『やまとくん』へのメッセージ
咲き誇れ、元気な奈良!! シンガーソングライター 山根康広さん「Get Along Together」の大ヒットで知られ
るシンガーソングライター・山根康広さんに、やまとくん編集長が特別にインタビューさせていただきました。山根
さんは奈良テレビの情報番組「気になる時間」(毎週金曜夜9時)のテーマ曲「MADE IN "J"」も担当しており、奈
良との関係や、夢をあきらめないことの大切さなどを熱く語って頂きました。
【奈良との関わり】大阪生まれなので、奈良は子供の頃から遠足などで来ていま
した。またこれまでもライブを行ってきましたが、近年、奈良のテレビ局の番組に出
させてもらってから、奈良との関係が深まり、昨年神戸で行ったバースデーライブ
でも奈良のテレビ局に協力して頂きました。「気になる時間」のテーマ曲はタイトル
からもわかるように、奈良は日本の伝統が受け継がれている所なので、日本的な
モノの良さを伝えたくて作りました。また、この番組には俺の「親戚」の奈良倉健ち
ゃんがメインキャスターで出演しています。彼も最初は緊張していたようですが、最
近は慣れてきたみたい。もっともっといい番組にして奈良を盛り上げてほしいです
ね。いずれ俺も番組に遊びに行きたいと思ってます。それから番組を見ていて分か
ったんですが、奈良はけっこう大きな県なんですね。今は奈良市ぐらいのことしか
知りませんが、今後は吉野などへも行ってみたいです。
■デビュー■山根 康広(やまね やすひろ・1966年8月16日)「Get Along Together」1993年1月21日発売の
デビューシングル・2ndシングル。結婚する友人のために1週間で書き上げたラブソング。発売当初こそ全然売れ
なかったものの、リメイク版を2ndシングルとして発売するとオリコン初登場10位、登場7週目にして最高位の5位
に到達、9週連続(累積13週)TOP10入り、ミリオンセラーを記録。年末にも日本レコード大賞最優秀新人賞を受
賞する。この曲は最終的に180万枚を売上げる大ヒットを記録した。
【やまとくん読者へメッセージ】何をするにもあきらめないことが大事。夢があっても、時間が経って壁にぶち当た
ったりすると挫折しがちですが、あきらめるのはいつでもできます。俺自身も実はデビュー後の方が苦労したんで
すが、それでもずっと好きな音楽を頑張って続けてきたことで、ひとつ大きくなれた自分を感じています。夢をあき
らめず大切にしていれば、いつか輝くことができますよ。
■トップページへ■■先頭ページへ■