このページはインフォメーションテクノロジー【IT】+古事記+日本書紀を利用して作成してます。  | ■追加掲載予定項目・修正 | | ■各・写真の張替 | ■東大谷日命神社【重文】 | ■慶田寺 | ■ |
| ■この地図上にリンクが貼ってあります。閲覧場所をクリックして下さい。 |  |
| ■山の辺の道T |  | ■はじめまして、山の辺の道Tを案内するキャラクターのヤマトくんです。 桜井市金屋の海石榴市(つばいち)から天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)、更に奈良へと北上する延長約26Kmの道で三輪から天理市石上神宮迄の道のり15kmを、これから行くよ。道中、山の辺の道に楽しめる所があれば、チョコット寄り道するゾ。それでは日本最古の道へいざ出発!!。周囲を小高い山に囲まれた大和盆地で東南にある三輪山のふもとから東北部の若草山に通じる道で大和盆地の東端を山々の裾を縫うように三輪から奈良へ通じる日本最古の道。また、この道のもう一つの魅力は『記紀』や『万葉集』にたびたび登場する地名や旧跡が次から次へとあらわれ、訪れる |
人を神話や古代ロマンの世界へいざなってくれる道です。取り巻く自然と 人の営みがつくりあげた美しさがあって鳥の声や山の音を聞き四季の草 花の合間を歩きながら見えてくる遠く二上山・大和三山の眺望も美しいと ころです。現在は山の辺の道その起点は桜井市金屋の海石榴市( つば いち)です。この市は政治の中心が大和盆地の南部にあった頃に栄えた 場所です。大和平野には南北にまっすぐに走る官道として上ツ道(かみつ みち)中ツ道(なかつみち)下ツ道(しもつみち)の三つの道(大和三道)が |  |
 | 七世紀の初には造られていました。山の辺の道は、これらの道より古く上ツ道のさらに東にあって村と村を結ぶ生活道でもある歌垣(うたがき)で有名な海石榴市(つばいち)から三輪・景行陵・崇神陵を経て石上神、宮更に奈良へと北上する延長約26Kmの道で古代の面影を残しています。今も万葉びとの息づかいを伝えています。海石榴市から石上神宮までの約15Kmの道は古社寺や古墳、万葉歌碑をはじめ多彩な伝承の舞台が展開し知らぬ間に古代神話の世界に誘ってくれるでしょう。『古事記』に山の辺の道の勾(まがり)の岡の上(ほとり)に崇神天皇陵、山の辺の道の上に景行天皇陵があると記されています。両天皇の墓が「山辺の道」の岡にあると記されているところから八世紀の初めにはこの道が出来ており七世紀の末の藤原京時代には山の辺の道が通じていたそうです。 |
| ■最古の交易の市■北緯34度31分13.7秒■東経135度51分24.7秒 |  |  | | 泊瀬川(はせがわ・初瀬川・大和川) | 仏教伝来の説明板と石碑 | | ■ここ泊瀬川畔一帯は磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、磯城嶋金刺宮(しきのみつかきのみや)をはじめ最古の交易の市、海柘榴市(桜井市金屋)などの史跡を残し「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地であり、そしてこの付近は難波津(なにはづ)から大和川上ってきた舟の終着地で大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。「欽明天皇一三年(552年)冬十月百済(くだらの聖明王(セイメイオウ)は西部姫氏達率怒利斯致契等を遣(せいほう・きし・だちそち・ヌリシチケ |  | | 磯城嶋金刺宮跡と磯城邑傳稱地の石碑 | イラ)して釋迦佛(しゃかほとけ)金銅像(かねのみかた・一光三尊阿弥陀如来・百済大仏)一躯(ひとはしら)・幡蓋若干(はたきぬがさ)・經論(きやうろん)若干(そこら)巻(まき)を獻(たてまつ)る」と日本書紀に記されています。仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸して、すぐに南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。この場所は■仏教が初めて日本に送られてきた地です。また、「推古天皇十六年(608年)、遣隋使、小野妹子(オノノイモコ)が遣隋使、裴世清(ハイセイセイ)を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬75頭を遣して海柘榴市の路上で阿倍比羅夫(アベノヒラフ) に迎えさせた」と記されている。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■海柘榴市観音堂(つばいちかんのんどう)■北緯34度31分20.7秒■東経135度51分25.0秒 |
 |  | | 海柘榴市観音 | 海柘榴市観音堂 | ■海柘榴市観音堂は、文亀三年(1502年)石造観音像・元亀二年(1571年)の石造の観音像が安置されてい る、お堂周辺は、古代より栄えた交易市の跡で「源氏物語」「枕草子」にも登場します。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
 | ■仏教伝来の碑より北に行くと右手に標識が見えます標識を右に曲がると海柘榴市観音堂(海柘榴市跡)があり曲がらず道なりに西に行くと金屋の町並みがつづきます。約200m西に進むと右手に標識が見えてきます。この標識を右に曲がると、山の辺の道で一番有名な金屋の石仏が右手に見えてきます。また石仏の道を挟むように■喜多美術館があります。 【入館料】大人1,000円 小人(小・中)400円 【開館時間】AM10:00〜PM5:00 【休館日】月曜日と木曜日(祝日の時は翌日) |    |
| ■金屋の石仏■北緯34度31分28.0秒■東経135度51分15.1秒 |
 |  | | 金屋の石仏 | 金屋の石仏堂 | ■金屋の石仏(重要文化財)、山の辺の道にある石仏といえば、これが一番有名です。二体の石仏は、いずれ も平安後期〜鎌倉期の作で、高さ約2.14m幅約83.5cm厚さ約21.2cmの2枚の泥板岩(石棺の蓋)に釈迦如来 像、弥勒菩薩像が浮き彫りにされています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■喜多美術館■北緯34度31分28.0秒■東経135度51分15.1秒 |
 | ■喜多美術館は創設者である、喜多才治郎 (平成17年9月9日没)氏が、長年に亘って、収集した西洋、近・現代美術を還暦を迎えるにあたり、何か社会に還元したいと思い、財団法人を設立し、当屋敷が、「山の辺の道」に面していたので、その一郭の「金屋の石仏」の前に建設し、昭和六三年春、開館した。周辺には社寺、仏閣が散在し、古墳や旧跡が多く、森林浴をしつつ散策される方々に、近・現代美術に触れ、現代の目で古代に思いを寄せて頂くも楽しいでしょう。 |
| ■磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと)■北緯34度31分30.3秒■東経135度51分10.2秒 |
 | ■磯城瑞籬宮跡は第十代崇神天皇の皇居跡と伝えられている。三輪山を背後に負い歌垣の伝えで名高い海柘榴市を脚下に控えて大和平野を見渡せる高地です。東へは泊瀬道、伊勢を経て東国へ。南へは磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。北へは山辺の道、奈良、京を経て北陸、日本海方面へ。西へは大和川の水運を利用して難波・瀬戸内海方面につながる交通の要所です。古代大和王権発展の拠点であったともいえる所です。この神社境内に■万葉集第十三巻3249作 |
者未詳の歌碑があります。磯城島の 日本の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ【訳】この大和の国 に私のいとしいと思う人が、もし二人もいると思うのだったら何をあれこれと嘆くことがありましょう。私の恋しい 人はたった一人しかいないものだから、あれやこれやと気を遣うことばかり多いのです。
| ■平等寺(びょうどうじ)■北緯34度31分36.1秒■東経135度51分13.9秒 |
 |  | ■平等寺は西暦581年創建、日本最古の時代の寺です。また、十一面観音信仰発祥の寺てもあり空海弘法大師が高野山以前平等寺に遍照院建立、最澄大師が延暦寺創建以前に平等寺にて修行し慶円三輪上人は神仏両部を完成した中興祖です。同年聖徳太子は三輪明神に本国の僧を招集し国家鎮護の祈祷を神官僧侶合同でおこなった。後の書「大成経」にもこの史実が伺われます。千古の歴史を秘める平等寺は、その開基を聖徳太子と伝え永遠の平和を祈願する霊場(大三輪寺)として創建され鎌倉時代の初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人1140年〜1223年)を迎えて東西500m南北330mの境内に本堂 護摩堂 御影堂 一切経堂 開山堂 赤門 鐘楼堂のほか12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の院として由緒あるところです。平等寺は三輪別所とも呼ばれ高徳の上人を中心に仏法の奥義をきわめんとする行学一如の根本道場として栄えました。東大寺の宗性は嘉禎元年(1235年)八月二十日に平等寺において法華、唯識、般若三観抄を写し幾度もここに訪れたことや建長二年(1250年)正月、西大寺の叡尊も三輪別所一乗上人の禅室に参詣した史実も明らかで鎌倉時代の平等寺には仏法、学問の奥義を求めて多くの人々が参詣しました。室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し80石の朱印地を持ち修験道の霊地でもあり慶長五年(1600年)九月十五日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み11月28日まで70日間滞在し無事帰国したそうである。明治維新になって政府の廃仏毀釈(仏を廃し神を敬する)の令きびしく大神神社を統括してきた平等寺は、このあおりを強く受け有名な金屋の石仏をはじめ61体にのぼる仏像が他所に運び出され堂塔ことごとく整理を迫られましたが現境内地の寄進を受け再興の道が開かれ塔頭の一部を境内に移し本尊秘仏十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等が守られ梁天和尚が翠松庵の寺号を移し禅曹洞宗に改宗し法燈を護持しました。廃仏毀釈より百年目を迎えた昭和五十二年六月四日付で平等寺と寺号が復興され本堂、鐘楼堂、鎮守堂、翠松閣の復興をはじめ前立本尊十一面観世音菩薩が造られました。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■大神神社(おおみわじんじゃ)■北緯34度31分44.1秒■東経135度51分01.1秒 |  | ■大神神社は遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチノカミ)が自らの幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮め大物主神(オオモノヌシノカミ)の名をもって祀ったのが神社のはじまりです。本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居は大物主の命(オオモノヌシノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト) 少彦名命(スクナヒコナノミコト)の三神を一体したものを通し三輪山を神体山として信仰する原初の神祀りの様が伝えられています。我が国最古の神社で大三輪之神(おおみわのかみ)としても知られていて大神をおおみわといい神の | | 大神神社拝殿 | | 中の大神 として尊崇されています。 御神体の三輪山は奈良盆地をめぐる青垣山の中でも形の整った円錐形の山であり古来より神の鎮まります山として『古事記』や『日本書紀』には御諸山(みもろやま) 美和山(みわやま)三諸岳(みもろのおか)と記されています。三輪山は三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称され高さ467m周囲16Km南は初瀬川(はせがわ)北は巻向(まきむく)川の二つの川によって区切られ山内の一木一草に至るまで神宿るものとして一切斧(おの)をいれることを禁じており、その為、山全体が松や杉や檜などの大樹に覆われています。現在の拝殿は寛文四年(1664年)四代将軍家綱が再建したものです。境内の■笹ゆり |
 | 苑で約3,000本が栽培され毎年6月17日に摂社率川神社(奈良市)で行われる三枝祭(ゆり祭)を彩ります。古事記の中に沢山の笹ゆりが美しく咲き誇る三輪山麓、狭井川(狭井神社周辺)の岸辺で神武天皇(ジンムテンノウ)が媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を見初められ皇后に迎えたと記されています。媛蹈鞴五十鈴姫命は奈良市内にある率川神社(いさがわじんじゃ)に祀られています。日本酒の造り酒屋などの軒 |
 | 先に緑の杉の玉を吊すことで新酒が出来たことを知らせる■杉玉(すぎたま)の里は大神神社といわれています。杉玉は別名を酒林(さかばやし)ともばれます。杉玉とはスギの葉を集めて球体にした造形物で酒屋さんが酒を搾り始めましたよ、という意味で軒下に吊します■吊るされたばかりの杉玉は蒼々としていますが、日がたつにつれ茶褐色に変化します。この色の変化が人々に新酒の熟成の具合を教えます。現在では酒屋の看板になっていますが元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされています。一休、作の歌「極楽は何 | | 杉玉 | 処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は杉玉をいうそうです。
 | ■銀竜草(ギンリョウソウ)落ち葉の片隅にひっそりと咲く白銀色で草の姿が竜に似ていることから銀竜草とよばれる。一見キノコのような白色で薄暗い場所に群生し、遠くから見ると幽霊のようにも見える。別名でユウレイダケともよばれています。■銀竜草大神神社境内でギンリョウソウの花が咲く。葉緑素がないため白く半透明。花を付けた姿が竜のような形をしているのが特徴。イチヤクソウ科の多年草で高さ約15p ほどに成長するそうです。4月〜8月にかけて森林に積もった落ち葉や枯れ枝などを養分にして成長しますが残念なことに10日ほどで枯れてしまいます。同神社の境内では大木の根元にひっそりと咲く花を写真に撮す参拝者の姿が見受けられます。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■市杵島姫神社(いちきじまひめじんじゃ)■北緯34度31分51.2秒■東経135度51分12.9秒 |  | ■市杵島姫神社は鎮女池(しずめいけ)上池の小島に鎮座し七福神の一人弁財天で水の守護神でもある安芸、宮島の祭神です。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ | | 市杵島姫神社 |
| ■狭井神社(さいじんじゃ)■北緯34度31分50.9秒■東経135度51分15.3秒 |
 |  | | 狭井神社の薬井戸 | 狭井神社 | | 鎮女池から東に■狭井神社があります。二千余年前、垂仁天皇の後に荒魂(あらみたま)が祀られた神社です。延喜式神名帳に記される古社であり古くより華鎮社(はなしづめのやしろ)と称され病気を鎮める神としての信仰が厚いようです。また、神武天皇の后、五十鈴姫の住居があった場所とも言われています。狭井神社のサイはヤマユリことで古代にはこの地にユリがたくさん咲いていたようです。 狭井神社拝殿の左手奥に薬井戸(くすりいど)があり、ご神水がこんこんと湧き出ています。この霊泉は万病に効くと古くから伝えられ遠近より多くの参拝者が来るそうです。また、この境内より三輪山に登ることができ約40分ほどで山頂まて登ることができ山頂には奥の院があります。 |
 | ■大神神社(おおみわじんじゃ)から北方向に山の辺の道を進むと右手に市杵島姫神社(いちきじまひめじんじゃ)と狭井神社(さいじんじゃ)があり、この神社から西へ進むと鎮女池(しずめいけ)下池があります。この池の西に展望台に続く道があり頂上に登ると西に日本一の大鳥居を見ることができ、遠くは二上山・大和三山の雄大な姿も見ることができます。ここから西に行くと久延彦神社(くえひこじんじゃ)若宮社【大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)】とつづきます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■展望台■北緯34度31分50.0秒■東経135度51分08.7秒 展望台頂上 |  | | ■鎮女池(しずめいけ)西の展望台登り口から階段を登りきると目の前に飛鳥・橿原神宮・大神神社大鳥居・大和三山、遠く金剛山・葛城山・二上山が見えます。特に雨上がりの翌日は最高の展望です。 |
| ■久延彦神社(くえひこじんじゃ)■北緯34度31分48.8秒■東経135度51分05.1秒 |  | ■久延彦神社は祭神である久延毘古命(クエビコノミコト)は大国主神が国造りの際に、多くの神が知らなかった少彦名命(スクナヒコノミコト)の神名を教えた神さまです。知恵は世に類なく優れていて古事記には「足はあるかねど天下の事を尽(ことごと)に知れる神」と記されている神さまで特に受験合格、入学、進学、就職等の成就安全をまもる知恵の神さまとして信仰されています。社頭にはそれぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられています。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ | | 久延彦神社 |
| ■大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)■北緯34度31分48.3秒■東経135度51分01.1秒 |  |  | | 大直禰子神社(若宮社)拝殿 | おだまき杉 | ■大直禰子神社は奈良時代に神仏習合の姿をとり大神神社の神宮寺、大神寺(おおみわでら)として栄えて中世には三輪流神道がこの地より広まり各方面に多大の影響を与えました。明治の神仏分離までは大御輪寺の本堂として若宮の大神とともに本地仏十一面観音(国宝、現聖林寺奉安)が併祀されていました。昭和六十二年より三年間にわたり解体修理が実施され応永十九年(1412年)の姿に復元されたものです【重要文化財】。第十代天皇で崇神天皇の時代、国内に疫病が流行し国民の多くが死亡し容易ならざる国状となった時、天皇の御夢に大物主大神があらわれ「吾が児、大田田根子【大直禰子命(オオタネコノミコト)】を以て吾を祭らしめたまわば立ちどころに平らぎなむ」と告げられました。天皇は大直禰子命を探し出して大物主神を祀る祭主(かんぬし)として丁重に祀ると、たちまち病気は止み国内は平安となり富栄えたと古事記・日本書紀に記されています。また神社の鳥居、手前に古事記の伝説に由来する■「おだまき杉」の古株が残っています。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| 神社休憩処■北緯34度31分55.2秒■東経135度51分08.3秒 |  | 鎮女池に戻り、池に沿って北に行くと月山日本刀鍛練道場へとつづきます。石畳の道を下ると中間付近左に脇道があって脇道に入ると広く芝生のある■休憩処があります。公園では多くの家族やハイカーが、お弁当を食べる姿を見受けられます。また、この園内東側に大神神社のササユリを研究栽培をしています。 |  | | ■神武天皇聖蹟■月山(がっさん)日本刀鍛練道場■北緯34度31分57.9秒■東経135度51分07.5秒 |
 |  | | 神武天皇聖蹟 | 月山日本刀鍛練道場 | ■神武天皇聖蹟は花崗岩で同一規格設計により神武天皇東征の聖蹟を顕彰するために建てられました。顕彰碑は大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山・奈良の府県に点在し聖蹟碑は紀元二千六百年奉祝の事業として紀元二千六百年奉祝会が文部省へ委嘱し神武天皇聖蹟調査委員会による推考・答申にもとづいて橿原宮、竈山の聖蹟以外の地、計19個所の聖蹟が選定されて聖蹟所在地の府県に依頼し建設、施工されたものです。 ■月山日本刀鍛練道場は故人間国宝・月山貞一の日本刀鍛練道場である出羽鬼王丸の流れをくむ月山家の5代目、大阪で誕生、11才で鍛刀の道に入り月山家伝統の綾杉伝(刀身に波状の紋が浮かび上がる)をはじめ山城・大和・備前・相州・美濃の五カ伝もすべて会得した。また、昭和四十六年には国の重要無形文化財(人間国宝)に認定され、その名が全国に広まりました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■玄賓庵(げんぴあん)■北緯34度32分13.1秒■東経135度51分18.5秒 |  | ■真言醍醐派玄賓庵三輪山奥の院、玄賓庵は平安時代の名僧、玄賓僧都(興福寺高僧)が住んだところで桓武天皇の病を治したことでも知られる。桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台としても知られている。以前は三輪山桧原谷にあり山岳仏教の寺として栄えたが明治維新の神仏分離でここに移りました。俗世間とはまったく異空間と思えるほどの静けさの中、藤原時代の木造不動明王坐像(重要文化財)に出会える | | 玄賓庵 | 所です。■玄賓庵(げんぴあん)と謡曲「三輪」。三輪山の谷あいにひとりの僧都が世を捨て庵を結び仏に仕え て暮らしていた。そこに美しい女が仏に供える樒(しきみ)と閼伽(あか)水を持って通ってくるようになった。女 は、「秋も深まり夜寒になったので僧都の衣をいただきたい。」と言うので乞われるままに衣を与え別れのあい さつをする女の住まいを聞くと「三輪の里山すそ近く」と言って姿を消した。不審に思った僧都があとを追って行 くと大木の枝に先ほど与えた衣がかけてあった。女は明神の化身であった。明神はここで姿をあらわし「神も人 も同じように迷いがある僧都に接して仏道に縁を結ぶことができた。」と語り三輪山の故事などを告げて消えて ゆく。以上、桓武天皇の信任が厚かったが大僧都の位を授けられるのを拒み三輪山に遁世した玄賓僧都をモ デルとして謡曲「三輪」は展開していきます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■檜原神社(ひばらじんじゃ)■北緯34度32分18.0秒■東経135度51分15.8秒 |  | ■檜原神社は三輪そうめんの産地、車谷の里を眼下に眺め御神体は三輪山磐座にあってこの神社には本殿も拝殿もなく三ッ鳥居があるだけです。日本書紀によると崇神天皇が天照大御神を豊鍬入姫命(トヨスキイレヒメノミコト)に遷され磯城神籬(しきひもろぎ)を立て祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)です。また、三種の神器の内の剣、鏡を安置したのがここだと伝えられています。後に天照大御神は伊勢に移され、ここは檜原神社として引き続き祀られ元伊勢(もといせ)とも呼ばれていました。境内には昭和六一年十一月に | | 珍しい檜原神社の三鳥居 | 豊五日豊鍬入姫命を祀る鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎しました。万葉集等に「三輪の檜原」と数 多く詠まれ山辺の道の歌枕ともなり西につづく檜原台地は大和国中を一望出来る絶好の場所でした。現在で は木々がおおきくなり一望出来ません。毎年十月二日〜三日にかけて多くのプロ写真家やアマチュア写真家 などが鳥居より見た、二上山に沈む夕日を撮すための人気スポットです。
 | ■左折すると■茅原大墓古墳、さらに南に300mほど進むと右側に富士神社・厳島神社があります。神社拝殿の裏側に廻ると石室が露出した状態の■弁天社古墳があります。これより西北、JR桜井線の東側に■狐塚古 |  | 墳があります。■檜原神社の真下が山の茶屋『桧原御休処』です。この茶屋の道を西に下ると一つめの井寺池があり毎年十月二日〜三日にかけて多くのプロ写真家やアマチュア写真家などが池に映る夕日、二上山に沈む夕日を撮影できる人気スポットに紹介されています。坂を西に下ると道は左右に分かれるます。 |
■ホケノ山古墳・茅原大墓古墳・狐塚古墳・慶運寺裏山古墳・弁天社古墳 ■北緯34度32分23.2秒■東経135度50分43.0秒 ホケノ山古墳 ■北緯34度32分00.7秒■東経135度50分45.7秒 狐塚古墳 ■北緯34度32分12.1秒■東経135度50分51.2秒 大墓古墳 |  |  | | ホケノ山古墳【奈良県指定文化財】 | | ■ホケノ山古墳は全長約85mと一回り大きい帆立貝式古墳があり、さらにその北西の東田・太田地区にも数基みられます。乙女山古墳周辺にも数基の帆立貝式古墳の分布することが知られているが、奈良盆地でこの型式の古墳の集まる地域として注目される。昭和五五年、県の史跡に指定されています。この古墳は三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する、古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳です。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し古墳時代前期の大規模集落である纒向遺跡の南東端に位置します。また古墳からは以前に画文帯神獣鏡(大神神社にホケノ山古墳出土と伝わる画文帯神獣鏡が保存されている。)内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く解っていません。平成七年以降、古墳の史跡整備に先立って二次に亙る発掘調査が行われ様々な事柄が解っています。合計12本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。周濠は第一次調査の第一トレンチでは幅約7.5mで最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅約10.5mと西側に行くほど幅が広くなっています。葺石は墳丘側の総ての調査区において確認されています。葺石の構造は地山を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。ただし前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と後円部の40〜50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。また周濠や墳丘は前方部前面が旧巻向川によって削平されており本来の規模や形状などははっきりとしませんが全長は約85mと考えられる。現在復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに本来あったはずの裏込め土や葺石を括(くび)れ部のデータを基にして復元したものです。 |  |  | | 茅原・狐塚古墳 | 茅原大墓古墳【奈良県指定文化財】 | ■茅原大墓古墳は三輪山麓の低い丘陵上、茅原集落の北はずれに位置し河合町の乙女山古墳とともに典型 的な帆立貝式古墳として有名です。墳丘低くて短い前方部をやや北に向け全長約66m後円部の径約56m高さ 約8m、前方部は長さ約10m幅約29mの規模です。墳丘は後世の開墾で段々畑のように石垣を積んだ造りで 元の形を損なっているが葺石がふかれ墳丘部には円筒埴輪の破片が遺存しています。以前に家形埴輪の破 片も数多く出土したといわれる。周濠の跡も後円部の西側に溜池となって現存しています。埋葬施設や副葬品 については不明です。四世紀末と推定されていますが確かではないそうです。■狐塚古墳は茅原集落の南方 でJR桜井線の線路に沿った東側にあります。石室の天井石が露出するほど封土をはがれており墳丘の原形 は確かでない。一辺約40m程度の方墳と推定されています。巨石を使用した大型の横穴式石室が南向きに開 口しています。昭和三三年、発掘調査が実施され石室の規模は極めて大きく全長約17.3mは石舞台古墳の 石室に次ぐもので県下でも屈指の規模であることが判明しました。玄室は長さ約6m幅約2.6m高さ約3.2mであ り巨大な花崗岩を積上げた乱石積で両袖式の石室です。羨道は長さ約11.3m幅約2.1m、高さ約1.9mです。側 石は西側で三石東側で五石まで残り羨門までの南半部は小石積みの側壁となり天井石は玄室寄りの一石の み現存しています。玄室内には奥壁に沿って組合わせ式家型石棺が一基、中央に組合わせ式石棺が一基、 入口部にも型式の不明な一棺と計三基の石棺が安置されていたそうです。盗掘破壊されていたので原形を復 原できたのは一棺だけであるが他の石棺も同じような家型石棺であったと推定されています。羨道部には鉄 釘が検出され木棺を安置していた可能性があり羨道の南半部の小石積の部分は、この木棺を追葬のときに拡 張されたものと思われています。羨道部の床面中央にはU字状の溝に砂礫を混えた排水溝が施設されていま した。副葬遺物は盗掘されていたが直刀の破片・土師器片・須恵器の杯完形二四個と破片を出土しました。 石室の構造や須恵器の型式から古墳は六世紀の終り頃から七世紀の初頭の築造と考えられています。
| ■慶運寺裏山古墳(けいうんじうらやまこふん) |  |  | | 慶運寺山門 | 山門付近に刳抜式石棺の蓋を利用した仏の彫刻 |  | ■慶運寺裏山古墳は浄土宗三輪山慶運寺の本堂のすぐ裏に羨道は無くなっていますが両袖式石室が開口しています。残念なことに墳丘は削平されて現在は墓地になっています。また寺の楼門付近に刳抜式石棺に仏像が彫られた石仏が鎮座しています。大変珍しい石仏です。ここ慶運寺は寛永十一年(1634年)の創建であり本堂は昭和十二年に建立されました。本尊は十一面観音立像です。 | | 慶運寺裏山古墳の両袖式石室 |
| ■富士神社・厳島神社内の弁天古墳(べんてんこふん) |  |  | | 大神神社末社の拝殿 | 神社拝殿裏の石室と石棺 | | ■弁天社古墳は神社の祠の真裏に石室があり、覆土もほとんどなく石が露出しており、発掘調査が行われてないため詳しいことがわかりません。羨道は南向きに開口し両袖式で石室内部に刳抜式石棺の蓋が見えています。三輪山麓の後期古墳で石棺が残っているのは珍しいことです。また大木の根が石室を取り込むように生えており古墳の歴史を物語っています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■箸墓古墳(はしはかこふん)■北緯34度32分18.9秒■東経135度50分20.6秒 |  |  | | 北方にある外堀から見る箸墓 | 箸墓の逢拝所 | | ■箸墓古墳は桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり出現期古墳の中でも三世紀半ば過ぎの大型前方後円墳で最古級と考えられています。この古墳を卑弥呼(ヒミコ)の墓とする向きもありますが構築年代が三世紀末から四世紀初めであり卑弥呼が亡くなる三世紀前半との時期にずれがあり可能性は低いといわれていたが近代科学技術で年輪年代法や放射性炭素法による年代推定を反映し古墳時代の開始年代を従来より早まる説が有力となり箸墓古墳の築造年代は研究者により多少の前後するものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い三世紀の中頃から後半と見る説が一般的になって箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高くなりました。現在は宮内庁により第七代孝霊天皇の皇女で倭迹迹日百襲姫命大市墓(ヤマトトヒモモソヒメノミコトオオイチノハカ)として管理され墳丘への自由な出入は禁止されている。倭迹迹日百襲姫命は日本書紀によると崇神天皇の祖父で孝元天皇の姉妹です。ここ箸墓の名前の由来は倭迹迹日百襲姫命が夫が蛇の化身であることに驚き「則ち箸に陰を撞(つ)きて薨(みまか)りましぬ」と言ったと記されていることから名付けられたそうです。 |
| ■箸墓古墳:天皇陵と規模匹敵「卑弥呼の墓説」強まる。桜井市教委は2008年8月25日発表 |  | 後の「天皇陵」に匹敵する大規模な周濠を備えていたことが分かった。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説があり、最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、三世紀後半)の前方部で、大規模な周濠(しゅうごう)跡が見つかった。周濠の幅が従来の推定より約40メートル広く、天皇陵とされる後の大型前方後円墳に匹敵する規模だったことが判明。ヤマト王権成立を巡る議論の新たな手がかりとなる。市教委が今年5〜7月、住宅建設に伴い前方部前面にあたる水田約110平方メートルを調査し、大きな溝状の落ち込み(深さ1.3メートル | 以上)を33メートル分確認。底に水があったことを示す腐植層(植物が腐って土になった層)があった。落ち込み と墳丘の位置関係や出土した土器の年代などから、外濠の一部と判断した。外濠はこれまで墳丘北側などで 一部を検出していた。今回は墳丘南側で確認された。墳丘を一定幅で一周する馬てい形で、内堤を挟んで内 濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定。周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450メート ルになった。日本書紀は、箸墓古墳の築造を「昼間は人が夜は神が造った。大坂山の石を山から墓まで人々 が連なり手渡しで運んだ」と、その壮大さを伝えている。墳丘を一定の幅で囲む大規模周濠の存在が明らかに なったことは、箸墓古墳が前方部の周濠が著しく狭い「箸墓以前」の前方後円墳と一線を画すことを示す。これ まで確認された墳丘のふき石や、内堤と墳丘をつなぐ渡り堤の存在と合わせて、箸墓古墳が後の古墳の原形 だったことを改めて裏付けた。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■纏向遺跡(まきむくいせき) | ■纏向遺跡【木製仮面の出土場所】 ■北緯34度32分39.6秒■東経135度50分20.8秒 | 纏向矢塚古墳 ■北緯34度32分46.0秒■東経135度50分02.9秒 | 纏向石塚古墳 ■北緯34度32分47.8秒■東経135度50分11.5秒 | 東田大塚古墳 ■北緯34度32分37.4秒■東経135度45分59.4秒 | 纏向勝山古墳 ■北緯34度32分48.5秒■東経135度50分04.3秒 | |
| ■纏向遺跡 『国内最古の木製仮面(三世紀前半)が出土』桜井市教委は2007年9月26日発表 |  |  | 三輪山西部のすそ野に広がる三〜四世紀の大規模集落遺跡で卑弥呼の墓との説がある箸中古墳など三世紀代の最古級の前方後円墳が六っ存在し邪馬台国の最有力候補地ともされる日本最初の都市とする職者もいるほどです。桜井市教委は2007年9月26日纏向遺跡から国内最古の■木製仮面(三世紀前半)が出土したと発表しました縄文時代の土製仮面は確認されていますが弥生、古墳時代は土製を含め仮面の実 | 物がない。同遺跡は邪馬台国の最有力候補地で仮面の時期は卑弥呼の時代にも合致。鍬(くわ)を転用したと みられ当時の日本の中心地である遺跡の農耕祭祀(さいし)の実態を示す重要な発見です。仮面の材質はアカ ガシ製で素掘り井戸の穴から見つかり長さ26p幅21.5p厚さ0.6pです。刃の頭部側をあごにして柄をつける 穴を口に利用し鼻は隆起部を削って整形した両目の穴を開け、まゆ毛は線刻で表現、周辺では赤い顔料が付 いていました。紐を通す穴はなく裏面は平らで目や口の位置は正確なため手に持って顔を覆っていたようで す。井戸からは赤と黒の二色を塗った盾の破片15pや鎌の柄47.5pなど木製品も出土しています。
 |  |  |  | | 纏向石塚古墳 | 纏向勝山古墳 | 纏向矢塚古墳 | 東田大塚古墳 | ■纏向遺跡より最古のベニバナ花粉を検出、三世紀中頃に魏と交流示すと桜井市教委は2007年10月2日発表した。邪馬台国の有力地とされる同市の纒向遺跡で三世紀中ごろの国内最古のベニバナ花粉が見つかったと発表した。過去の出土例を約300年さかのぼり邪馬台国の女王、卑弥呼の時代に合致します。ベニバナは染織などに使われて衣などを染めた後に廃液を溝に流したとみられます。中国伝来とされるため市教委は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する邪馬台国と中国、魏の交流を示す貴重な資料」としている。幅1.5m深さ1mの溝から1立方p当たり270個〜560個の花粉を検出しました。古くから赤色の染料や化粧用の紅、薬に多用され国内では六世紀後半の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)からの検出例が最古です。石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「邪馬台国は魏から大量に絹織物を輸入しておりベニバナで染織する技術者を要請したのかもしれない」と想像する。土壌を分析した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)は「溝の上流に染料の工房があり付近で中国の技術者に栽培されていた」と想像したうえで「魏志倭人伝に卑弥呼が中国、魏に送った朝貢品、絳青(こうせいけん)がある。絳は深紅色を意味し茜(あかね)で染めた織物と考えられていたがベニバナで染めた可能性もある」と指摘してます。吉松茂信、宮内庁正倉院事務所技官(古代染織史)は「通常の染料と比べ手間がかかる貴重品。現代でも口紅に使われるように当時もベニバナは化粧品として重宝され卑弥呼のような高貴な女性だけが使えたのではないか」と話した。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
   |  | 檜原神社境内を通り抜けて北に進むと道は左右に分かれます。 ■右折(かなり遠い)■笠山荒神■そばの里に続く道です。三輪山の周囲北側を巻向川(まきむくがわ)に沿って上がる道は一切斧(おの)をいれることを禁じられているので松・杉・檜などの大樹に覆われた景観は古代を思わせる美しいものです。 ■左折すると山の辺の道。この周辺は白い花の香り漂う■蜜柑発祥の地と言われています。 |
| ■笠山三宝荒神社■そば処『荒神の里』■北緯34度33分39.2秒■東経135度53分43.3秒 |  | ■笠山三宝荒神社は三輪山の北東にある九万八千八百八躰の眷属と倶に三千年の昔より笠山の鷲ヶ峯に奉祀て七袖七谷の峯谷(ぶこく)を神躰山です。山の辺の道に散在する社寺の三宝を守る神さまで祭神は陰陽の神、興津彦(オキツヒコ)とその妃、土祖神(ハニオヤノカミ)を合祀した。火の用心、除災、福徳で日本第一の荒神です。また近年、そば作りに最適な気候風土であるため風味あるそばを生み出す荒神の里で笠地区の新たな観光物資として「笠そば」が発展し笠山荒神の門前に■そば処『荒神の里』があります。 | | 笠山荒神社拝殿 |    |
|  | ■坂道の頂上付近の四つ角(つきあたり)で■右折すると野見宿禰(ノミノスクネ)ゆかりの相撲神社(すもうじんじゃ)、穴師大兵主神社(あなしだいひょうずじんじゃ)へとつづきます。また左折し約50m付近右手に見える民家の間(ひどく狭い)を■右折すると山の辺の道につづきます。■曲がらず西に行くと右手に三基の珠城山古墳群があります。山の辺の道を北に行くと左に■神籬遺跡(ひもろぎいせき)の案内板がミカン畑に見える。北に進むと■景行天皇陵(けいこうてんのうりょう)の南側面が目の前に見えてきます。 | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
■景行天皇巻向日大官跡碑■相撲神社■穴師坐兵主神社(あなしだいひょうずじんじゃ) ■北緯34度32分42.8秒■東経135度51分27.5秒 ■北緯34度32分41.9秒■東経135度51分19.1秒 相撲神社 ■北緯34度32分43.3秒■東経135度51分13.4秒 景行天皇纏向日大官跡碑 |  |  |  | | 相撲神社 | 景行天皇纏向日大官跡碑 | 穴師大兵主神社 | ■穴師坐兵主神社(あなしだいひょうずじんじゃ)は垂仁天皇二年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀っ たともいわれており、また景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月 ガ岳」であるが比定地には竜王山、穴師山、巻向山の3つの説があります。祭神の「兵主神」は現在は中殿に 祀られて鏡を御神体としています。兵主神は御食津神であるが他に天鈿女命(アマノウズメ) 素盞嗚尊(スサ ノオノミコト) 天富貴命 (アマノトミムチノミコト) 建御名方命(タケナカタノミコト) 大己貴神(オオナムチ)の分 身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説もあります。巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のこと であるとされています。現在は右社に祀られ勾玉と鈴を御神体となりますが元々は巻向山中にありました。若 御魂神については和久産巣日神のことであるとする説もあって上記の二社は、『正倉院文書』に天平二年 (730年)に神祭を行った記録があり貞観元年(859年)に従五位上の神階を授けた。穴師大兵主神社について は鎮座年代は不詳であり祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ剣を御神体とします。大兵主神の正体に ついては八千戈命、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説があり中世ごろから穴師坐兵主神社が穴師上 社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになりました。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社 殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治六年(1873年)に郷社に列し昭和 三年(1928年)に県社に昇格して摂社とし野見宿禰を祀る■相撲神社があります。また、相撲神社は相撲の 祖神として信仰されています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
 | 野見宿禰(ノミノスクネ)は日本書紀に登場する人物で出雲国の勇士です。天穂日命の十四世の子孫であると伝えられ垂仁天皇の命により、当麻蹴速(タイマノケハヤ)と野見宿禰と相撲を取って野見宿禰が勝ちました。垂仁天皇は、野見宿禰に、ほうびとして当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えた。その後、野見宿禰は朝廷に末永く仕えたそうです。 |
| ■野見宿禰の五輪塔■北緯34度31分34.0秒■東経135度53分27.7秒 | |  | ■野見宿禰の五輪塔(十二柱神社の境内)の由来は垂仁天皇の命により三輪山に召して相撲をとらせて宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記されています。その相撲跡カタケヤシは現在の桜井市穴師(あなし)にあって相撲起源の伝承地として広く世に知られています。桜井市出雲には古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していましたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い墳上の塔をここに移して祀りました。物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されています。相撲の開祖で埴輪(はにわ)の発案者として知られる野見宿禰(ノミノスクネ)は、この地の出雲人とも伝えられています。また、十二柱神社(桜井市出雲)の境内入口にある狛犬の台座には大変珍しい力士の人形型が使われています。 |  |  | ■狛犬の台座の力士は合計8体あり、全ての力士の形が異なっていて、それぞれが相撲の型になっています。また、野見宿禰は学問の神として知られる菅原道真の先祖であり、菅原氏から公家の五条家が生まれ、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となりました。同じくして野見宿禰の末裔である大江氏の大江広元の子孫から毛利氏や酒井氏が生まれたと言われています。 ■上の写真は野見宿禰の五輪塔で下左側の写真は境内入口にある狛犬です、下右側の写真が形の異なった力士の台座です。赤い線の上が力士像の部分です。 | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■珠城山古墳群(たまきやまこふんぐん)■北緯34度32分46.3秒■東経135度50分54.4秒 |  | ■珠城山古墳群は地元でタマキヤマと呼ばれている海抜100m高さ約15m東西に全長約200mの古墳群があります。東西にのびる尾根に三基の前方後円墳が尾根に沿って縦列しています。三基の古墳はいずれも六世紀の後半、古墳時代後期の築造と考えられています。柳本古墳群の中に位置し類例の少ない冠帽片・金洞中空勾玉・鉄鉾・鉄刀・鉄刀子等の副葬品が出土しました。1号墳は全長約50m後円部径約24m後円部南に開口した横穴式石室を設け中央部にあった組合 | | せ式石棺は現在橿原考古博物館前に展示されている。2号墳は最も規模が大きく全長約90m後円部径約45mで前方部に小型の竪穴式石室が知られていますがその遺物や後円部の埋葬施設は不明です。3号墳は全長約50m後円部径約24m近年まで前方部と後円部の南に開口する横穴式石室がありましたが開墾や採土で形が変わり現在は前方部の先端だけが残っています。消滅した三号墳を除いて1号・2号墳は昭和五十二年、国の史跡に指定されました。2号墳の墳丘範囲の確認調査を平成一七年の二月から三月にかけて行われました。その中で後円部の北側にもうけた調査区から、珠城山古墳群の時期から約400年後の平安時代(十世紀)の木棺墓がみつかりました。古墳を先祖の墓と考えてその近くに葬ったことも考えられるそうです。また、お墓からは鉄釘が約20本以上みつかり木棺に入れて埋葬されたことがわかりました。木棺の中からは椀や壷・皿 |  |  | | 珠城山古墳1号の石室内部 | 珠城山古墳1号の石室 | | などの土器が副葬されていました。その中でも黒色土器の椀の上に別の椀を逆さにして蓋をするような形で西端と東端に1組ずつ副葬されているのが特徴的なものとしてあげられています。このような変わった土器の使い方は葬送儀礼特有の風習のようです。西側の椀の下には刀子があって現在でも棺の中に剃刀などの刃物を入れる風習がみられます。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■神籬遺跡(ひもろぎいせき)■北緯34度32分51.9秒■東経135度51分02.7秒 |  | ■神籬遺跡は、この一画の小字(こあざ)です。「ヒモロギ」は神祭りの施設で神霊の降臨する依り代(よりしろ)であり「神籬」に由来すると考えられます。日本書紀の崇神天皇六年条に豊鍬入姫命をして天照大神を倭笠縫邑に祭る。「仍(よ)りて磯堅城(しかたき)の神籬を立つ」とあり神籬が神祭りの古い形式であったことがわかる。神籬を設け神霊を迎えて神祭りが執り行なわれました。一帯は邪馬台国の候補地である纏向遺跡に含まれ笠縫邑と伝承される桧原神社にも近く古代祭祀を考える上で注目されている。 | | 神籬遺跡 | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■額田王(ヌカタノオオキミ)の歌碑■北緯34度32分56.8秒■東経135度51分02.8秒 |  | ■額田王の歌碑は近江京遷都にあたり額田王が国境で詠んだ歌が刻まれています。【長歌】味酒(うまさけ)・三輪の山・あをによし・奈良の山の・山の際(ま)に・い隠るまで・道の隈(くま)・い積もるまでに・つばらにも・見つつ行かむを・しばしばも・見放(さ)けむ山を・心なく・雲の・隠さふべしや【訳】三輪山は何時までも眺めていたい。奈良坂の山間に消えるまでも曲がり道が幾重にも重なるまでも三輪山を見ながら行きたいのに何度も眺めたい山なのに心なく雲が三輪山を隠す、そんなことがあっていいのか。また【反歌】三輪山を | | 額田王の歌碑 |
| しかも隠すか雲だにも心あらもな隠さふべしや【釈】三輪山を心なく雲が隠すものか。雲だけでも情けがあってほしい。三輪山を隠さないでほしい。の歌碑が芝運動公園内にあります。額田王は斉明天皇・持統天皇時代に活躍した日本の代表的な女流万葉歌人です。日本書紀に鏡王(カガミノオオキミ)の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ十市皇女を生むと記されていま |  | | す。額田王の出生地は大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)という説もあります。また、この場所からの三輪山の眺めは大変素晴らしいものです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■景行天皇(ケイコウテンノウ)陵■北緯34度33分01.4秒■東経135度50分48.2秒 |  | 【古墳名】渋谷向山古墳■山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)は第十二代景行天皇の墓とされている。全長300mで丘陵の先端を利用し三段に構築された前方後円墳で古墳時代前期のものとして最大級です。この古墳の正式陵名は山辺道上陵という。景行天皇は『古事記』『日本書紀』に記される天皇です。和風諡号は大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)。古事記では大帯日子淤斯呂和氣天皇(オホタラシヒコオシロワケノスメ | でラミコト)す。また日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父である。■トップページへ■■先頭ページに戻る
| ■崇神天皇(スジンテンノウ)陵■北緯34度33分30.6秒■東経135度50分47.1秒 |  | 【古墳名】行燈山古墳■山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)は第十代崇神天皇の墓とされている。全長240mの周囲を濠をめぐらした巨大な前方後円墳で山辺道勾岡上陵と日本書紀に記されています。崇神天皇は『古事記』『日本書紀』に記される天皇。和風諡号は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラノミコト)。古事記には崇神天皇の没年が干支(崩年干支)で記されており、318年(または258年)の没とする説があるそうです。また、 | 日本書紀の記述にると神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしかなく崇神天皇の代になり 日本の広範囲の出来事の記述が出てくることから神武天皇(ジンムテンノウ)から開化天皇(カイカテンノウ)まで は畿内の地方政権の域を出ず崇神天皇の時代から日本全国規模の政権になった可能性があります。また、 山の辺の道はこの陵の裏側を通ることになり目に付く古墳はとにかく巨大であり三輪王朝か初期の大和政権 の実力者の墓ともいわれています。
 | ■大和の集落■青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。集落は奈良時代の条里制にもとずいて配置されてきました。 この山の辺の道沿いの古い集落も条里制に対応しています。こうした集落の配置と大和棟の農家によって特色のある農村風景がつくられています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■櫛山古墳(くしやまこふん)■北緯34度30分24.9秒■東経135度51分04.1秒 |  | ■櫛山古墳は崇神天皇陵のすぐ裏山にあり濠を隔てて櫛山古墳があります。この場所は多くの古墳があり柳本古墳群とよばれています。大小様々な古墳が連なっていますが中でも櫛山古墳は日本では大変珍しい双方中円の形をしているため考古学的にも大変な価値があります。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)■北緯34度33分27.4秒■東経135度50分41.6秒 |  | ■伊射奈岐神社は崇神天皇陵の向かいにあり。祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)伊弉冉命(イザナミノミコト)が祀られていて喜式内社に比定されています。鎌倉・南北朝・室町時代にかけて国内の兵乱により神社は衰退したが寛永十八年(1641年)に二代目柳本藩主織田修理正長種(おたしゅりのかみながたね)によって東南方向の柳本町山田からこの地に移され本殿を造営した。この神社は伊勢神宮と殆ど同時期に創建されたそうです。景行天皇の皇子で日本武尊(ヤマトタケ | ルノミコト)が東国遠征時に戦勝祈願をしたともいわれます。境内の裏手の丘が■大和天神山古墳(やまとて んじんやまこふん)であり全長113mの前方後円墳です。 本古墳は古墳名に人物名が混じらないという方針に より地元の呼称を取って天神山古墳とされたが同名の古墳は各地にあるので大和天神山古墳と命名した。築 造は四世紀後半(中山大塚古墳より新しく黒塚古墳よりは古い)とされています。昭和三十五年県道天理・桜 井線の改良工事により発掘調査が行われ周濠は無く埴輪も出土しないが石室の両側へと持ち送り天井石を 設けない特異な竪穴式石室が発見されました。石室の内部は木櫃(もくひつ)置かれ約41sの朱が納められ ていたそうです。木櫃の底板は長さ2.6m幅75pで断面は緩やかなU字形です。また木櫃の内部には二十面 の銅鏡が置かれていた。銅鏡の内訳は方格規矩鏡6面、画文帯神獣鏡四面、内行花文鏡四面、獣形鏡三 面、画像鏡二面、獣帯鏡一面、三角縁変形神獣鏡二面、人物鳥獣文鏡一面からなります。典型的な三角縁 神獣鏡が含まれず後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡を主体とし日本製とみられる特殊な三角縁変形神獣 鏡や弥生時代の銅鐸に通じる文様をもつ人物鳥獣文鏡が含まれます。鉄製品は鉄刀三口・鉄剣五口・鉄槍一 口・鉄刀子一口・鉄鏃五本・鉄がんな一本からなります。これらは大和政権の成立を考える上で注目され本年 6月に重要文化財に指定されました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■黒塚古墳(くろづかこふん)■北緯34度33分35.2秒■東経135度50分37.6秒 |  | ■黒塚古墳は東にある行燈山古墳(あんどんやまこふん)の方向から延びた丘陵の先端部を利用した全長約130mの前方後円墳です。柳本古墳群(オオヤマト古墳群柳本支群)に属して群内では中規模の古墳となっています。平成九年(1997年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った発掘調査で三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が副葬当時に近い状態で発見されました。棺内には画文帯神獣鏡と刀剣をおき棺外に三角縁神獣鏡を並べたほか刀剣類や鉄鏃・小札・用途不明の鉄製品などを配置してあり埋葬施設 | | 外堀から見る黒塚古墳 | | は竪穴式石室で板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出していました。古墳は天理市によって整備が行われて柳本公園となっているほか古墳に隣接して竪穴式石室の実物大模型などを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」が設けられています。平成十三年(2001年)一月二十九日、国の史跡に指定されました。戦国時代には古墳に柳本城を築城、江戸時代織田家が城跡に柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁としていました。 |
 | ■三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・黒塚古墳出土)は銅鏡の縁部の断面が三角形状となった大型神獣鏡。日本の古墳時代前期の古墳から多く発掘され現在までに400枚以上も見つかっていて面径は平均20cm程度での大きさです。裏側に神像と霊獣が彫刻され中国、魏の年号が銘されたものも多くあります。鏡の形状は三角縁で凸面鏡です。構造上、三角縁にすると簡単な加工技術で造れる。または神聖な場所を囲む瑞垣を真似た等々の説があるそうです。中国では二〜三世紀の時代に紹興近辺でしか出土しないそうです。 |
| 後円部頂上から見た前方部 | 前方部から見た後円部頂上 |  |  |
 | ■ここ柳本は、有数の古墳地帯であり田んぼや山の間に見える、こんもりとした山は全て古墳と言って良いほどです。近年ブームになりましたが黒塚古墳より出土した三角縁神獣鏡は良い状態で出土して全国でも過去最多の33枚がその姿を現しました。この発見は邪馬台国畿内説や古代国家成立の過程を解明する超一級の資料といえます。黒塚古墳は前方後円墳で全長が約130m、後円部高さ約11mの大きさです。また、古墳全体に策歩道が設けられています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
■柳本トレイル青垣 ■北緯34度33分37.9秒■東経135度50分57.9秒 柳本トレイル青垣 ■北緯34度33分38.5秒■東経135度50分56.5秒 一枚石地蔵菩薩 |  | ■トレイル青垣は環境庁の補助を受けて東海自然歩道を安全で快適に利用できるように休憩、情報提供機能を備えた施設です。山辺の道の自然や散策案内、 |  | 文化財等の見学ができます。【入館無料】また、個人の持ち物でセンター北側に■一枚石に彫られた、お地蔵さんが鎮座しいます。 | |    |
| ■高野山真言宗長岳寺(ちょうがくじ)■北緯34度33分38.8秒■東経135度51分04.9秒 |  | ■高野山真言宗長岳寺は1180年の歴史があり淳和天皇の勅願により弘法大師が創建した真言宗の寺です。山号は釜口山(かまのくちさん)または釜口大師の名でも親しまれています。本尊は阿弥陀如来で創立者は空海(弘法大師)とされ関西花の寺二十五ヶ所第十九番霊場であり山の辺の道のほぼ中間点に位置する寺です。重要文化財では鐘楼門(平安時代)・五智堂(鎌倉時代)・延命殿【旧地蔵院本堂】(寛永七年)・木造多聞天・増長天立像(平安時代中期)・木造阿弥陀 | 如来両脇侍像【阿弥陀如来・勢至菩薩・観世音菩薩】で胎内から墨書銘があり平安時代末期の仁平元年 (1151年)の作です。堂々の量感、美しく写実的な表現は藤原時代にあって次の鎌倉時代作風の先駆けと言え る運慶、快慶などの慶派に大きな影響を与えました。玉眼を用いた仏像としては日本最古であり藤原時代から 鎌倉時代に移る仏像史の重要な物差しの目盛りとなる仏像です県指定文化財では刺繍阿弥陀如来立像(奈 良国立博物館寄託)その他に極楽地獄図(約400年前・安土桃山時代に狩野山楽が描いた九幅構成の図)・ 弥勒大石棺仏(古墳の石材を利用した石仏で境内には鎌倉時代から江戸時代にかけての約2mの石仏が多 数)地獄図は九幅の軸から構成されるが全体が一枚の絵となっています。毎年10月23日〜11月30日紅葉の 季節に本堂で展示されます。また花の寺で有名な長岳寺は秋の紅葉・春の桜・平戸つつじ・かきつばた・夏に はアジサイ・酔芙蓉・冬のやぶ椿と四季を通じて楽しめます。本堂前の池に写ったカキツバタや約1,000株の平 戸ツツジはお勧めです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■龍王山(引手の山)■北緯34度33分40.6秒■東経135度52分27.5秒 |  |  | | 柳本田町龍王社 | 龍王山城南城跡頂上の石段 |
| ■龍王山は山の辺の道から見る青垣の山々では一番高い山です。柿本人麻呂の名歌「衾道を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」と詠まれた「引手の山」は、この龍王山といわれます。龍王社が2社あって雨乞い信仰の祠です。また、龍王山古墳群ともいわれる龍王山の西斜面、標高150〜450mに点在する古墳群です。崇神ルートに沿った一帯に多くの古墳が散在しています。円墳と横穴がそれぞれ300基合わせて600基に及びます。珍しいのは横穴で崖や山腹など自然地形をそのまま利用しているところです。植林内に点在し墓のマンションのようです。六世紀〜八世紀にかけての古墳といわれ奈良県で最大級の規模をもつ群集墳といわれています。■龍王山城跡は大和高原と奈良盆地を境とする山なみの中にひときわ高くそびえる龍王山標高586mの山です。龍王山の呼び名は柳本、田の龍王社が祀られているので龍王山とよばれ中世の史料にも龍王城の名で登場します。山頂には室町、鎌倉時代に十市氏が築いたと言われる城跡、龍王山城があり城は南城、北城の二つの峰に分かれていて北城は南城より約60m低い山頂ですが山上が広いので北城の方が規模が大きい城でした。南北の城を合わせると大和随一の大規模中世城郭であり2ヶ所に分かれていますが一体化した山城を形成してます。城跡の保存も非常に良く南北の別城一郭の構えであることが立証されています。城主の十市遠忠氏は十市新左衛門遠治の子であり興福寺大乗院方の土豪であった父、遠治の時代に所領を拡大しました。天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと木沢長政や筒井氏と争い龍王山城に拠って一大勢力を築きました。天文十四年三月十六日、49才で没し墓は長岳寺にあります。 | | 龍王山南城跡から西方に遠く明石大橋が見える |  |
 | ■龍王山のジャンジャン火伝説は信貴山の松永氏に滅ぼされた十市氏の怨霊が火の玉になったと言う伝説で龍王山から飛び出した火の玉が村人たちを震えあがらせたという。現れるのは今にも雨が降りそうな夏の夜、龍王山にむかって「ホイホイ」と叫ぶと城跡の方から火の玉がジャンジャンとうなりをたてて飛んできて、その人を焼き殺してしまうとか戦に敗れた十市氏の恨みが今も残っているのかもしれません。田井庄町にはジャンジャン火に襲われた武士が誤って斬ったという首斬地蔵が在るそうです。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■中山廃寺跡■北緯34度33分55.0秒■東経135度50分51.7秒 |  | ■中山廃寺跡(中山大塚古墳)は全長約132m前方後円墳で後円部が北東にあって山の辺の道に沿って南北に築造されています。また、後円部の径は約73m高さが約10mです。墳丘頂上には東側の山道から登ることができます。また、古墳の前方部南端は大和神社の末社で大和稚宮(オオヤマトワカミヤ)神社の御旅所があり、毎年4月1日に大和神社(おおやまとじんじゃ)からこの神社まで神輿渡しが行われる。 「ちゃんちゃん祭」が有名です。 |
 |  | | 中山廃寺跡の山の辺の道石畳 | 中山廃寺跡(中山大塚古墳)頂上。 | 古墳の裾を巡る石畳の坂道の脇に多くの■石仏が静かに並んで鎮座しています。この場所に■中山廃寺が あったことを示す唯一の証です。坂道の頂上付近で右手に中山大塚古墳があり。また、大和神社御旅所と書 かれた看板が目につきます。この古墳は大和神社の末社で大和稚宮(おおやまとわかみや・御旅所)神社の ために前方部を削られています。なぜか神社境内に大きな石が置いてあり、その石に、しめ縄が巻かれていま す。また、中山廃寺跡に続く山の辺の道には大きな石に彫られた■柿本人麻呂の歌碑(写真下)があります。
 | 【中山廃寺跡近くにある柿本人麻呂の万葉集歌碑】 ■万葉集第 二巻212【柿本人麻呂】(人麻呂の妻を亡くし悲しみにくれる歌) 歌碑の場所:天理市中山町 【原文】衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無 【読】ふすまぢを ひきでのやまに いもをおきて やまぢをゆけば いけりともなし 【訳】衾道(衾田墓付近)を 引手の山(竜王山)に妹(妻)の屍(手白香皇女衾田墓)を置いて山路を行けば(帰ると)生けりともなし(生きた心地もない) ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ | | ■北緯34度33分52.5秒■東経135度50分54.0秒 |
| ■萱生環濠集落(かようかんごうしゅうらく) |  |  | | 萱生環濠集落 | 西山塚古墳 | | ■北緯34度34分13.7秒■東経135度50分56.7秒 | ■北緯34度34分13.7秒■東経135度50分55.0秒 | | ■萱生環濠集落は古墳密集地帯で「萱生(かよう)の千塚」と呼ばれています。 また集落の周囲に濠でめぐらしたものが多く竹之内環濠集落も同じ造りの集落です。集落の周囲に濠でめぐらしたものが多く大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け自衛手段として外敵の侵入を防ぐための方法から集落の周囲に濠をめぐらして橋を出入口に掛けていました。環濠も現在では戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿をと留めています。また、この地は萱生刀根早生柿の発祥の地。■西山塚古墳(にしやまつかこふん)は前方後円墳で全長114m前方部幅70m高さ8m後円部径65m高さ13mです。円筒埴輪が発掘され、その形式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造が推測されます。延喜式に記されている継体天皇妃手白香皇女の衾田墓は西殿塚古墳ではなく、この古墳だという説もあり、その証拠としては埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられます。 |
 |  | ■波多子塚古墳(はたごつかこふん)は三世紀後半から古墳時代初期に作られた大型古墳で全長144mの前方後方墳です。埴輪の原型である特殊器大台型埴輪の破片が出土しています。1998年の発掘調査では後方部の北側に壕の跡が見つかり、葺石(ふきいし)と多くの埴輪が出土しました。古墳近くの道沿いに縦長の石に彫られた■柿本人麻呂の万葉集歌碑が立っています。 | | 波多子塚古墳 | 柿本人麻呂歌碑 |
■北緯34度34分18.6秒■東経135度50分54.0秒 波多子塚古墳 ■北緯34度34分18.4秒■東経135度50分56.1秒 柿本人麻呂歌碑 | ■万葉集第 七巻1088【柿本人麻呂】 【読】あしひきの 山川の瀬の なるなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る【訳】山から流れ落ちてくる川の瀬の音が高くなりひびくにつれて、弓月嶽には一面に雲が立ち渡ってゆく。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■衾田陵(ふすまだりょう)■北緯34度34分01.5秒■東経135度51分04.3秒 |  | ■手白香皇女(タシラカノヒメ)衾田陵は全長220mの円墳で西殿塚古墳とも呼ばれている。この古墳は前方部が箸中山古墳同様にばち形に開いていることや採取された土器の中に葺石が見つかり円筒埴l輪が出土している。埴l輪の起源となる特殊器台型土器・特殊円筒型埴l輪などが宮内庁の報告にあって年代は三世紀後半に築造された古墳時代初期の巨大古墳です。この古墳は継体天皇(ケイタイテンノウ)の后である手白香皇女(タシラカノヒメ)の墓とも伝えられています。 | | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■燈篭山古墳(とうろうやまこふん)■北緯34度34分01.2秒■東経135度50分53.2秒 | | ■中山廃寺跡から北に行くと燈篭山古墳があり、この古墳は全長110m後円部径55m前方部幅41mの前方後円墳です。古墳の前方部は念佛寺(ねんぶつじ)の墓地に使用され後円部は果樹園として使用されています。墳丘には板石の破片があって竪穴式石室があったと思われます。明治二十九年(1896年)にこの古墳から出土した遺跡は現在、藤田美術館にある埴製の枕です。背面の形から割竹形木棺のような底に丸みのある棺に納められていたと考えられています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |  |  | | 大塚山念佛寺 | 燈篭山古墳の前方部は墓地 |
| ■大和神社(おおやまとじんじゃ)■北緯34度34分14.0秒■東経135度50分21.2秒 |  | ■大和神社は日本書紀によると元々、倭大国魂神は 天照大神とともに皇居内に祀られていましたが崇神天 皇は両神の神威を畏れ崇神天皇六年九月、倭大国魂 神を市磯邑に遷し皇女、渟名城入姫を斎主として祀ら せたが崇神天皇7年、淳名城入姫は髪が落ち体は痩 せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇十 二年、大倭直の祖、市磯長尾市を祭主として神地が 定められ鎮座、創建されました。当初の鎮座地は現在 の鎮座地、東方の山麓であるとみられます。後に現在 | 地に遷されたとしているが遷座の時期ははっきりとわからないようです。一説には現在の長岳寺の位置である という。朱鳥六年(692年)持統天皇は藤原京の造営にあたって伊勢、住吉、紀伊の神とともに当社に奉幣し伺 いを立てた。寛平九年(897年)最高位である正一位の神階を授けた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡、大 和坐大国魂神社、三座」と記載され名神大社に列して月次 相嘗 新嘗の幣帛に預ると記されています。後に 十六社・二十二社の一社となりました。平安初期までに天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝 廷の崇敬を受けて隆盛しまた。平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微して中世には社領を全て失っ ています。明治四年(1871年)官幣大社に列せられ、江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられてい たので官幣大社列格の際に新たに社殿を造営した。
 |  | ■戦艦大和には、同名であることから大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和二十年に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社、祖霊社に合祀されています。昭和44年、境内に「戦艦大和記念塔」が建立されています。■広島県呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■
| ■竹之内環濠集落■北緯34度34分43.6秒■東経135度50分54.0秒 |  | ■竹之内環濠集落は山の辺の道沿いにある竹之内に集落の周囲に濠でめぐらしたものが多く大和は室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け自衛手段として外敵の侵入を防ぐための方法から集落の周囲に濠をめぐらして橋を出入口に掛けていました。環濠も現在では戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿をと留めています。竹之内町のように標高100mの山麓にあるのは県下でも数少ないところです。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■夜都伎神社(やとぎじんじゃ)■北緯34度34分59.6秒■東経135度50分52.9秒 |  | ■夜都伎神社は天理市乙木町の北方、集落よりやや離れた宮山(たいこ山)に鎮座し、俗に春日神社といって春日の四神を祀っている。乙木にはもと夜都伎神社と春日神社との二社がありましたが夜都伎神社の他社を竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社にし社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社です。この神社は昔から奈良春日神社に縁故が深く明治維新までは夜都伎神社から蓮の御供えと称する新選を献供し春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたと伝えられている。現在の本殿は明治 | | わらぶき屋根の夜都伎神社 | | 三十九年(1906年)改築したもので春日造桧皮葺 高欄 浜床 向拝付彩色七色の華麗な同形の四社殿が末社の琴平神社と列んで美しいものです。拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築(49年葺替)もとは神宮寺で十来子(十羅刹)を祀っていた。鳥居は嘉永元年(1848年)四月奈良の春日若宮から下げられたものと伝えらています。鳥居が集落の方位からはずれ神社からも遠ざかっているのは山の辺の道に面して建てられたからです。鳥居は、もと二基あって現在の朱塗の鳥居は二の鳥居で一の鳥居は、これより西、三昧田との境界にありました。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■内山永久寺跡(うちやまえいきゅうじあと)■北緯34度35分31.5秒■東経135度51分11.1秒 |  | ■内山永久寺跡は鳥羽天皇の勅願により永久年間(1113年〜1118年)に創建されたと伝えられてます。鎌倉時代には五町四方の境内に舎五十、堂宇二十余りを数えた巨大寺院で『太平記』によると延元元、建武三年(1336年)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したといわれます。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり伽藍はことごとく消滅、現在は本堂池だけが残るだけです。この本堂池には今も馬魚(ばぎょ・ワタカ)と呼ばれる、草食の珍しい魚が生息している。現在、馬魚は | | 石上神社の鏡池・東大寺の鏡池へも移されて県の天然記念物に指定されている。馬魚【ワタカ】伝説、この時代に後醍醐天皇(ゴダイゴテンノウ)が京から吉野に逃れる時、この内山永久寺のカヤの御所で一時身を隠しました。その時、後醍醐天皇の乗る馬が敵に見つかるのを怖れ、この池のほとりで首を切り落としましたた。その首が池に落ちて亡くなった馬の亡魂がこの馬魚になったとの言い伝えです。また、この池の桜が美しく池の西には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立てられています。 |
 | ■藤田美術館に絹本著色両部大経感徳図があります。これは内山永久寺にあったもので記録から保延二年(1136年)の作とわかります。数少ない平安絵画の基準作として貴重なものです。藤田美術館は大阪市都島区網島町にある東洋古美術を中心とした私立美術館です。 ■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
| ■石上神宮(いそのかみじんぐう)■北緯34度35分51.7秒■東経135度51分05.0秒 |
 |  | | 石上神宮楼門 | 石上神宮拝殿 | | ■石上神宮は別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神、等呼ばれています。また、日本書紀に記された神宮は伊勢神宮と石上神宮だけでした。天理市にある式内社(名神大社)で旧社格は官幣大社であり中世には二十二社の中7社のひとつとされています。古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する、非常に歴史の古い神社である『古事記』『日本書紀』にすでに石上神宮・石上振神宮との記されており古代軍事氏族である物部氏が祭祀しヤマト政権の武器庫としての記録があります。また、古くは斎宮が居たという本当に斎宮であったか疑問が多いが布都姫という名が知られています。石上神宮の言い伝えでは布都御魂剣は武甕槌、経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡りました。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが崇神天皇七年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し石上大神として祀ったのが石上神宮の創建です。神階は嘉祥三年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観九年(868年)に正一位。延喜式神名帳には大和国山辺郡石上坐布都御魂神社と記され、名神大社に列して月次、相嘗、新嘗の幣帛に預ると記されています。中世以降は布留郷の鎮守となりましたが興福寺とたびたび抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発戦国時代に入ってからは■織田信長(おだのぶなが)の勢力に負けて神領も没収されたましたが氏子たちの信仰は衰え |
| ず、明治四年(1871年)には官幣大社になり明治十六年(1883年)には神宮号を再び名乗ることが許可されました石上神宮には本殿は存在せず拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」 「御本地」などと称して祀り、またそこには二つの神宝が埋斎されていると伝えられています。1874年の発掘を期に出土した剣七支刀(しちしとう・ななつさやのたち)は五世紀中頃に東晋で鋳造され、百済経由で倭王の旨(神功皇后)に贈られた剣鉄、石上神宮に現存・布都御魂剣(三霊剣の1ッ)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1913年に完成しました。禁 |  |
 | 足地は今もなお布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれています。また、三霊剣とは十握剣(とつかのつるぎ)イザナギノミコトから息子のスサノオノミコトに贈られ■ヤマタノオロチ退治に使用された剣、鹿島神宮に現存していて石上神宮にも祀られています。布都御魂(ふつのみたま)武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が使用した霊剣 神武天皇東征でもその名を記されている鹿島神宮に現存していて石上神宮にも祀られています | | 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)三種の神器のひとつで建速須佐之男命(須佐乃袁尊・タケハヤスサノオノミコト・タテハヤスサノオノミコト)が八つの頭をもつ八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に、その尾から出てきた剣で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征にも使用された霊剣です。名古屋の熱田神宮に祀られています。■トップページへ■■先頭ページに戻る■ |
 | 『石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれば 更にさらにするかも』と万葉集にうたわれたこの石上神宮は神武天皇東征の時に力があった神剣、布都御魂大神(ふつのみたまおおかみ)を主祭神として物部氏が祀ってきました。また、非公開の百済王から贈られた七支刀(ななつさやのたち)も伝承しています。拝殿は京都の宇治上神社と同じく最も古い神社です。 | | ■トップページへ■■先頭ページに戻る■山の辺の道より見た二上山に沈む夕日PhotoByTakeoka
 神話の世界から古代ロマンへつづく日本最古の『山の辺の道』 ※天皇陵写真掲載宮内庁許可(無断掲載写真転載禁止)
山の辺の道最古の道 |